第二部13回  早稲田界隈を巡る(午後の部)

午後の集合場所は夏目漱石誕生の地の案内板の前でした。小倉屋の隣です、慶応3年1月5日(1867・2・9)五男三女の末っ子としてこの地に生まれたとありました。記念碑の横には漱石の俳句の碑もありました。

通りを渡り少し入ると民家の様な浄土宗誓閑寺がありました。梵鐘は近在の住民の寄進により鋳造されたもので区内最古のものということです。銅造りの地蔵の半跏思惟像は文政元年(1818)のものです。本堂の中で拝見することはできませんでした。

元の通りに戻り夏目家があったというゆるやかな夏目坂を進みました。この辺りの名主である漱石の父が夏目坂と自分の姓を付けて呼んでいたのが人々に広まりましたと漱石の随筆「硝子戸の家」で書かれてあります。

すぐに日蓮宗本松寺に着きました。天正19年(1590)創建で承応2年(1653)に日念上人が開山しました。現在は小さな本堂があるのみでした。

すぐに日蓮宗感通寺がありました。 松平越後守の下屋敷跡ということです。 笹部桜の説明板が目を曳き木を見上げました。 大島桜の交配種で、笹部新太郞(明治20年生)が昭和35年に自宅の庭で芽生えた桜を丹精して育てたとの事です。 この木は池上本門寺からの枝分けとのことです。 吉野桜が木綿ならば笹部桜は絹であると評価された花を一度は見たいと皆様と思うのでした。

昭和45年の万博で日本館に展示されたさざれ石がありました。 昭和20年の空襲で亡くなった慰霊塔の観音像がありました。 上杉謙信所縁の毘沙門天は硝子戸の中で目をこらしても光って全くわからず残念でした。

通りを進み若松町を左に曲がってしばらくすると宝緑稲荷がありました。 穴八幡の境外末社という事です。 狐の尾や耳が大きくて屋根にも狐が居ました。力石にも注目しながら後にしました。

2~3分で臨済宗法身寺がありました。寛永8年(1631)の創建で江戸時代には虚無僧寺で江戸番所であったとのことです。虚無僧は幕府の命により番所で通行証をもらい尺八を吹きながら行脚し各藩の動静を探る間者だったということです。

私たちは時代劇の虚無僧を思い浮かべましたが幕府の間者とは俄には信じ難いことでした。こちらには大和田健樹終焉の地として案内板がありました。「汽笛一声新橋を・・・」の鉄道唱歌の作詞者です。

4~5分で日蓮宗幸国寺に着きました。区の有形文化財の山門は向って右脇に番所が設けられたものです。江戸後期の建築で田安家の屋敷から移築されました。その前に目立つ題目塔があり寛政4年(1792)のものです。加藤清正が幸せな国を目指す事を願い出て開山されました。豪商の伊勢屋(加太氏)が明治5年に造立した供養塔で三面に唐獅子一面にはライオン像が彫られていました。そして此処には石川忠房の墓がありますが墓地に入ることは出来ず人物像の説明がありました。500石の旗本で勘定奉行、道中奉行を兼ねて文化11年に留守居役に。道中奉行の時に安中宿の人馬軽減をしたので生き神さまとして祀られました。槙の実がなっていて味見をしました。

暫く歩きました。市谷薬王町との地名があります。江戸名所図会には薬王寺がありましたが今はなく、地名や信号の名に残っています。薬王観世音菩薩の前を通り臨済宗月桂寺に入りました。

喜連川島子は小弓公方の子孫である足利頼純の娘として塩谷惟久の正室となります。絶世の美女との誉れが高く豊臣秀吉の関東下向のさいに寵愛をうけました。秀吉は島子に喜連川の地に3500石を与え、島子は後に弟にこれを譲り喜連川藩ができます。そののち島子は家康からも召され三女の振姫が嫁ぐ際に老女として会津に赴きました。明暦元年(1655)に88歳で亡くなり院号が月桂寺でしたので月桂寺と寺号を改めたということです。

秀吉と家康にも関わった島子の生涯に思いを馳せました。切支丹灯籠は上の部分が欠けていましたが珍しい形を鑑賞しました。

念仏坂を下り浄土宗安養寺に入りました。明暦2年(1656)に現在地に移りました。こちらは上部が欠損している板碑型の庚申塔を拝見しました。延宝5年(1677)のもので下部の三猿が浮き出ていて目を曳きました。

安養寺坂をのぼり進むと青峰観音が通りに面して祀られていました。この辺りに市谷監獄の首切り場があったとの事です。最後に斬首になったのは高橋お伝だったとの事です。

7~8分位で天台宗自証院に着きました。尾張藩主徳川光友の正室である千代姫の生母であるお振の方(自証院)を供養するために創建されました。大火で焼失した時、戸山山荘の建物を移築したから檜に節目が多かったので「ふし寺」「瘤寺」と呼ばれました。

元は日蓮宗でしたが不受不施禁教令により天台宗に改宗しました。そのさい尾張藩から堂宇の寄進があったとの事です。梵字が刻まれている阿弥陀三尊板碑がきれいな色をしていました。地蔵座像二基も拝見しました。

通りを右に曲がり案内板だけがある小泉八雲旧邸跡の前にたちました。東京で初めて庭を構えた所で5年間住んだとのことです。少し前に行った終焉の地の公園をおもいだしました。八雲は自証院付近の風景を好みよく散歩したとの事です。葉にかくれそうな説明板を見て過ぎました。

