第十四回 江戸名所を巡る 下総国府界隈(後編)

50分位の食事休憩を取り1時過ぎに出発しました。

大きな欅の下に下総国総社跡とありました。総社はその国の六ケ所の神社を集めたところで下総一宮は香取神社、二宮は寒川神社(船橋市)とも玉崎神社(旭市)とも云われ他は不明との事です。

市川市のスポーツセンターの入り口に感激像があります。オリンピックのヘルシンキ大会(昭和27年)で左はレスリング金メダルの石井庄八さん、右は体操銀メダルの上道忠夫さんをモデルにした銅像です。なんと逞しい姿でしようか。

バス通りを歩き東京医科歯科大教養部の内部に入らせてもらいました。少し進むとすぐに小さな森があり、そこが法皇塚古墳だと知りました。袖型横穴式石室がある58m、高さ5mの前方後円墳です。私たちは後に回り形がよく見える場所でしっかり眺めました。

再び通りに出て国府台病院の先の信号付近が上総国からの古東海道らしいとの事でそちらの方向を眺めてから又進みました。

午前中に弘法寺の砲兵連隊碑を見ましたが、その連隊のレンガ塀が残っていました。

直ぐの道の反対側に式正織部流茶道の少し荒れているようにも見える茶室がありました。古田織部正重然は信長、秀吉、家康に仕えた3万石の大名で千利休の弟子で秀忠はじめ諸大名に茶法を伝授していましたが大阪夏の陣で豊臣方に内通した疑いで切腹、一族は滅びました。しかし古田家の傍系により茶道は継承されているとの事です。講師から一番わかりやすいのは織部焼きですよと云う説明にあーと皆様納得された様子でした。木下間の中に茶室と隣接する部屋があり人影を感じました。

里見公園の横の道を通り14時頃に総寧寺へと入りました。とても格式の高い寺でここで行列を解かなければいけない下馬石が門の前にありました。関宿城主の小笠原政信夫婦の墓である五輪塔があり高さが7m余、空・風・火・水・地が彫られていました。

里見公園の横を通ると国府台城跡の表示がありました。文明10年(1478)扇ケ谷上杉の家臣である太田道灌が陣を構えたのが始まりとの事です。

ばら園を横目に見ながら羅漢の井へと降りていきました。江戸名所図会にも描かれたもので谷地の湧水地です。

坂を登ると北原白秋がしばらく住んでいた家屋と歌碑がありました。

展望が開けていて広重の「鴻の台とね川風景」の場所が広がっていました。矢切の渡しのある場所の表示もありました。

少し土地が尾根のようになっている場所の先に石棺が2基ありました。全長40mの前方後円墳を歩いていたのです。太田道灌が千葉孝胤を攻めた時に築城し盛り土が失われ石棺が剥き出しになったのです。

近くに里見軍戦死者の慰霊碑が並びその傍に夜泣き石が石棺の蓋を台座に置かれてありました。夜泣き石とは国府台合戦で戦死した里見弘次の末娘がはるばる安房から父の霊を弔う為に来て石にもたれて泣き明かし亡くなってそうです。その晩から泣き声が聞こえたので人々は夜泣き石と呼んだとの事です。

里見公園内の薔薇園をやっと見学できる休憩が15分位ですがありました。丁度、見頃の薔薇に私たちは酔いしれました。プリンセスミチコ、アイコ等、美しく香りの何と良い事でしようか。市川市の薔薇も入口付近にありました。それぞれに写真を撮り堪能しました。

里見公園に別れを告げしばらく歩きました。和洋女子大の側付近くに下総国府跡があったとのことです。下総国駅井上(イカミ)と書いた土器や軒瓦。和同開珎などが出土しているのでこの辺とされたそうです。

千葉商科大学を下ると国府神社がありました。日本武尊が陣を張り武蔵国に向かおうとした時にコウノトリが浅瀬を教えてくれ無事、武蔵国に着きました。その事から下総のこの台地を鴻の台としました。脇の階段は上らずに、この中腹で話を済ませました。

通りの右手の土手を上がり市川関所跡を見ました。関所には軽き関所と重き関所がある事を知りました。ここは重き関所という事で江戸へ入る人、出る人を取り締まったそうです。

薔薇の町を打ち出している市川に別れを告げ、江戸川を渡り武蔵国に入りました。北小岩の交差点を過ぎガード下を潜ると小岩の一里塚跡です。ただ立看板があるだけでした。日本橋から四里という事です。

又来た道を戻り5分位で日蓮宗本蔵寺に着きました。こちらは関所役人を代々勤めた中根氏の館跡で菩提寺です。

すぐ傍に真言宗豊山派宝林寺がありました。関所にあった常夜灯が移されていました。刻みのしっかりした文化元年(1806)の庚申塔を見ました。三面の恐ろしい顔をした馬頭観音も拝見する事ができました。

道標は安永4年(1775)のもので慈恩寺道標と言われ埼玉県岩槻の慈恩寺へ参詣する信者の為のものです。御番所町跡がありました。佐倉道と元佐倉道とが合流するところで岩槻道にも接する交通の要所でした。

2~3分で本日最後の北野天神です。そっくりの鳥居が重なるように立っていました。梅と稲を一緒にした赤色の紋が特徴です。江戸時代この地にあった稲荷神社と北方に北野神社が明治42年に合併し昭和31年に須賀神社を合祀しました。ごろごろと力石が並べられていました。これは三宮卯ノ助が持ち上げた石です。「中山道でも桶川宿の稲荷神社に大盤石が在りましたね」と講師は言いました。

すぐ傍のガード下に江戸川駅がありました。木曜日は人数の関係で4時半になりましたが火、土曜日は30分程、早く終了しました。

千葉商科大学食や薔薇園といつもと異なる名所巡りができました。皆様、疲れさまでした。

江戸名所巡り第一部はあと二回となりました。皆様大いに楽しみましょう。

 

天平を偲ぶ朱門や風薫る

色形皆それぞれにばらの花    豊治

 

手児奈てふ万葉美人碑緑陰に

薔薇園の先にホームと車椅子

プリンセスアイコの薔薇のうすももに  慶月

 

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第十四回 江戸名所巡り 下総国府界隈(前編)

令和元年5月14日(火)16日(木)18日(土)の3日間、新緑の中を気持ちよく歩く事ができました。

10時に京成本線国府台駅に集合し、大体時間通りに出発できました。国府があった場所がなぜ「こうのだい」と読むのかという説明で諸説あるが鴻の鳥がこの辺りに多く居たとの説明を聞きました。

しばらく線路沿いを歩き左に曲がるとそこが万葉集の和歌が鑑賞できる通りでした。山部赤人、額田王、山上憶良、詠み人不詳等と、どれも達筆で表示されていました。個人の住宅の塀にあるのを一つ一つ熱心に読む方もいらっしゃいました。

この辺りの地名は真間(ママ)といいますが崖線、土手の崩れの意味を持つ古い言葉で万葉集の時代には、湾は今より北方にあった様で入江がいくつもあったそうです。州から州へ架橋があり、その名を残す継橋を渡りました。そして国府台は下総国府の中心であり、川と海に行き交う人々で賑わったそうです。

継ぎ橋という名前が残る橋を渡りました。

手児奈は629~642年の頃の葛飾真間の国府に勤める国造の娘で大変美しい人で遠く都にも聞こえていて万葉集の歌にも再三出てくるとのことです。

この美しい人は嫁ぎ先の国造と実家が争いになり逃げて一人で子供を養っていましたが、その美しさゆえに周辺の男たちが言い争うようになり入水したのでした。1501年に弘法寺7世の日与上人によって手児奈霊堂が建立されました。池には白い睡蓮とその葉で被はれていましたが此所が真間の入江の名残とされています。安産講記念碑はとても珍しいとの事です。

10時半過ぎに日蓮宗弘法寺亀井院に入りました。湧き水が瓶に満々と満ちていた事から瓶が亀になったということです。手児奈が水を汲んだという井戸がありました。男達は朝早くから彼女を見るために集まったそうです。井戸の周りを一廻りさせて頂きました。白秋の歌碑「蛍飛び真間の小川の夕闇に蝦(えび)すくう子か水音立つ」

私達は真間の住宅地を進みました。先程、見た石段のある日蓮宗弘法寺の場所に出ました。中頃の一つだけ常に濡れているという涙石も見ながら上がりました。日光に運ぶ石を弘法寺の石段に使用した罪で作事奉行の鈴木長賴が切腹したとの言い伝えがあります。それ以降、涙で濡れるようになったといいます。

上がると直ぐに一茶の碑「真間で斯(こ)う拾ひしよ散紅葉」楼門の金剛力士は運慶の作で「真間山」の額の字は弘法大師の真筆という説があります。袴腰の鐘楼が赤くて新緑の中にありました。

境内を進むと伏姫桜という大きな垂れ桜がありました。これは南総里見八犬伝の里見義実の娘にちなんだ樹齢400年の見事なものでした。実際のモデルの姫は里見義堯の娘である種姫です。その奥に戦前の砲兵連隊の碑がありこの辺に大きな連隊があった事が分ります。

本堂の前を先に進むと広重の絵の場所に着きました。この寺は紅葉で有名でした。丁度、紅葉のピンクの羽(花)が沢山付いていて綺麗でした。

奥の方に43メートルあるという前方後円墳墳がありました。

日蓮の真刻と伝えられる大黒天が祀られていました。

文化5年(1808)の道標があります。「国分寺 五町」「真間山」が読めました。

10分位歩くと郭沫若記念館に着きました。大正3年から日本に留学し九州大学医学部を卒業しました。その後、蒋介石に追われて日本に亡命し市川の須和田で10年間過ごしました。日中戦争時に密かに日本を脱出し中華人民共和国では政務副総裁等で活躍したそうです。日本人の妻や子供の事も聞きました。

土曜日は中に入ることができました。あまり時間はなくじっくり見せてもらう事は叶いませんでした。11時半に近づいていた頃、記念館を後にしました。

7分~8分程あるき下総国分寺跡に着きました。新しい律令時代の門が現れました。右の仁王が江戸時代のもので左の方は新しい仁王さまでした。現在は真言宗国分山国分寺という名前です。

土曜日は法鼓が鳴っていて趣きを感じました。広い参道を進みました。馬頭観音は馬が犬よのうであり光背もあり、私たちを引きつけました。安永2年とありました。

 

 

お昼少し前に平川の跡を見ました。鏡石はこの辺にあったそうですが暗渠となっていて両側は住宅地となっています。

 

本日のお昼の場所の千葉商科大学を目指して10分位あるきました。12時前後に学食に入りました。平日は12~13時までは学生さんが中心ですので私たちは外のイス、テーブルで頂きました。450円と550円どちらか選んで食券を買うのです。

安くてボリュームがあり、美味しく頂きました。

後編に続きます。

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第十三回 江戸名所図会巡り 瑞江・江戸川界隈 後編

 

13時過ぎに行徳道の説明板の前に集合し、瑞江大橋の前を通り中川沿いを南下しました。大きな今井水門を通り過ぎ右へと曲り花水木の花の下を進みました。

13時半前後に浄土宗西光寺に入りました。入り口に塩舐地蔵がありました。

すぐ側の真言宗豊山派真福寺の門を潜り稚児大師像を拝しながら進み、橋本家奥津城という墓を拝見しました。橋本省吾は旧下今井村出身で明治27年衆議院議員となり海苔養殖に寄与し、初代葛西浦漁業協同組合長となった人です。又、法印中阿筆子塚という台座に筆子中が刻まれていました。有縁無縁三界万霊塔には古い石仏が並んでいて感慨深く印象的でした

2~3分で熊野神社がありました。江戸中期の創建で「おくまん様」と呼ばれ旧下今井村の鎮守です。神社の前の江戸川は湾曲していて流れが早く「だし杭」を打ってあったので「おくまんだし」と呼ばれていました。水がきれいで美味しく「奥まんだしの水」と言われた水は将軍家のお茶の湯として使われました。拝殿・本殿の屋根を見ると鞭架けがあり、これは伊勢神宮の神明造と同じですと講師が説明しました。ツツジやシヤクナゲがきれいに咲いていました。

すぐに宇田川家の長屋門と立派な庭が見えました。両脇に武者窓のある建築で現在の門は再建されたものです。宇田川家は宇喜新田3千石の開拓者で村役人を務めていました。お庭を覗くと富士塚もありました。

少し進むと古川親水公園がありました。古川の元の名は船堀川で寛永6年、新しい運河として新川を開削しましたので旧船堀川は古川と呼ばれ、その流れを親水公園としたとの事です。

行徳道道標がありました。古川の東の突留橋の袂から宇田川長屋門脇に移され、その後にさらに此の場所に移されました。

新義真言宗蓮華寺の本尊は聖観音で行基作といわれています。「虫除け不動」があり子供の癇の虫に効くとされています。

お手洗い休憩を10分程二之江コミユニティ会館で取りました。八重桜が咲いていました。

日蓮宗妙勝寺は黒門寺と呼ばれていて、趣きのある門を入っていきました。古川沿いのこの寺は江戸名所図会の絵ではなんと広い事でしょうか。弘安7年(1284)に堀江の浦に漂着した舟に乗っていた少年が平家の末裔と言われた日尚上人となり、徳治2年(1307)小堂を建てたのが始まりとの事です。

2~分で旧二之江村の鎮守の二之江神社がありました。樹齢500年以上の神木の欅がありました。神殿を見て先へと進みました。

環七通りを渡る歩道橋を降りるとまた親水公園が現れます。心安らぐ流れがずっと続いていました。

日蓮宗妙光寺の赤い門を入りました。七面殿の懸崖仕立ての長い松に驚き、日蓮宗の庭の手入れの美しさにいつもながら感心しました。

江戸川区はかつて金魚の三大産地の一つでした。堀口金魚養殖場の金魚の絵が見えています。日曜日しか開けていないとの事で、NHK朝ドラの「さくら」の祖父母の家として描かれているのが船堀のこちらの金魚屋さんとの事でした。

10分位歩くと日枝神社に着きました。旧東船堀村の鎮守で慶長19年(1614)の創建です。二ノ鳥居の中に赤い社があり神明造りでやはり鞭架けが着いていました。こちらにも富士塚がありました。

真言宗豊山派の光明寺には15時半前後に入りました。庭の間を通り本堂までの植え込みを楽しみながら進みました。慶長19年(1614)雲切不動尊を勧請したのが始まりとの事です。門前の道は横町に入る進路になっているので「横道の不動様」と呼ばれ、眼病に御利益があるとのことで信仰されています。

2分位で本日最後の浄土宗法龍寺に入りました。食用蛙供養塔が新しく建てられていてその横に古いものが横たわって置かれてありました。大岡勇喜頌徳碑は大岡学校(私立小)生徒が先生の亡くなった2年後(明治31年)に建立しました。

アルミケースの棚には所狭しと蛙の置物がありました。

 

奥に進むと門の内側に「山椒のお花」の新しい墓がありました。お花は賭場で生きる小柄の可愛い人でしたが、股にあるカニの入れ墨に男たちが惑わされてしまうのでした。ある日、賭場が終わった明け方、舟で新川を渡っていた時に男達に突き落とされ沈められてしまいました。法龍寺の住職がかわいそうにと思い供養したとの事です。

16時近くになって、一路船堀駅に向かいました。左に曲がると見慣れない塔が見えました。

タワーホール船堀へと、ちよってわくわくしながら入りました。エレベーターを乗り継ぐ場所にはエレベーターガールさんが!最上階からの115メートルの眺めを楽しみました。新宿のビル群や海蛍の白い建てものなど、360度の視界が広がっていました。春霞は何ともし難くそれでも爽快感を味わう事ができました。無料なんてやはり江戸川区は裕福なんだろうなあとどなたかの呟きが聞こえました。