又、坂があり暗闇坂とありました。くらやみともくらがりとも云われたとありました。浄土宗西迎寺は本日最後の訪問です。太田道灌を弔う為に江戸城の紅葉山に延徳2年(1490)に創建されました。寛永年間に四谷に移転したとのことです。中に入ると右に阿弥陀如来像があります。元禄7年(1694)のもので緑青が美しい仏様でした。

貞享3年(1686)の梵鐘は龍頭が二つあり梅鉢の御紋が入っていました。大地蔵は2メートルの高さで穏やかなお顔に皆様ほっとされた様子でした。

この辺は舟町といいます。由来は舟板を造る木材が切り出されていたからとの事です。火曜日は15時半になりました。土曜日は早く3時少し前に都営地下鉄、こちらの宝蔵院曙橋駅に到着しました。少々暑い中、皆様お疲れさまでした。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部13回 早稲田界隈を巡る(午前の部)

11月8日(火)と12日(土)、晴天で少し暑いくらいの両日気持ち良く歩くことができました。 東西線の早稲田口に集合しました。 火曜日は21名のご参加で列が長くなってしまいましたが土曜日は8名で小さくまとまって身軽に行動ができました。

駅のすぐそばに落馬地蔵という変った名のついた地蔵がありました。 三代将軍の家光が狩の帰りにこの辺で落馬しましたが調べてみると付近の川から地蔵が発見されました。 そこでその地蔵を祀ったのでした。

その後、駅の東側にある早稲田大学へと向いました。 10時半頃、大隈講堂の時計台の前に来ました。 大隈重信が唱えていた人生125年説により125尺(37・8M)の高さです。 上部は早稲田大学のWになっています。 塔のそばを右に入ると庭園となっていて大学が開いている時は自由に入る事ができます。 入口にはカフェ125があり学生が楽しんでいました。 庭園の敷地は高松藩松平氏別邸跡で維新後、大隈邸となりました。

入口の獅子像は大学創立100周年記念として台湾校友会からの寄贈です。 その他、韓国、中国の校友会から贈られた像や鐘を見ました。 又、先の戦争で亡くなった4000人余の戦没者を供養した苔むした平和記念碑をながめるのは辛い瞬間でした。

日本庭園の奥の少し高くなっている場所に賢妻の誉れの高い大隈綾子像が立っていました。 江藤新作(江藤新平の次男)や小栗忠順の遺児である国子を育てたとの事で学生達にも慕われていたそうです。 庭園を進むと飛騨の古民家も校友会の寄贈とのことで立派な家屋でした。 どこからも時計台が見えて紅葉に色どられた庭園を楽しむ事ができました。 芝生の庭には子供たちが遊び元の入口に戻ってきました。 戦災でも焼け残った唯一の建物を眺めながら大隈重信像のあるゾーンへと進みました。

浅倉文夫作の式帽とガウン姿の像は大隈講堂と対峙していて黄葉の銀杏の木が彩っていました。 右手に入ったところで坪内逍遙記念演劇博物館を見上げました。 逍遙は東京大学を卒業し早稲田大学教授として研究を進め近代日本文学の基礎を築きました。

早稲田大学に隣接してい天台宗宝泉寺です。 大学の敷地の大部分は宝泉寺の境内で重信像辺りに本堂があったとの事です。 梵鐘は正徳元年(1711)鋳造で仏像が彫られています。 高田藤四郎(日行)は富士信仰の為に高田富士を造りその富士塚が見える宝泉寺に葬られました。 モダンな本堂の右脇に上野寛永寺の灯籠が移されていました。

参道にはきれいな花が植わっていて皆の注目をあびていました。

2,3分で日蓮宗法輪寺に着きました。 門にきれいな花手水が置かれていました。 上に色とりどりの日傘が飾られ実に明るく華やかなお寺です。 寺紋が鶴丸なのは日蓮の母方の大野氏の紋です。

道路の向こう側に大きな朱色の鳥居があります。 流鏑馬像の雄々しい像を見て進みました。階段を上がると朱色の随神門は平成10年の再建です。江戸時代は虫封じの祈祷が有名で明治12年には皇太子(大正天皇)の御虫封祈祷が行われました。夏目漱石は癇癪持ちだったので鏡子夫人は癇癪封じの護符をこの穴八幡から受けていました。 神武天皇遙拝所の碑は橿原神社に向いているとの事です。 狛犬の表情がほほえましく私たちをなごませてくれました。

こちらの最後は出現殿です。 法生寺を建設する際に穴から仏様が出てきました。 高田八幡宮を穴八幡と称するのはこの事からです。 出現殿は穴の上に建築した堂で内側を見る事はできませんでしたがどれも新しく立派な建物です。

す ぐ側の別当寺の放生寺へ入りました。 高野山真言宗の寺です。 境内の松の木が光を発し家光の世継誕生の兆しと云われ男子(家綱)誕生となり将軍家の祈願所の格式を得て葵の紋を許されました。 馬頭観音は三面八臂でした。 水掛地蔵や神変大菩薩にお詣りしました。

昼食は学生の町だけあってボリユムのあるお店が多く定食が苦しいくらいでした。

さて午後の集合場所の側に堀部安兵衛が高田馬場の決闘場に行く途中に5合の酒を飲んだ店の小倉屋がありました。 中を見物して安兵衛の名のある清酒を買いました。 早稲田の卒業生の方は早稲田ビールを買っていました。

午後の部に続きます。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部12回 高田・池袋界隈を巡る(後編、午後の部)