16時頃、自由解散しました。ビルのレストランでお茶など愉しまれた方もいらっしゃいました。

タワーの目の前が船堀駅です。皆様お疲れ様でした。平成の江戸名所巡りは終わりました。令和になった5月にまた元気よくお会いしましょう。

 

鯉のぼり武将慰む松の上

水ぬるむせせらぎの子ら声高し

荒川の水面照り映ゆ春の夕    豊治

 

長閑しや浅き流れに沿うてゆく  慶月

 

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第十三回 江戸名所巡り 瑞江・江戸川界隈 前編

4月の江戸名所巡りはいつものメンバーに新しい方が2名加わり16日(火)、18日(木)、20日(土)の3日間楽しく巡る事ができました。

都営新宿線、瑞江駅を10時にスタートしました。外に出ると桜は終わりましたが若い緑が美しく目に飛び込んで来ました。

しばらく南方に進み10時20分頃、元はお寺の境内だったという豊田神社に着きました。旧下鎌田村の鎮守で天照大神と経津主神を祭神としています。樹齢200年以上という大欅にまず近寄りました。根は大丈夫かしらと思うくらい大きな洞がありました。

嘉永元年(1848)の石灯籠があり台座に寄進者の氏名が巻物状に彫られているのが大変面白く珍しいとの事です。そしてこちらにある富士塚は高さ3メートルで「くの字形」の登山道で裏には大沢崩れまで造っているのが特徴です。現在も富士講の講員が110名余という事にも驚きました。

文政9年(1826)に信者12人に依って建立された成田山不動明王道標が角に建てられていました。しばらくの間は豊田神社に移されていたのを最近、土地の人々の尽力で昔の成田道に近い村の境であったこの場所に移されたとの事です。

すこし進み東瑞江交番の横に地蔵堂と延享5年(1748)、文化元年(1804)、天保10年(1839)の三基の庚申塔があり邪鬼やシヨケラ等を鑑賞しました。土曜日は地蔵堂の中が見られました。中央にお地蔵様、左に如意輪観音、右に庚申観音があり34体の観音様と三猿が彫られているとの事ですが肉眼では分りませんでした。

その脇に今では珍しくなった半鐘のある火の見櫓が建っていました。

1~2分で内山家が毎日、お世話をしている道六神が門の右手にありました。道六神は道祖神の一種という事ですが内山家の奥様が毎朝、水と榊を取り替えていらっしゃいます。家の屋号が「どうろくじん」なのが良く解りました。

11時頃、浄土宗明福寺に入りました。土曜日は聖徳太子の講(4月の第三土曜日)で賑わっており出店も開いていました。出羽三山記念碑(羽黒山、月山、湯殿山)が目立たない所にありました。少し進むと太子堂があり、扉が開いていたので中を拝見することができました。親鸞聖人が所持していた太子の僧形立像と親鸞ゆかりの毘沙門天と観音菩薩が安置されているとの事です。

 

その隣には親鸞堂があります。聖人像は鎌倉時代又は室町時代の作とされています。建物の白い漆喰と青い屋根が目立っていました。

本堂の横手から奥に入らせてもらいました。袈裟掛の松の傍に鏡ケ池がありました。聖人が自らの姿を映し自分の像を彫ろうとした池だそうです。石仏が中央にはめこまれている宝篋印塔は大変珍しく皆で拝見しました。

ルンビニとはお釈迦様がお生まれになった土地の名前だと知りました。

5~6分で次の八雲神社に着きました。祭神は素戔嗚尊で田や水の神として信仰されています。神紋が祇園守紋で胡瓜を切った図柄に似ています。土地の人々は胡瓜を食べる時は家族の名を書いて胡瓜を八雲神社にお供えして食べたとの事です。又、切る時には神紋と同じようにならないように斜めに切ったという事です。ちよっと面倒ではありますが神様を崇める村人の心情なのでしよう。

 

浄土宗浄興寺に行く途中の細い道にはザリガニと蛙の絵が描かれた柱が立っています。

浄興寺の本堂の前にそびえていた松は北条氏康の紀行文が元で「琴弾きの松」と呼ばれ、その後、国府台の里見軍の様子をうかがったというので「物見の松」とも呼ばれました。現在の松は二代目の松と云うことです。松の向こうに鯉のぼりが泳いでいます。

新川梨を創った大塚宗蔵の大きな記念碑がありました。梨の由来など講師が説明した中で平安時代には「ありの実」と呼んだということがおかしくていつまでも頭に残りました。又、明治21年に20世紀梨が松戸市でできたと知り、千葉県が梨の産地になったということもうなずけました。その大塚宗蔵の墓もありましたが遠目に拝見するだけでした。

歴代の住職が寺小屋を開き村民の教化に努めたので墓の先が筆の形状になっている筆塚も見ました。そして重厚な門を後にしてもと来た道を歩きました。

7~8分で香取神社に着きました。戦国時代の永禄7年(1564)の創建で旧上今井村の鎮守で祭神は経津主命です。大銀杏の樹齢は不明ですが朽ちている部分と側から立ち上がっている部分があり生命の力強さを感じながら若葉を眺めました。

こちらにも富士塚がありました。2メートルくらいの高さの頂上に石祠が祀られていました。大きな庚申塔が春の日に向いて立っていました。

道路に出て名所図会にもある今井の渡し跡の説明をうけました。今井は下総国と江戸を結ぶ交通の要衝だったそうです。

河沿いを歩き4~5分で浄土宗誠心寺へ入りました。こちらには室町時代の木造聖観音菩薩像や木造薬師如来像、木造阿弥陀如来像が文化財として残っています。私たちは外にある珍しい庚申塔を拝見しました。養の字を「美良」に横に並べた異形文字を見て、笠付の円柱型の庚申塔も珍しく元禄10年(1697)の物でした。

12時も回り一路昼食の場所である一之江駅周辺を目指しました。中川の橋を渡り駅前で55分のお昼休憩を取りました。中華、餃子、マック、すき屋などのお好みのお店に入りました。

後編に続きます。

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江戸名所巡り 第十二回 白鬚、橋場界隈 後編

50分から1時間の休憩を取り午後の部のスタートです。

隅田川沿いを歩き7~8分で対鴎荘跡に着きました。三条実美の別荘跡で実美は閑静な橋場の風景を愛していたといいます。明治政府の太政大臣後に内大臣を務めた人で明治6年に征韓論を巡る対立の板挟みとなり病み静養をしていた場所です。明治天皇行幸碑が建てられていました。

隅田川の堤には説明板があり、この橋場の渡しは伊勢物語の在原業平が渡河した渡しであると書かれていました。また頼朝が船を並べて船橋を渡った事から「橋場」という名が残ったという事です。

白鬚橋を渡り江戸名所図会では朝日神明社とある石浜神社に入りました。聖武天皇の勅願により神亀元年(724)に創建されました。関八州の庶民が伊勢神宮の替わりに詣でたという事です。丁度おかめ桜が満開で春らしい風景を満喫できました。色々な石碑を見る事ができました。新しい獅子の口の賽銭箱はひときわ目立っていました。白狐祠や富士遙拝所もありました。

本殿にお参りしたので伊勢神宮に詣でたつもりになり、華やかなおかめ桜に分かれを告げました。

石浜城跡は室町時代、武蔵千葉氏の居城でしたが後北条氏滅亡により廃城となりました。

又、白鬚橋を見ながら川に沿って進むと右手奥に天台宗不動院がありました。樹齢700年の大公孫樹(銀杏)は葉がない姿でしたが手をあてて大木からの気をもらいました。

2~3分程進むと世界救世教教祖生誕の碑がありました。大本教の幹部であった岡田茂吉が起こしました。特徴は、浄霊という「手かざし」の行為と自然農法推進、芸術活動を行う事です。箱根や熱海に大きな美術館があります。通りを曲がると自然農法で育てた野菜などを売っている店がガラスの奥に見えましたが、気になりつつも先に進みました。

4~5分で廃寺となったらしい松吟寺跡に古い民家とお化け地蔵がありました。享保6年(1721)建立で浅芽ケ原のお化け地蔵と呼ばれていたものが総泉寺参道の傍を経てこちらに移ってきました。お化けと言われる理由の三つを説明されました。①笠の向きが時々変わった②高さ3メートルの大きさだから③白井権八との伝説。何にでも謂われはあるものですね。

7~8分歩き少し入り組んだ所に平賀源内の墓が築地塀の内にありました。曹洞宗総泉寺が板橋に移転する時に源内の墓だけは残して欲しいという地元の要望があったという事です。源内は享保13年(1728)讃岐国高松藩志度に生まれました。江戸に出て田沼意次や諸藩の大名とも交流したそうです。本草学者、地質学者、蘭学、医学、浄瑠璃、戯作者、発明家等マルチな才能ぶりには驚くばかりです。土用の丑の日に鰻を食べる習慣をつくったとも言われています。源内の墓に寄り添う小さな墓は、従者の福助のものといわれています。

10分位進み橋場地区から清川地区へと入っていくと玉姫稲荷がありました。天保宝宇4年(760)山城国稲荷山より勧請したとの事です。新田義貞が北条高時追討の際に戦勝祈願したそうです。木曜、土曜は神社の好意で拝殿の中の弁財天を見せて頂く事ができました。色彩やかなお姿と光背も面白く、玉姫命女神の棟方志功の絵が艶やかさを加えていて嬉しく拝見致しました。

そばに小さな口入稲荷があり小さな狐の人形が並んでいました。花柳界の女性がいい旦那が欲しい時に狐の人形を買って頼みます。旦那が見つかると雄雌揃えて人形を納めるそうです。その狐が今戸焼きです。14時半を少し過ぎました。

また橋場の方に戻り妙亀塚を見ました。こちらは梅若伝説の梅若の母が梅若を探していて、死亡した梅若を知り悲しみのあまり鏡ケ池に入水したのを哀れみ妙亀塚を建てたということです。

直ぐに曹洞宗出山寺に着きました。采女塚は説明板だけでしたが吉原の遊女と若い僧の悲恋の話が残っていました。花大根という諸葛菜が花盛りでした。其角の句碑「くさぐさの今にのこるや人の口」は石の凹みもなくなり読み取ることができませんでした。

通りに戻ると千賀ノ浦部屋の看板が目に入りました。元関脇の舛田山の優しい顔が浮かぶと同時に貴乃花部屋の消滅で移籍した貴景勝を思うのでした。

千賀ノ浦部屋のすぐ横に曹洞宗福寿院があり、こちらでは安藤東野の墓を見ました。江戸中期の儒学者で柳沢吉保に仕えていた時に、たまたま立ち寄った将軍綱吉に講議をしたという話があります。早くに隠居し肺を病み37歳で死去しました。

2~3分で浄土宗保元寺に入りました。昔は法源という字だったと聞きました。

本堂の右手に榎本武揚一族の墓がありました。家の歴史から武揚の生涯が石に刻まれていました。明治維新政府に仕えるまでここ保元寺に隠居していたことを知りました。

桑田立斉の墓がありました。日本で最初に天然痘の予防接種を実施した人です。五輪塔は梶原氏祖の鎌倉(梶原)景通古塔という事です。

さて、ここ保元寺での一番の収穫は本堂の中の高麗国伝来と伝えられる海月光大明菩薩像をこちらの住職の御好意で拝見できた事です。黒くても右手を優雅にあげられて、お顔はふくよかで腰のくびれが美しすぎました。

土曜日は住職のお話まで聴く事ができ、阿弥陀如来様の御名を呼べば救って下さるということでした。

15時半近くに日蓮宗長昌寺に寄りました。この辺りは寺町であったという古地図の説明を受け享保5年(1720)鋳造の鐘を見ました。鐘ケ淵に沈んだ鐘についての伝説が刻まれているとの事です。ミモザの花が真っ盛りで、なぜお寺にあるのかと思いつつ明るい春を感じました。

浅草病院(今戸二丁目)人権プラザ周辺は銭座跡という事で都鳥の名所でもありました。スカイツリーが運動場の向こうに見えています。

明治天皇が三条実美の対鴎荘に行幸した帰途の際、伊達宗城邸で休息の時に詠まれた歌です。「いつみてもあかぬ景色は隅田川難美路の花は冬もさきつつ」。

15時45分頃、浄土真宗称福寺に入りました。門を入ると本堂までの両脇に植え込みがきれいに手入れされていました。寛永6年(1629)創建で水道橋から寛永19年(1643)に当地に移りました。江戸後期の儒学者亀田鵬斎の墓がありました。朱子学を批判したので官学に反抗する筆頭として処分されたとのことです。

16時前、今戸神社の鳥居を潜りました。応神天皇、イザナギノミコト、イザナミノミコトが祭神です。鎌倉八幡宮と同じく京都の石清水八幡神社を勧請して創建しました。真円形の絵馬が特徴です。今戸焼きの職人が奉納した狛犬があるのも今戸焼き発祥の地で江戸名物の瓦や招き猫、狸や狐の人形を作っていた事が分ります。小さく沖田総司終焉の地碑があり、大河ドラマの俳優の美しい顔が浮かんできました。招き猫の置物の何と多い事でしようか。土曜日はいきなり雨が降ってきて早々に後にしました。

一軒だけ残っている今戸焼店を左に見ながら進みました。慶養寺の仁王像を見て通り、吉原に通じる山谷堀を右に見ながら浅草へと急ぎました。

アサヒビールのビルが金色に輝いています。北側の壁にスカイツリーが映っているではありませんか。頑張って歩いたご褒美の様に私たちは感じたのでした。

16時30分、浅草駅付近に近着きました。皆様、本日も盛り沢山で大変お疲れ様でした。

頼朝も祈願の社花開く   豊治

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江戸名所巡り 第十二回  白鬚・橋場界隈を巡る 前編

平成31年3月12日(火)14日(木)16日(土)の三日間、春の隅田川沿いを歩きスカイツリーが遠くに近くに見え隠れしていました。

 

10時に東武スカイツリーライン鐘ケ淵駅を出発しました。すぐ前の踏切がある通りは旧東海道(鎌倉街道下道)ですよと講師の説明がありました。

2~3分で着いたのが通称赤門寺と呼ばれている曹洞宗円徳寺で慶長18年(1613)の開山です。こちらでは、大変珍しい台座に三猿がある庚申阿弥陀立像を見ました。

陽光の中を歩いていると「しあわせだなあ」と加山雄三の言葉をおっしゃる男性がいらっしゃいました。この気持ちのよい春の日に好きな事ができている喜びを改めて感じながら歩きを進めました。昭和の古い木造の家が残っています。ここは近くに鐘ケ淵紡績の工場があったので、大東亜戦争の空襲で焼夷弾でなく普通の爆弾で攻撃をうけたとの事でポツリポツリと古い家屋が残っていました。

10時半ちかくに真言宗多聞寺の前で広重の絵を見て、隅田川が直角に曲がりそこに綾瀬川が流れ込んで淵を造っているので曲尺の形から「かねが淵」と呼ばれる難所だったと知りました。また運んでいた鐘が落ちたことから鐘ケ淵と呼ばれるようになった由来を聞きました。

多聞寺は平安中期の創建というのには驚きました。当初は隅田寺(グウデンジ)と称して本尊は不動明王でしたが天正18年(1590)にこの地に移り弘法大師作の毘沙門天(多聞天)を勧請して多聞寺にしたという歴史がありました。山門が切り妻造の四脚門で現在では珍しい茅葺き屋根となっています。享保3年(1718)建立と知りしみじみと見入りました。

榎本武揚の書である隅田川七福神碑の大きな石碑や六地蔵座像を見て本堂にお参りしました。

そしてここにも狸塚がありました。この寺に住み着いた狸が村人や旅人にいたずらをするので和尚が毘沙門天に祈ると翌日に大狸が死んでいたのでした。狸塚を建て霊を慰めたという事です。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の歪んだ鉄骨の側を通り多聞寺を後にしました。