鬼子母神大門のケヤキ並木は都の天然記念物となっていて樹齢600年以上といわれています。地主の長島氏の寄進によるものですが現在4本のみとのことです。

私たちが立っている参道の場所を広重の浮世絵を講師がかざしていました。料理屋の茗荷屋、左に蝶屋、あやめや、むさしやが並んでいます。子供が持っているのは芒で作ったみみずくの人形です。

2、3人でみみずくを買いにいりました。100円円から2000円,3000円と立派になっていきますが我々はみな1000円のものにしました。

10月13日は日蓮聖人の命日で御会式が行われていました。本堂からは読経の声がひびいていました。境内は出店が並びとても賑やかでした。鬼子母神堂は法明寺の飛地にあり、大きく分けると神社ではなく寺院に分類されますが鳥居があり神仏習合の名残と言えます。鬼子母神像は憤怒の像と言われています。

神木は石榴(さくろ)の木ですが実が一個もありません。早くも鬼子母神がたべたのでしようか。山岡鉄舟碑は達筆で「衆生心水清苦堤影現中」と書かれていました。

子育公孫樹は樹齢700年以上で日宥が植えたと云われます。堂々とそびえていました。武芳稲荷大明神は鬼子母神の地主神を祀った古社でお詣りしました

、そして有名な江戸時代から続く駄菓子屋さんへも立ち寄りました。上川口屋といい元は飴屋で天明元年(1781)創業で東京最古の駄菓子屋です。

3,4分で日蓮宗本納寺に入りました。慶安3年(1650)法明寺22世の日相が開基です。狂歌碑、句碑が沢山ありました。井上家墓は宝篋印塔七基で慶長9年(1603)の墓は関東で一番古いとされています。大鳥神社は神紋が福包とよばれる袋紋で見ているだけでなぜか楽しくなります。狛犬の下に蛙がいます。

雑司ヶ谷茄子がきれいな色をしてぶらさがっています。村には百姓村が在り江戸へ野菜を供給して帰りは人糞などを運んできたそうです。

 次ぎの法明寺に向かい初めて2,3分後、ここには橋が架かっていて旧鎌倉街道枝道でしたと講師がいいました。

東京音楽大学の前を通り南池袋にいり大鳥神社から10分後に日蓮宗法明寺に入りました。

江戸時代には末寺が14ケ寺で朱印が10石。弘仁元年(810)に真言宗の威光寺として創建されました。吾妻鏡では源義家以来、源氏の祈願寺でした。正和元年(1312)に日蓮の弟子である日源が日蓮宗に改宗し室町時代に鬼子母神を安置しました。梵鐘には度量衡が描かれていたので江戸時代には鯨鐘と呼ばれていました。

私たちが訪ねた日は御会式の日でお坊様が小走りで動き檀家の人たちはお飾りを引く準備をしていました。火消しのめ組の法被を着た人とすれちがいあの喧嘩で有名な火消しと思い何だかドキドキしてしまいました。5分位で威光稲荷に着きました。神紋が石榴で神社ではなくて寺院の稲荷ということです。

又、5~6分進んだところに本日のメインの一つである日蓮宗本立寺に着きました。

彰義隊に神木隊(榊原家の榊を分解して神と木)として参加し死亡した榊原藩士の碑がありました。本立寺は姫路城主榊原家の奥方の菩提寺となりました。八代藩主の榊原政岑は高尾太夫を1800両で見受けしました。贅沢を禁止した徳川吉宗の怒りを買い越後高田に国替えとなりました。2年後に政岑が亡くなり側室の高尾太夫は菩提寺の本立寺で尼となり供養を続け84歳で亡くなったとの事です。側室の方々の碑に刻まれた同じ戒名の墓が西方の塀そばにありました。

すぐに木立の中に御野立跡碑がありました。この辺りは軍の演習があったところで明治天皇が御覧になったということです。

サンシャインのビルが見えて来ました。東池袋中央公園の暗い片隅にその慰霊碑は在りました。巣鴨プリズン跡に自然石で「永久の平和を願って」と刻まれています。

東京軍事裁判で7人の処刑が執行された場所です。周辺住民の反対があり具体的表現を避けたとの事でした。手元の資料で7人の詳しい罪状が解りました。

サンシャインのビルから池袋駅に向いました。駅を通り過ぎた所に四面塔と稲荷大明神があり柵の中を覗きました。享保6年(1721)に池袋村講中64人が造立したもので追剥ぎや辻斬りに合った人の供養と道標をかねていました。

さて本日最後の池袋水天宮はすぐ正面に小さくありました。田の神の4体はシャモジを持っていて後から見ると子孫繁栄を示していて皆で笑いながらの解散となりました。

両日とも14時40分から45分でとても早く終了となりました。皆様、お疲れ様でした。

裁判

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第2部12回 高田・池袋を巡る(後編、午前部)

10月15日(土)と18日(火)の2日間、12回目の後半を歩きました。最初の集合場所が解りにくいとの意見があり、18日はJR高田馬場駅、早稲田口改札前に10時としました。

そこから前回解散した面影橋まで15分位を掛けて歩きました。ここでスタートの挨拶をして最初にすぐそばの高田氷川神社を訪ねました。金木犀が香っています。初めは山吹の里氷川神社と称していましたが氷川大明神、明治2年には氷川神社となりました。