もと来た道をしばらく歩くと旧鎌倉街道で旧東海道でもあった道を見て進みました。10時50分過ぎに真言宗智山派正福寺に入りました。慶長7年(1602)の開基で本尊は阿弥陀如来です。

又、都内最古の宝治2年(1248)の板碑に見入りました。大師堂や庚申講が寄進した三猿が彫られた手水盤もありました。首塚地蔵は天保4年(1830)、橋場付近の工事で発掘された多くの頭蓋骨の供養の為に建立されました。首から上の病に効験があるとの事です。

 

11時頃、都営白鬚アパートの前を通りました。隅田川神社参道跡の石碑がありました。

大きく長く連なっている都営アパートの前に建っているのは榎本武揚の銅像でした。天保7年(1836)下谷三味線堀に生まれ、天性の聡明さで昌平坂学問所で儒学を学び、その後オランダ語・英語を学び洋式海軍技術、蒸気機関製造等を習得し化学まで学んだとの事です。文久2年(1862)にオランダに留学し海軍技術や国際法規なども学び帰国後軍艦奉行や海軍副総裁など幕府海軍の核となりました。五稜郭の戦いで敗れ降伏するが明治政府にその人物を必要とされて、罪を許され海軍中将・逓信大臣・農商務大臣・文部大臣・外務大臣等々を歴任しました。

すぐ側に梅若塚がありました。伝承の謡曲「隅田川」として有名です。梅若は2歳で父を失い7歳で比叡山にて修行します。比叡山の争乱で逆けたところ人買にだまされ東国に連れてこられる途中で病となり12歳で亡くなります。里人が供養をしている所に梅若を探していた母が通り合わせ悲観の末、草堂を建て供養したのが木母寺の始まりという事です。家康は梅若山という山号と20石を与え保護したとの事です。

アパートの通路を通り反対側に出ました。災害時に10万人分の水と食糧と毛布が備蓄されているというこの大都営アパートの全体を見ました。屋上のタンクもとても大きくて防火用の赤い放水銃が目立っていました。公園の中にあるお手洗いも立派で災害時仕様という事です。

 

花壇を過ぎると天台宗木母寺にいりました。木母寺の由来は梅の字を分解して木と母の二つにしたものですと講師が言うと、おー!!と皆さんの声がしました。木母寺と梅若塚は元隅田河堤通り(榎本武揚銅像付近)にありましたが防災計画でこちらに移転したとの事です。人々の悩みや苦しみの身代わりになってくださるという身代わり地蔵尊にお参りしました。

梅若堂の中の美しい人形を見ながら「たずね来て問わばこたえよ都鳥すみだ川原の露と消えぬと」辞世の歌を思い石碑を見て回りました。

天下の糸平の碑がひときわ大きく建てられていました。藤島平八は信濃駒ヶ根の資産家に生まれましたが家は天保5年(1834)米相場に失敗し没落しました。平八は魚屋に奉公し独立その後、江戸に出て斉藤弥九郎の練兵館の門下生となり水戸天狗党に参加し投獄されました。慶応元年に商店を開業し為替・米相場等で巨利を得るも持船が座礁して財産を失いますが立ち直り、明治に入り横浜金穀相場会所頭取、東京株式取引所・東京米商会所設立など大実業家となりました。石碑は伊藤博文の揮毫です。

又、へび観音といわれている蛇の身体に顔が観音の像を見て蛇(青大将)が人々の暮らしの中で助けになっている話を聞きました。

先にも触れましたがこちらの隅田公園は災害の際の避難場所となっています。大きな七番の纏のモニユメントが建てられていました。

首都高の直ぐ下辺りに隅田川神社がありました。元は隅田川総鎮守で水神社と呼ばれていました。昔ここから入江が始まり海となっていたので「江の口」と言われ江戸の名前の元になった場所です。亀の狛犬とされていますがよく見ると耳があり贔屓に見えました。源頼朝が下総から武蔵国に渡る為に川に舟橋を架けた時に大きな亀が現れた奇瑞と喜んだという伝説によるものです。

フエンスの中の立て看板に「近代映画スタジオ発祥の地」がありました。日活のスタジオが明治44年に建設されたそうです。

10分ぐらい歩くと昼食を取るビルに着きました。フアミレスやインド料理等が入っていました。50分の休憩を取りました。

後編に続きます

 

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江戸名所 第十一回  入谷。谷中界隈を巡る(後編)

13時少し前から午後のスタートです。

江戸時代末期に御徒町では下級武士の間で朝顔を育てる事が流行したとの事です。入谷朝顔発祥の地碑を通り日蓮宗真源寺へと進みました。

入谷鬼子母神は祖師谷とともに有名です。「恐れ入谷の鬼子母神」は誰でも知っている言葉ですね。筆者は昨年7月の朝顔市でこちらのお寺の境内で一鉢買いました。あの時のにぎわいが嘘のように静かでゆっくりお詣りすることができました。

5,6分で小野照崎神社に着きました。平安時代の漢学者、歌人の小野篁が上野山国司として上野山忍岡の風光を賞していたと伝わっています。852年に篁の霊を忍岡に奉祀しましたが江戸時代に寛永寺が創建され、現在の地に祀られているとの事です。

天明2年(1782)富士山の岩石を運び造ったという富士塚を見ましたが、現在のものは文政11年(1828)に修復されたという事です。高さ5メートル、直径16メートルとなかなか見応えがありました。古い庚申塔もたくさんあり近くの物を集めたという事です。

13時30分頃、御行の松不動尊に着きました。輪王寺宮が上野山内の巡拝の際にこの松の下に来て必ず休まれたので御行の松の名が付きました。こちらの松は三代目という事です。側に子規の句碑がありました。「薄緑のお行の松は霞みけり」。

狸塚にはお若と伊之助の恋を両親が離しお若をこの辺りに住まわせました。お若は悲しみそれを見た大狸が伊之助に化けて再会しましたが、それを知った両親が人に頼んで殺しました。その後にお若は狸の双子を産んだが死んだという落語の話です。細い路地を入ると陸奥宗光の別邸がありました。

根岸一丁目の通りを歩いていると向かい側のビルに笹の雪とありました。元禄年間に上野の宮様のお供をして初代玉屋忠兵衛が京都から下向し絹ごし豆腐を作りました。創業320年で赤穂浪士や正岡子規ゆかりのお店です。

根岸田圃の道筋にあった庚申塔が集められていました。陸橋を渡りホテル街の中を進むと古い木の門の子規庵がありました。今日はゆっくり見る事ができませんでしたが、筆者が何度か訪れた時には子規が使った机が庭に向かって置かれていました。庭にはもちろん糸瓜の棚があり鶏頭やホトギスの草花が咲いていました。母と妹と三人で暮らしで門人たちが集まって句会を開き、多くの俳人を育て35歳の若さで亡くなるまで8年間住みました。

向かいには書道博物館がありました。2,3分で林屋一門の三平堂が三階建てでありました。

根岸薬師堂は輪王寺宮の隠居所で敷地が3000坪もあったそうです。

善性寺には将軍橋跡がありました。将軍の徳川家宣がこの寺に隠遁した弟をしばしば訪ねたので門前の橋を将軍橋と呼んだそうです。

角に見えているのは羽二重団子の藤の木茶屋です。現在は改装中という事で5分位の支店に向かいました。

日暮里の駅前に太田道灌の騎馬像があり、その後ろに山吹の一枝を差し出す娘の像もありました。ロータリーの角に藤の木茶屋で一緒に羽二重団子を買い求めた人が何人かいらっしゃいました。お店の内が空いていたらその場で味わうこともできましたが、土曜日は混んでいて持ち帰ることにしました。