歴史は古く平安時代(859~77)の創建で下高田村の産土神です。右手奥に小さく祀れているのは高田姫稲荷です。平安時代、在原業平夫婦が森に迷ってしまい離れ離れになり別々に寝たのですが目が覚めるとそぐ側に寝ていたという逸話が残っています。左側に道祖神社があり猿田彦神が祀られています。狛犬は鬼門の位置に立てられ立派でしたが我々は鳥居の右奥に古い狛犬が置かれてあり、そちらに心ひかれました。

真言宗豊山派の南蔵院もすぐに在り、名作怪談乳房榎ゆかりの地とありました。

「三遊亭円朝の名作の話というのは絵師がこの寺に泊まり込み仕事をしている間に妻の「おせき」は弟子と恋仲となった。その二人は絵師を殺し再婚した。遺児は使用人の手で育てられ板橋の松月院の榎の木の瘤から流れ出る露を飲んで成長し父の霊に助けられながら仇を松月院境内で討つという話である」

石仏が多く馬頭観音が目を引きました。山吹の里弁財天は八臂で頭には蛇がいますがお顔は丸くて愛らしいねと皆でのぞき込みました。奥には三体の阿弥陀如来像があり、いずれも寛永年間のものです。

そして彰義隊士首塚がありました。これは九士の首塚で上野の山の戦いで敗れた残党を葬ったものです。

10分位進むと真言宗豊山派の根生院に着きました。山門は赤門になっていて延宝6年(1678)のものです。万葉仮名で刻まれた無相の連歌句碑がありました。「けふみれば かすみてとおし ふじのやま」「ふじのねは うきしまなれや きりのうみ」

先祖が火消しの家があり鳶口、刺股、半鐘が吊されていました。

5分位で次の真言宗豊山派金乗院に着きました。名所図会の中では金乗院の裏門の辺りに関所跡があり平地だったとのことで、あとは坂であったので宿坂の関と言われていました。

倶利伽羅不動庚申塔は不動明王の持つ剣に倶利伽羅龍が巻き付いたもので剣の先を飲み込もうとしています。

鍔塚(つばつか)は寛政12年(1800)の剣供養塔です。

丸橋忠弥の墓に行く方に登り始めて直ぐに青柳家追悼碑がありました。江戸時代の公事師で公開図書館の祖といわれる青柳文蔵の墓です。仙台出身で亀戸で医者を開業し貯えた富で2万巻の書物を集め仙台藩に献上しました。だれでも利用できる我国初の公共図書館となりました。

家光が死去した慶安4年(1651)に11歳の家綱が四代将軍になってまもなく幕府転覆の陰謀が発覚し大騒ぎになりました。慶安の変です。軍学者の由比正雪を支えたのが宝蔵院流槍の名人、丸橋忠弥でした。新しい政権を樹立し巷にあふれている浪人を救済するという目的があったとの事です。集めた浪人は京都、大坂を入れると約2000人となりました。密告により鈴ヶ森で磔となりました。紀州にあった墓は一族により金乗院に改葬されたという訳です。本姓は長宗我部で丸橋は母方の姓でした。

境内の高くなったところに目白不動堂がありました。新長谷寺にありましたが、昭和20年の戦災で焼失し、近くの金乗院に合併されました。

雑司ヶ谷村の旧家の三氏は朝廷の下級役人でしたが官を辞し乱を避けて一同が同村に居住し誰いうともなく雑士ガ谷と唱するようになり雑司ヶ谷になりました。

鬼子母神表参道入口に入って行きました。ここで本日の昼食となります。

中華と洋食屋があり殆どの方が洋食のランチ¥1000円を頼み100円追加するとコーヒも飲めました。

午後の部につづきます

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部 12回  高田・池袋界隈(前編) 午後の部

江戸川公園に集合し目白坂という所を進みました。 3分位で正八幡神社に着きました。 鳥居をくぐり階段を上るとお社がありお詣りをしてから説明を聞きました。 関口水道町の鎮守という事です。 関口水道町が寄進したどっしりとした狛犬を鑑賞しました。

すぐ先に小さな幸神社があり、こちらは覗くだけで進みました。この辺りは鎌倉街道の枝道があったとのことで農作物を江戸に運び帰路は江戸の下肥(シモゴエ)を持ち帰ったことから「おわい街道」と云っていました。一説にはこの辺の長者が金の駒を収め幸神を勧請したとのことでした。

すぐに椿山荘の塀が見えて来まし。江戸時代には上総国久留里藩黒田家の下屋敷でしたが維新後に山縣有朋の邸宅になりました。この辺り一帯は椿が多く椿山と呼ばれていたので椿山荘と命名しました。現在はコロナの為に庭に入る入口も封鎖しておりましたので見学を遠慮しました。

前の道路を渡ると高い高い十字架のあるカテドラル聖マリア大聖堂が在りました。明治32年(1899)、聖母仏語学校の協力を得て附属として建築されました。翌年関口聖母教会として独立しました。現在の大聖堂はドイツのケルン市のカトリック信者の寄付により丹下健三設計で昭和39年(1964)2月に落成しました。内部の天井の明かりを拝見し土曜日は美しいカップルが式に向う姿も見られました。

方向を替えてまた元気よく進むと神田川に向う右側に永青文庫の入口がありました。 熊本細川家の下屋敷で数々の国宝や文化財を所蔵してあります。

胸突坂の階段を降りました。左手に芭蕉庵がありました松尾甚七郎宗房は藤堂家の下級武士として神田川の堀割工事の書役でこの地に4年間携わり水番屋に住みました。後に芭蕉を慕う弟子たちが龍院庵を建てました。その後、焼失し大東亜戦争後に芭蕉庵が建てられました。蛙碑や奥の上がったところに五月雨塚がありました。