14時45分、日暮里駅を後にして天台宗天王寺へと入りました。日蓮の弟子の日源が開山、不綬不施問題で天台宗に改宗されました。本堂は奈良の十輪寺を模したとの事です。

谷中霊園に入っていきました。五重塔跡がありました。まず立派なお墓に美しい供花を供えているのは長谷川一夫さんの墓です。水子の墓もありました。

甲14号右と左の両側に桜の古木があります。一旦、霊園を出て日蓮宗の本行寺に15時頃に寄りました。道灌物見塚は江戸城の防衛の為に築き、日夜見張りを置き監視させた丘です。永井尚志の墓は、旗本の養子になり幕府海軍の功労者が、鳥羽伏見の戦い、函館の戦いで敗れますが後に元老院に勤め76歳で死亡しました。一茶の句碑もありましたが、山頭火らしい句碑にちょっと心引かれました。

日蓮宗経王寺の門を潜りました。彰義隊の分隊が駐屯した寺です。そしてこちらの門にも銃弾の跡が残っていました。私たちは今回も又、上野戦争の激しさを思うのでした。

2,3分歩き真言宗豊山派の養福寺に入りました。江戸時代、多くの文人たちが「日暮里」を訪れました。こちらの養福寺でもさまざまな文人達の碑が残されています。

諏方神社前に別当寺の真言宗の浄光寺があります。こちらは雪見寺と言われていました。地蔵菩薩座像を拝見しました。庚申塔は手が八本ある珍しい物でそれぞれの持ち物を見て楽しみました。

15時半頃に諏訪神社を参拝し、とても立派な狛犬を見ました。鎌倉時代末期に、この地の豪族豊島氏が上諏訪神社を勧請したものです。

又、2~3分進むと道灌山は太田道灌の砦跡とも出城ともいわれ、草々の虫の音を人々は集まり秋風の夕暮れを楽しんでいたとの事です。何と風流ではありませんか。

16時少し前に富士見坂に出ました。こちらからはさぞかし美しい富士が見えたのでしょう。今もお天気がいいときはビルの間から富士山が見えるそうです。下り坂の先に谷中銀座のにぎやかな通りが見えています。これが有名な「夕焼け段々」ですと講師が言いますがじっくりと風景を味わう時間はありませんでした。

朝倉彫塑館のある細い通りを進みました。すぐに観音寺に着きました。大きな赤穂浪士供養塔があり、こちらは赤穂浪士所縁の寺だったのです。どっしりとした風情が美しい築地塀が長く続いていました。

16時過ぎに荼枳尼天を祀る笠森稲荷がありました。新しい社ですが狛狐は古いものでした。できもの(カサブタ)を治す稲荷です。

どんどん先へ進み左手に曲がると又、谷中霊園の墓地に入りました。高橋お伝の碑がとても大きく可愛い供花もありました。川上音二郎の円柱の碑も大きくて驚きました。大河ドラマの貞奴さんを思い出しました。

徳川慶喜の墓の矢印が見えましたが、その前にニコライ大主教の立派な墓があり花に囲まれていました。ニコライ堂に行った時に聞いた日本の苦難の際にロシアに帰り資金を集めて戻ってきたカザートン・ニコライ司教の事を思い出しました。

16時20分、いよいよ慶喜のお墓に着きました。左側が慶喜、右側が正室の美賀子の神式のお墓が並んでいます。慶喜は仏式でなく神式の葬儀を生前から望んでいました。又、近くにある同じ形の墓は、十男で勝家の婿となった勝精のもので目立っていました。

16時半過ぎに新義真言宗の西光寺に入りました。足病平癒を祈願する韋駄天像の石仏を見ました。

次に日蓮宗端輪寺の門を潜りました。こちらは大久保主水(神田上水を完成させた)の墓です。負傷したのちは神田に屋敷を構え菓子屋を開業しました。大岡越前守家の墓所もありました。吉宗が将軍になると享保2年(1717)に大岡忠相は江戸町奉行になり越前守の称を受けました。

臨済宗の全生庵へと進みました。金色の観音様が高くそびえています。こちらは山岡鉄舟の墓があります。勝海舟は知謀で江戸を幕末の混乱から救い、鉄舟は豪放さと勤皇の心で江戸を救ったといわれます。

又、三遊亭円朝の墓は鉄舟に可愛がられたとの事で文字は鉄舟が生前揮毫したものという事です。全生庵を後にした時はすでに17時を過ぎていました。

本日、最後に訪れたのは日蓮宗大円寺でした。唐破風が二つある本堂がとても珍しく美しく感じました。大円寺には笠森と音が同じ瘡森稲荷が祀れています。皮膚の病の願をかける時は土の団子をそなえお礼として米の団子を供えるという事です。笠森お仙の碑があるそうです。

17時過ぎ、急ぎ千駄木駅に向かいました。街の灯が目立ち始めていました。皆様、本日も大変盛り沢山の一日でお疲れさまでした。

 

春空や名のみとなりし富士見坂  豊治

弾痕は乳鋲の下に春の寺     慶月

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江戸名所 第十一回  入谷・谷中界隈を巡る(前)

2月火12日(火)、14日(木)、16日(土)4名の新会員が加わり、今回も寒さに負けず元気に楽しむ事ができました。

10時つくばエクスプレス浅草駅を出発しました。

5分位歩くと時宗の日輪寺に着きました。時宗檀林神田山日輪寺とありました。平将門の首塚の祟りを弔う為に建立した板碑は正和2年(1313)のものです。

すぐ横に虚子の弟子で時宗僧の河野静雲の句碑がありました。「あとやさき百寿も露のいのちかな」

10時15分頃、梅の下を通り浄土宗天獄院に着きました。銅造阿弥陀如来座像は129センチと大きく延宝8年(1680)の造立のものです。

又、江戸中期の儒学者細井平洲の墓を見ました。平洲は農家の次男で尾張国出身ですが江戸で私塾「嚶鳴館」を開きました。米沢藩主の上杉鷹山に招かれ教学や藩政改革を指揮したとの事です。後に尾張藩にも招かれ藩校明倫館の総裁となり民衆強化に努めたとの事です。

西浅草八幡神社の赤い柱が見えました。その側から東本願寺の大屋根が見え講師は北斉の富嶽三十六景の一枚を掲げて説明しました。屋根を修理している職人の動きまで描き込んでいる北斉ならではの構図の面白さにもみんなで驚嘆しました。

東本願寺に入る前に私たちは浄土宗清光寺の長谷川一夫の碑と岡崎勘六(書道勘亭流)を見て田沼家の立派な石に刻まれた名は三木のり平の本名(田沼則子)と知りました。

10時40分頃、東本願寺へと入っていき、土曜日は婚礼のお似合いのカップルを見る事ができました。

笠を被った親鸞聖人像と反対側に青銅の蓮如上人像がありました。銅鐘は寛永7年(1630)のものといいますから古いものですが高い塔の中でどうにも拝見する事は無理でした。

憲政碑というのは明治9年(1876)の地方長官会議(知事会議)の開催場所となり木戸孝允や勝海舟などが出席したそうです。

又ここ東本願寺は朝鮮通信使の宿泊所だったそうです。

商店街をちらりと見て、正定寺には玉川上水を作った玉川兄弟の墓があるそうですが前を通過して浄土宗源空寺に入りました。家康から寺領を与えられ徳川三代の菩提を弔う為に鋳造された銅鐘もあります。

墓地に入らせていただきました。東河伊能先生墓はあの伊能忠敬の墓です。師の隣(高橋至時)で眠っているとは心打たれる話ではありませんか。東岡高橋君とは至時の号が東岡で、幕府の天文方となり伊能忠敬に測量術を教えました。横に息子の景保の墓もありますがシーボルトに日本地図や将軍から賜った時服を渡した事で獄死したとの事です。幡随院長兵衛夫妻の墓もあり、このような型はとても珍しいとの事です。江戸時代に起こった光と影のような複雑な思いを胸に墓地を後にしました。

5~6分で通称かっぱ寺といわれる曹洞宗曹源寺に着きました。江戸時代の後期である文化年間(1804~18)に雨合羽商人の合羽屋喜八(川太郎)が水害から住民を救う為に私財を投じて新堀川の治水工事をおこないました。これに義を感じた大川の河童が工事を助け、この河童を見た者は運が開けると伝えられていました。川太郎は河童と共に福の神として祀れていました。