川沿いに水神社がありました。神田上水の守護神として妙見菩薩を祀っています。石段がありましたが下で参拝するのみとしました。

そのすぐ側に入口がある肥後細川庭園に入って行きました。清水家、一橋家の下屋敷になり細川家の下屋敷になり明治15年から細川家の本邸となりました。池泉回遊式庭園を見て回り松聲閣という名の大正時代の建物にも入り、二階からの眺めを見ることが出来ました。

5~6分歩くと山吹公園がありました。太田道灌への少女の奥ゆかしい対応が有名ですね。この辺りには実のならない八重の山吹が多くあったそうです。ぽつりぽつりと黄色の山吹がまだ咲いていて皆さん驚いて眺めていました。

神田川の仲之橋を渡り甘泉園公園に入りました。徳川吉宗の子孫の御三卿の清水家の下屋敷庭園です。山吹の井と呼ばれる池からの水を中心とした回遊式庭園で現在は維新後の相馬男爵邸の名残があるとされています。湧きだしている水がお茶に適しているとの評判から甘泉園と名が付けられました。

直ぐに水稲荷がありました。 江戸名所図会では高田塚稲荷とあります。 古くは富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれました。 元禄15年(1702)に大椋の下から水が湧き出し眼病に効くと評判になり水稲荷となりました。 江戸最古の富塚があったとの事ですが思ったよりも小さく感じました。

また、この土地は早稲田大学と土地交換により水稲荷は当地に移転しました。

堀部武庸(安兵衛)の碑が在りました。

土曜日は2時半頃に高田馬場跡に出ました。 寛永13年(1636)旗本たちの馬術の練習場として造られ流鏑馬も行われました。 すぐ側の診療所の前辺りが堀部安兵衛が仇討ちの助太刀をしたとされています。

日蓮宗の亮朝院の立派な門を見上げて中に入りました。 家光が念仏堂を建て明暦元年(1655)に四代家綱は徳川家代々の祈願所としました。 門の上に梵鐘があります。 本堂にお詣りをした後で見学した金剛力士像は石造で区内で唯一ということです。 156センチで少し小ぶりに見えました。 ちょっとおもしろい狛犬にも注目し院を後にしました。

本日、最後の面影橋の碑です。 在原業平が鏡にような水面に姿を映したと、また美しい於戸姫が悲劇を嘆き身を投げた折に詠った歌から名付けられたとの説があります。

面影橋を渡った所で解散となりました。 13日は3時半、17日は2時50分頃になりました。 残暑の中、皆様大変お疲れさまでした。 面影橋という荒川線の駅からそれぞれ帰路につきました。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部 12回  高田・池袋界隈(前編) 午前の部

7月、8月は暑さの為にお休みしていました江戸名所巡りを再開しました。

9月は13日(火)と17日(土)でコロナ禍にも関わらず31名のご参加でした。

大江戸線牛込柳町駅を10時にスタートしました。

駅前の通りを渡り1分で天祖神社に着きました。慶長年間、この辺りに住む長兵衛と長者の大橋龍慶により建てられました。

桃の神様を祀った祠がありました。出産の無事を祈願する人が増えお社を建て子孫繁栄、厄難消除に御利益のある神様として今も信仰を集めているそうです。

外苑東通りを5、6分、北上すると和算の関孝和の墓がある日蓮宗淨輪寺に着きました。淨輪寺は慶長17年(1612)に創建し寛永12年(1635)に現在地に移転しました。関孝和は徳川綱豊(家光の三男)、綱豊の二代に仕え従来の算木を使う方法から未知数を文字で表し筆算に直して方程式を解く方法を見つけ弟子を多く持ち「関流算法の祖」と称されました。

直ぐ先に真言宗豊山派多聞院がありました。入口の門が大きくそびえコンクリートの内に鐘が見えていました。こちらも淨輪寺と同じ年に創建移転となりました。

入口の右手に吉川湊一の墓がありました。幼少期に失明し文政9年(1812)に検校を統括する職検校となり人々の福祉に貢献した人です。

その奥に小さな道標があり、これは目白不動に行く道標を寺の内に移したものです。「是より千手院へ一丁」「是より目白長谷寺へ十丁」とあります。

大きな巨石の正等和尚の供養塔を過ぎ墓地の奥に少し高くなっている所に松井須磨子の墓がありました。舞台女優で人気をはせましたが師の島村抱月の死により自殺しました。享年34歳でした。

代表の役は復活のカチューシヤ、ハムレットのオフエリア、人形の家のノラ役です。

通りから西に少し入ると3,4分で漱石山房記念館に着きました。晩年の9年間の住居があった所です。こちらは「それから」、「こころ」、「三四郎」、「道草」などが執筆されたところです。堂々とした胸像が迎えてくれました。公園(庭)の中にまず道草庵があり漱石の年表や山房の説明がありました。庭には遺族が造ったという石を積んだ猫塚がありました、猫の他にも犬や小鳥達の供養塔でもあります。

可愛い花が咲いていました。山房の中は15分位の見学時間を取りました。お土産を購入される方もいらっしゃいました。土、日だけ開くカフェもあり、またゆっくり来たいと思いました。

山房の先に曹洞宗宗参寺がありました。こちらでは牛込氏の墓と山鹿素行の墓を拝見しました。

牛込氏の墓は大胡重行と勝行父子の墓で父子の法号が一基に刻まれています。後に地名である牛込の姓としたとの事です。

奥の高くなったところへ上がると山鹿素行の墓がありました。江戸初期の儒学者、兵学者です。承応元年(1652)に赤穂浅野家に仕えますが意見が合わずに7ケ月で退出しました。その後、朱子学を批判し31歳の時に赤穂に流されました。9年に及びましたが、この時に表したのが「中朝事実」で王朝が交代するたびに皇帝が代る中国より万世一系の天皇がいる日本こそ中朝(中華)だとの考えです。

後に幕末の国家感に影響を与え吉田松陰、宮部鼎蔵などは山鹿流軍学を学びました。又、乃木将軍は殉死する前に昭和天皇(当時は皇太子)に中朝事実を奉呈したとの事です。

墓地の一角にお墓に向く乃木将軍が愛した梅の木が遺族の手により植えられ葉を繁らせています。梅の花も見たいと思いながら後にしました。

通りを渡り東へと進むと6,7分で日蓮宗、宗柏寺に着きました。寛永8年(1631)創建で元禄5年(1704)に一橋家の祈願所となりました。門扉にある紋が珍しく象と橘です。釈迦堂の内に入れてもらい美しい鬼子母神像を見る事ができました。

墓地へ進むと先代の住職が建てた平将門一族の霊位がありました。そして幕末に下田奉行となり日米修好通商条約や日仏通商条約を結ぶ一員となり、その後に軍艦奉行から海軍の拡張に尽力した井上清直の墓がありました。川路聖謨の実弟です。

元の通りに戻り一般公開していない臨済宗済松寺の前を通りました。徳川家光は臨済禅師の「済」と徳川家の祖である松平家の「松」を取り済松寺とし宗門と徳川家が共に栄える様に願ったのでした。

お昼過ぎに神田川を一休橋でわたり緑の多い通りを進みました。大洗堰跡は神田上水の余水を分ける為に造られました。井の頭池の水を水戸藩邸を通し水道橋の懸樋で神田方面に配水したとの事です。

江戸川橋に出てお昼となりました。13日も17日も中華を選びました。あんかけチャーハンも野菜炒めランチもボリユームがありました。暑い中、50分間ゆっくりと水分を取り休みました。午後の部の続きます。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

令和4年 夏期おもしろ講座(鎌倉殿の13人の真実を知ろう)

本年も中央区掘留町区民会館において7月、8月の2回ずつの4回開催致しました。話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の真実を深く知ることができました。講師作成の相関図が好評で大河ドラマを観る時に傍らに置いているとのことです。

百余年鎌倉幕府露と消ゆ      豊治

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部 11回 小日向・小石川界隈を巡る(後編)

50分の休憩の後に午後の部がスタートしました。伝通院の門がみえてきましたがその前に訪れたのが浄土宗福聚院です。伝通院末で大黒天(鎌倉時代の彫刻)は貴重な文化財です。こちらに珍しい唐辛子地蔵がありますが幼稚園が併設されているので土曜日のみ拝見できました。明治に唐辛子の好きなお婆さんがぜんそくを治すのに唐辛子を止められるが止められず食べて亡くなりました。人々が地蔵を建て唐辛子を供えました。喘息の人が祈願し治ると唐辛子を供えるという地蔵に沢山の真っ赤な唐辛子が供えてありました。

処静院跡の石柱は結成時にあった物です。

12時50分頃に伝通院護経寺へと入っていきました。徳川家康の生母、於大の方の菩提寺で於大の法名が伝通院なので江戸の人々は伝通院様と呼ぶようになりました。始めに於大の方のそびえ立つ墓の前に立ちました。余りに大きさ立派さに驚き、どなたかが大震災でも大丈夫だったんだねと呟いていました。

柴田錬三郎の墓は黒の球の石とデザインされた齋藤家之墓とありました。

二代将軍の長女、千姫の墓、家光の正室孝子の墓もありました。両側に同じように何体も連なっています。

浪士隊の清河三郎の墓は山岡鉄舟が建てました。新撰組の前身で文久3年(1864)2月8日、234人で江戸を出発しました。元々、攘夷論の影響を受けていたので朝廷に部隊を引き渡そうとしました。清河八郞は見廻り組の佐々木只三郎に暗殺されました。隣の墓は愛妾の墓です。八郞の孫娘は作家の紫田錬三郎に嫁ぎました。

隅にイタリア出身の宣教師ジヨセフ岡本右衛門の供養塔がありました。「ジヨセフ・キイヤラ師の霊よ、安らかに眠り給え」と刻まれています。約30分位の見学で伝通院を後にしました。

5分位行くと幸田露伴旧宅前で現在は幸田文の娘の青木玉が住んでいます。蝸牛の様な小さな家と称して昭和2年から20年まで住みました。

1時半頃、すぐに無量山慈眼寺澤蔵司稲荷に着きました。芭蕉句碑がありました。34歳の時に壱岐坂から澤蔵司稲荷方面を詠んだ句です。「一時雨礫(つぶて)や降って小石川」

元和4年(1618)澤蔵司と名乗る僧が浄土宗の修学をしたいとやってきて3年間で奥義を究めました。澤蔵司は和尚の夢枕に立ち自分は大田道灌公が千代田城に勧請した稲荷であるが。これより当山を守護する、すみやかに稲荷大明神を祀るべしと云って白狐となり消えたのです。このために元和6年(1690)澤蔵司稲荷を建立した訳です。そしてこの澤蔵司はいつも萬盛蕎麦を食べていたので現在も毎朝店から、箱蕎麦を届けているのです。下方には白狐が帰っていった穴がちゃんとありました。