11時35分に臨済宗海禅寺へと入っていきました。尊皇攘夷論を唱え在京志士を指導したとして安政の大獄で捕らえられ獄中死した梅田雲浜の墓、おなじく安政の大獄で捕らえられ獄死した藤井尚弼の墓も並ぶようにありました。大きな亀趺は亀に似ていますが宋代の龍の九つの子供の一人で贔屓(ヒイキ)という名前です。重きを負う事を好んだといいます。又、ここでも金色の河童川太郎像を笑いながら眺めました。私たちは運が開ける河童を見たのですからきっと良いことがあるはずです。

11時45分から15分間、かっぱ橋道具街を自由に歩きました。ゆっくり見られたらどんなに楽しかったことでしようか。金物を手に入れたかったのですが店先の茶筅をひとつ記念に買い集合場所に急ぎました。入谷駅の近くで50分の昼食タイムを取りました。

後編に続きます。

 

 

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第十回 江戸名所巡り 浅草・上野界隈(後編)

 

13時20分頃からお昼を済ませて、下町風俗資料館を見学してから集合しました。火曜日の方は生憎、休館日と重なり申し訳ありませんでした。戦前、戦後まもない昭和の庶民の生活を垣間見ることが出来ました。懐かしいという方が大半でしたが、中には思い出したくないという方もいらっしゃいました。

不忍池の枯蓮の無残な風景を見ながら日向ぼっこをされている方もいらっしゃいました。14時半近くから午後の部のスタートです。前々回(第八回)千住界隈で訪れた曹洞宗円通寺に移された寛永寺の黒門をイメージしたモニュメントがあり黒門の弾痕跡を思い出しました。

上野公園の中に入り西郷像を見上げました。高村光雲作で愛犬のチンは東京美術学校の弟子の作との事です。

黒門のモニュメントのそばに彰義隊戦死の墓がありました。墓の正面の小さな墓石は埋葬場所から発掘されたものです。

清水観音堂の隅に秋色桜の碑を見ました。日本橋菓子屋の娘(9歳)の句を枝に結び付けて置いたのを輪王寺宮が感嘆し、この桜を秋色桜と名付けたといいます。秋色女はお秋の俳号で其角に学んでいたとの事です。その句は「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」筆者は花の季節に訪れた事がありますが、それは美しいべにしだれ桜でした。

清水観音堂へ入って行きました。国の重要文化財です。擬宝珠は日本橋のものと同じ作者との事です。天海が京都の清水寺を模して擂鉢山に建立しました。月の松は平成に復元されたものです。清水観音堂から月の松を通して不忍の池を見るのを江戸の人々も楽しんでいたのでしよう。

そして前方に進みますと琵琶湖に見立てた不忍池の真中にこれも竹生島に見立てた弁天堂がありました。しかし、こちらの弁天様は江ノ島から勧請した事が紋で解りました。


 

奥の院には聖天を祀っていました。江戸時代、中国の朱子学が盛んだったことからだろうと講師が説明しました。

鳥塚、ふぐの供養塔、包丁塚等があるのは不忍池が殺生禁断の場所だったことで、殺生をしなければいけない職業の人たちが供養塔を建てたとの事です。

花園稲荷神社には五条天神(医薬の神様)や穴稲荷がありました。山を追われた狐たちを哀れに思い天海上人が穴を掘り住処とさせたそうです。私たちはその穴を見てお詣りをしました。小さな狛狐が可愛いと眺めました。

火曜日は予想外に小雨が降りだしました。浅草の鐘より余韻が美しいといわれる時の鐘を見上げながら次へと進みました。

2〰3分で上野大仏とパゴダに着きました。建立当時は6メートルあったという大仏様は地震や火事で頭が落ち大東亜戦争での供出等で顔のみとなったのです。昭和43年にパゴダが建立されこれ以上落ちないとして合格祈願が多いそうです。

お化け燈籠は約7メートルもあり駿府城勤番の佐久間大膳(1万8千石)が寄進したものです。

東照宮へと入って行きました。牡丹園では寒牡丹の展示がされていましたが私達は先を急がなければなりませんので望遠で撮って先に進みました。

正面の金の唐門の両側に立派な青銅の燈籠がありました。一段と大きな燈籠は御三家からのものです。五重塔が西日に輝いていました。くろがねもちの赤い実がたわわに残っていて皆の目を引いていました。

数分で広い通りに戻りました。子規球場が少し見えていました。ベースボールを野球としたのは正岡子規だという事は有名ですが、ではどうしてでしょうかと講師が尋ねました。子規の本名はノボルだったからです!皆さん、笑いながら納得したのでした。

国立博物館が見えてきました。野口英世の像があります。中央の広い場所は、寛永寺の根本中堂があった場所で噴水が出来ています。

大きなシロナガス鯨のモニュメントを過ぎると両大師開山堂がありました。慈眼大師天海と慈恵大師良源(平安時代の天台宗の僧で厄除け角大師)が祀られています。右に曲がると小さな門は幸田露伴宅の門で谷中にあったものを移築したものです。その門を潜り本坊の表門を見ました。上野戦争の砲弾跡があります。小さい物、にぎり拳くらいの大きな跡等が生々しくて胸がつまりました。この山門は寛永年間のもので国立博物館の建設で現在地に移転しました。

国立博物館の道路をはさんで隣りに、鳥取藩池田家の江戸上屋敷の正門が移築されていました。こちらは以前国立博物館の正門として使用されていたとの事です。この威風堂々とした門こそふさわしいのにと残念に思いました。

京成電鉄の古い駅跡を見ながら右に曲がりました。子供図書館を過ぎ5分位で現在の天台宗寛永寺に入りました。

根本中堂と大きく書かれているのが本堂です。こちらは東叡山寛永寺根本中堂、あの比叡山延暦寺も本堂を根本中堂という事に気づきました。川越の喜多院の本堂を移築したもので葵の紋が金色に輝いていました。上野戦争碑記が大きく建てられていました。丸い石の虫塚は昆虫類の写生画家の増山雪斎が写生に使った昆虫を埋葬慰霊したものです。

まもなく寛永寺霊園の立派な門が見えてきました。外からしか感じ取れませんが一の御霊屋に四代将軍の家綱、十代将軍の家治、十一代将軍の家斉が葬られています。二の御霊屋には五代将軍の綱吉、八代将軍の吉宗、十三代将軍の家慶、その他に天璋院篤姫の墓もあります。

盛り沢山の訪問がやっと終了しました。スカイツリーが夕日に浮かんでいます。火曜日は少人数でしたので4時に、木曜土曜は4時半に鶯谷駅に着き解散しました。

浅草も上野も親しみのある場所でしたが知らない所があまりにも沢山ありました。皆様、大変お疲れさまでした。江戸名所巡りも今回で10回を無事終えることが出来ました。ありがとうございました。

寒晴れや敬天愛人西郷さん    豊治

 

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江戸名所巡り  第十回  浅草・上野界隈(前編)

新年おめでとうございます。本年も楽しく元気に江戸名所を巡りましよう。

1月15日(火)、17日(木)、19日(土)合わせて50名の方々と浅草、上野を巡りました。スカイツリーライン浅草駅を10時に出発しました。火曜日は曇り、木、土は冬晴れのお天気に恵まれました。

雷門入口へと進み天婦羅の三定の前を通ります。天保8年(1837)創業で三河から江戸に来た定吉で店名が「三定」です。栗むし羊羹の龍昇亭西村も道路の向こうに見えています。雷門が見えました。外国人でごったがえすいつもの光景です。

広重の絵の提灯は新橋の職人が作ったので橋の字がみえ雪景色がとても綺麗です。現在は雷門の字になっており新橋の字は本堂の提灯に残っています。

 

慶応元年の火災で焼失、その後、昭和35年に松下幸之助の寄進したものでちゃんと名前が入っていて、下側の龍の目にタッチすると縁起がよいとの事で皆で次々とタッチしました。

右側の仲見世商店街の裏の道をスイスイと歩き久米平内堂に着きました。平内は千人切りをしたとも云われています。臨終に際し、これまでに犯した罪を償うために自分の像を埋めて多くの人に踏んでもらいたいと遺言したそうです。「踏みつけ」が文付けとなり恋文と変わり縁結びの神として信仰を集めるようになりました。

その後方にある大きめの濡れ仏の二尊仏を拝見し、東にある弁天堂へ移りました。石段の手前に芭蕉句碑があり「くわんのんの いらか見やりつ 花の雲」の下方に線刻の芭蕉像が刻まれてありました。又、右手には「上野か浅草か」と詠まれた浅草寺の時の鐘がありました。

弁天堂は御本尊の弁天が白髪なので老女弁天と云われているそうです。本日は拝見したいものが多く、少しかけ足の感がありますが急ぎ宝蔵門へと歩みを進め、浅草寺の立派な扁額を見上げてから赤い仁王像を見ました。

裏側に廻ると大草履が新しく奉納されていました。手洗舎の龍に囲まれた沙喝羅竜王像は明治36年高村光雲作で均整のとれた美しさを感じました。

やっと本堂にたどり着きました。又、天井絵は龍と天女です。中国の観光客は日本にこんなにも龍が多いことに、どんな風に感じているのでしようか。ともあれ一人一人しっかりお詣りを致しました。絶対秘仏という聖観音は1寸8分と云われていますが見た人はだれもいません。

 

以前は工事中であった一葉観音に近づく事が出来ましたが美しいと云われているお顔がどうしても分からず残念でした。蓮の花びら一枚に乗り櫂を持たれて笠をかぶったお姿です。

西方にある銭塚地蔵は、庭でみつかった銭の壷を親は元の場所に埋めて働かずに銭を手にするとろくな事はないと息子たちに教え、子供たちはそれに応えて家は栄えたとの事で、その後、銭の壷の上を塚として地蔵尊を祀り金運の仏として信仰されるようになりました。

石橋の下の青い水に泳ぐ鯉たちにぎょっとしながら外国の人と眺めました。石橋は浅草寺に東照宮が造営された時に神橋として紀伊浅野家和歌山藩主が寄進したとのことです。その右手の西仏板碑は源頼朝の家臣の鎌田三郎西仏が建立したもので江戸時代に台風で三つに折れたものを修復していました。

六角堂は本尊が日限地蔵で日を定めて祈願するのです。境内最古(1618)の建造物です。

影向堂と、家光が名付けたという橋本薬師堂にもお詣りしました。

江戸名所図会にもある六地蔵石燈籠はお堂の内にあり図会のようにはよく見えませんでした。

江戸時代に女性の守り神として信仰された淡島堂に女性たちはしっかりと手を合わせました。針供養碑や子供が潜れば虫封じや疱瘡除けになるという石造物を興味深く拝見しました。

南方に少し進んで、半七の碑がありました。中山道の宿場の贄川から出て来て目明しになった半七が記録していたものを元にして、岡村綺堂が書いたものが半七捕物帖です。綺堂の庭にあったガマ蛙の置物が大きくて面白く笑いを誘いました。

三匠句碑は中央に芭蕉の句、両側に宗因と其角の句が刻まれていました。筆者としては右手にある正岡子規の句碑も気になりました。木曜日は瓜生岩子さんの命日で供養がなされていました。

又、本堂の近くにもどり鳩ポッポの碑、迷い子しらせ石標の説明を聞き第一回目の日本橋を歩いた時の一石橋傍にあったものを思い出しました。五重塔は昔は反対の場所にあったそうですが修復の後でとても鮮やかに輝いていました。

15分位のお買い物タイムを取りました。待ち合わせは雷門です。資料にある江戸時代からのお店を中心に見ましたが観光客の多さにままならない歩みでやっと着いた時には丁度集合時間となっていました。

11時20分頃、雷門に別れを告げ駒形堂へと南下しました。浅草川を往来する舟から見ると御堂が白駒が駆けて行くように見えて駒かけの御堂が転じて駒形堂になったという説に相応しく感じます。広重の川と空、ホトトギスに駒形堂の屋根を配した絵を観賞しながら吉原の二代目高尾太夫の「君は今 駒形辺り ほととぎす」を思い出しました。この駒形堂を中心とした十町余の川筋が魚介殺生禁断の地であったという事が昭和2年の工事で発見された浅草観音戒殺碑で解りました。

2,3分で駒形どぜうの越後屋が見えました。いい匂いがただよっています。大火で類焼した時(1806)に「とじょう」の四文字は縁起が悪いとして「どぜう」の三文字にしたとの事です。久保田万太郎の句碑「神輿まつまのどぜう汁 すすりけり」が入口脇にありました。実家も近くでこよなく浅草っ子を愛したといいます。

諏訪神社を過ぎ路地に入ると蔵前神社がありました。石清水八幡宮で五代将軍綱吉が江戸城鬼門守護として建立したとの事で勧進相撲が行われたそうです。鏡里や千代の山の名にはかすかに覚えがあり、栃錦は栃若時代を築いた人ですが大関の時代に奉納したのだなあと思いながら見つめました。

すぐに浄土宗正覚寺(榧寺)がありました。大きな榧の木がある草庵を囲碁好きの聖が営んでいて榧の木をかけて囲碁を打ち負けてその木が移されたとの事です。しかしそれが火伏の秋葉権現ゆかりの者であり、あの明暦の大火でも焼けなかったという逸話のある寺です。

少し西に進み川柳横町に入って行きます。柄井川柳の句碑(墓)がある天台宗龍宝寺に着きました。川柳の始祖である柄井川柳は檀家でありこの辺りの名主だったということです。「木枯らしや 跡で芽を葺け 川柳」の石碑が柳の下にありました。

 

丁度、お昼になり疲れも感じてきましたが上野までもうしばらく頑張らねばなりません。

浄土宗誓教寺に入ると左手におだやかそうな顔の葛飾北斎の胸像がありました。右手の墓地に私たちは入れて頂き、お墓を拝見しました。辞世の句は側面に「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」と正面には「画狂老人卍墓」とありました。どなたかが「立派な絵を残して下さりありがこうございました」と手を合わせていらっしゃいました。天があと5年生かしてくれたら本当の絵が描けるのだがと云ったとの事で、享年90歳でした。

真言宗高田派唯念寺は月光院(七代将軍家継の生母)の実家であり寺紋は葵の紋です。大奥年寄の絵島は月光院の右腕と云われました。絵島生島事件を起こした際、絵島は月光院の力添えで高遠藩お預けとなったとの事です。

 

12時半近くに浄土宗永昌寺に着きました。こちらは講道館発祥の地碑があります。嘉納治五郎が学習院教授時代に永昌寺に下宿していた時、住職の許可を得て講道館を起こし門人9人から始めたそうです。

通りを行くと下谷神社の赤い鳥居が見えてきました。奈良時代に創建された江戸で一番古い稲荷との事です。こちらでは横山大観の龍の天井絵を見る事が出来ました。木曜日は神事が行われていて申し訳ありませんでした。色彩は暗いのですが流れるような体の線にうっとりとしました。

門の側に黒田清子様の和歌が貼られていてお正月にお母様と過ごされた頃の思い出の和歌かも知れないと我々は鑑賞致しました。またこちらには寄席発祥の地碑もありました。

13時頃、やっと上野の西郷さんの像が見えてきました。陸橋を登り降りると上野の江戸時代からの老舗がポツポツとありました。

鰻の伊勢栄、櫛屋の十三屋、福神漬けの酒悦。斎藤茂吉、坪内逍遥、樋口一葉、森鴎外の作品に出てくる蕎麦屋の蓮玉庵。薬の守田治兵衛商店、組紐の道明等々をお昼前にかけ足で見て廻りました。

木曜日は運良く蓮玉庵に入る事ができました。お昼のメニユーでかき揚げ付きの蕎麦が千円を見つけました。量はすくな目でしたがとても美味でした。やかんで出された蕎麦湯が印象的でした。

後編に続きます。

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