伝通院の塔頭である善光寺が直ぐにありました。朱の門を覗きました。礫川山緑受院は明治に善光寺と改称され善光寺分院となりました。

5分位あるくと浄土宗源覚寺に着きました。宝暦年間(1751~64)に眼病を患った老婆がこちらの閻魔大王に祈願したら老婆の目が治り以来、好物の蒟蒻を断ち供えました。閻魔像は運慶作で玉眼の右眼が黄濁しているとの事です。境内の右手に塩地蔵が二体あります。歯で悩む人が塩を供えて祈り治ったら塩を倍にして奉納するのです。医学の発達していない昔は何でも祈って願いを叶えていたのですね。

鐘楼の鐘は元禄3年(1690)に造られたものでサイパンの南洋寺に移したものが戦争後は行方不明となり昭和40年にテキサス州オークランド市で発見され返還されました。とても立派な鐘でした。

岡埜栄泉で買物タイムをとりました。有名なのは豆大福です。私の番で丁度、売り切れといわれ他の物にしました。土曜日は店が休みなので残念でした。

2時頃、講道館の前の嘉納治五郎の像を見ました。万延元年(1860)に摂津国に生まれ、父は幕府の回船方御用を務め勝海舟のパトロンでした。開成高校に進み天神真楊流柔術を学びました。渋沢栄一の依頼でアメリカ大統領に柔術を披露しました。東京大学卒業後は起倒流柔術を学び柔道を造りました。教育者としても活躍しオリンピックを誘致しましたが昭和13年IOC総会の帰途、氷川丸内で亡くなりました。

5分位で礫川公園内の櫨の木を見ました。サトウハチロウの「ちいさな秋みつけた」の三番目の歌詞のモデルの木です。

ここで小石川後楽園を見学する人と帰る人とに別れました。

花菖蒲が美しい時でしたので見学していく人が多かったようです。武家法度で幕府への謀叛の意志がないという表明の為に大名はこぞって庭園を造りました。寛永6年(1626)水戸徳川家の祖の頼房が中屋敷に造りはじめ池を中心とした回遊式庭園で、光圀は中国趣味を加えて完成させました。

門の近く花花菖蒲が満開を迎えていましたが人が少なくゆっくりと楽しむことができました。

「藤田東湖先生護母救命之処」の碑は安政大地震で母を助けた時に圧死し、母は別の出口から出て助かったという事です。円月橋は明の儒学者、朱舜水による設計です。

主だった処を見学し最後には西門から出て石垣の石に刻んでいる刻印を見ながら駅へと歩きました。

皆様には公園の中を自由行動とさせて頂きました。無事帰途につかれたものと存じます。今後は皆様のご希望を考慮しながら歩く距離を決めていきたいと存じます。本日は3時前の解散となりました。ご協力ありがとうございます。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

第二部 11回  小日向・小石川界隈を巡る(前編)

6月14日(火)、18日(土)、丸の内線茗荷谷駅に10時に集合しました。 雨も上がり曇天の中、10時にスタートしました。 火曜日は20名、土曜日は14名のご参加でした。

駅を背に5分くらいで着いた曹洞宗林泉寺はコンクリート造りの新しい建物で階段を上がると墓地が広がっていてその前に縄でしばられた「しばられ地蔵尊」が祀られていました。 盗難や失せ物があると地蔵尊に縄を掛けて願いが叶うと縄を解くそうです。 年末には縄を解き供養されます。 これまで 色々と面白い地蔵を見てきましたが「しばられ地蔵」も忘れ難いものになりそうです。 先代の地蔵も左手にいらっしゃいました。

拓殖大学の立派な校舎が右手にありました。 明治33年に桂太郞により設立された台湾協会学校が起源との事です。 渋沢栄一や新渡戸稲造も関わり、第12代学長は中曽根康弘でした。

茗荷坂を登り10時10分頃に浄土宗深光寺に入りました。 墓地の最前列に堂々としたお墓があり法名が「著作堂院誉蓑笠居士」である滝沢馬琴と妻のお百のものです。 こちらが馬琴の主家である旗本の松平(大河内家)の菩提寺なのです。 馬琴がデザインした、上に地蔵がのる墓は運ぶ際に隅が欠けましたが馬琴は「いいよ」と許しそのままの姿がありました。 又、奥には長男の嫁の路女の墓もありました。 馬琴は晩年には失明し執筆を助けたのが路女で、南総里見八犬伝を書き上げることができたのでした。

大東亜戦争中に供出された鐘が30年後に還ってきたという釣り鐘を見上げました。

そして、ちよっと離れた所には延命地蔵があり寛永20年(1643)と古い物でした。

坂を登る途中に蛙坂の説明板があり、東側は蛙が多く居たとのことです。 ここから切支丹屋敷へと通じていました。

そして2,3分で切支丹屋敷跡に立ちました。 牢屋敷とも呼ばれ、こちらは島原の乱の5年程後にイタリアの宣教師達が江戸に送られ伝馬町からこちらの井上筑後守政本の下屋敷に牢番所を建て収容したのが始まりでした。 宣教師たちは 幽閉され厳しい拷問により改宗させられるのです。 イタリア人宣教師ジヨセフ・カウロは浄土宗に改宗され岡本三右衛門と改名させられました。 説明を聞きながら、この辺りの恐ろしい歴史の上に立っている悲哀を感じました。

3,4分で新渡戸稲造旧宅跡に行くとワンルームマンション反対のビラが貼ってありました。

住宅地を4~5分歩くと小日向神社がありました、貞観3年(860)創建と古く、その後、合併を何度かくりかえし明治2年に小日向神社となり現在地に移りました。

10時43分、服部坂の説明板の前を通りました。 江戸時代、服部氏の屋敷があった場所で明治2年(1869)に小日向神社が移されました。 永井荷風は眺望のよいところとして作品に表しました。

山法師の咲く通りを行くと曹洞宗の日輪寺です。 小日向神社(氷川神社)の別当寺です。 氷川神社の提灯がありました。 甘酒婆地蔵が目を引きました。 呼吸器系の病気を治そうと地蔵尊になったとのことです。 可愛らしい表情を皆で眺めました。

並ぶようにして浄土宗本法寺がありました。 漱石の墓は5月の雑司ヶ谷霊園でみましたが、こちらは夏目家の墓があります。 漱石の句碑もあり正岡子規の友情を思いおこします。 「梅の花 不肖なれども 梅の花」几号水準点が手水鉢台石に彫られていました。

国際仏教大学院の通用門への道路を奥に行っていくと門の中に一本の大銀杏の木があります。 徳川慶喜の屋敷に植わっていた木です。 巣鴨より転居し明治34年から12年間この地で暮しました。 大正2年に急性肺炎の為に76歳で死去しました。

5分位で文京区立金富小学校前に神田上水の説明板がありました。 この前の道を神田上水が通っていたのです。 家康の命をうけ井の頭池を水源とする上水を江戸まで通しました。 水戸屋敷(小石川後楽園)を通り江戸、東京市民の命の糧となりました (明治34年まで)。その後 暗渠となり通称は「水道通り」と云われています。

通りをどんどん南下して10分位で北野神社である牛天神に着きました。土曜日には茅の輪潜りが出来ました。永寿3年(1184)、東征の折り、源頼朝が腰掛けたという石がありました。願い牛は文化6年(1809)のもので皆が撫でてツルツルでした。




中島歌子の「雪中竹」の歌碑がありました。夫は水戸藩で天狗党に加わり獄死しました。

中島歌子は夫の死後、実家に戻り和歌を教える歌塾の萩の舎を開きました。その萩の舎跡に立ちました。

樋口一葉は14歳で入門し18歳で内弟子となりました。

12時すこし前に本日の昼食場所に着きました。 萬盛蕎麦屋は創創400年で澤蔵司稲荷と関係の深いお店です。稲荷に毎朝お供えする箱蕎麦も味わいました。

午後の後編に続きます。

 

カテゴリー: 未分類 | コメントする

「鎌倉殿の13人」の舞台を巡る(後編)

5月29日はビジネスホテルの朝食から始まりました。そしてロビーに集まり8時に出発しました。

8時20分頃に楽寿園に着きました。1846年に伏見宮邦家親王の皇子として生まれた小松宮の別邸でしたが明治44年に李王家の所有となり李垠(リギン)殿下と梨木宮方子(マサコ)王女が結婚し使用していました。昭和2年に売却され地元の資産家が住みました。昭和27年に三島市の所有となりました。敷地は約7万㎡。新緑の美しい入口に立ち説明を聞き三島大社へと進みました。

途中、白滝公園の清い水のすばらしさに驚きながら文学の道を通り8時半すぎに三島大社の鳥居を潜りました。伊豆国一宮で頼朝が旗挙げに成功してから武将の信仰を集めました。水神は龍や大蛇、大鰻などの姿で祀られているので神池にいる鰻は神の使いとして大事にされました。そして明治になるまで三島では鰻は食べなかったそうです。私たちは頼朝・政子の腰掛石の前にしばしの間立ちました。

芭蕉句碑もありました。「どむみりと楝や雨の花曇り」楝とは栴檀の事です。元禄7年(1694)5月14日、三島明神に参詣した時、江戸に残してきた病床の妻(すて)の身を案じて詠んだ句です。東奥には鹿が沢山飼われているのが見えました。お詣りをすませて緑に包まれた神池を眺めました。孤を描いて突き出した蘭渓灯籠が目を引きました。

樹齢約1200年の金木犀や松の下で源氏再興を祈願したという相生松など見所が沢山ありました。大社に別れを告げようとした時に一組の婚礼の一行を拝見でき皆で祝福をしました。

大鳥居の前の道が東海道で正面に真っ直ぐ延びている道が下田街道です。10分位で問屋場跡に着き暫くすると本陣跡がありました。

9時半ごろに鎌倉古道という標識がありました。路地を入ると地面とブロックに国府跡(国庁址)がありました。下見の時に見当たらず困り果てた場所です。講師がここへ北条時政たちが官吏として出向いていたのですよと話しました。上司が山木判官だったという事です。

  • 源兵衛川を見ながら伊豆箱根鉄道の広小路駅に着き9時46分発に予定通りに乗車し伊豆長岡駅に向かいました。窓に富士山が見えています。

10時20分発の循環バス「てつざえもん号」に乗りました。8分で韮山反射炉に着きました。約1時間で、ボランティアの説明が最初にあり反射炉の仕組みを見学しました。昨日夕方に訪れた江川邸の第36代当主の江川英龍は天保6年(1835)に韮山代官になり昨日触れましたが蘭学を学び、その交流により海防問題に深く関心を寄せました。嘉永6年(1853)ペリー来航に衝撃を受けた幕府より英龍の建議を受けて品川沖に台場(砲台)を設置しました。反射炉は台場に置く大砲の原料である鉄を溶解する施設です。英龍はオランダの書物により苦心を重ね反射炉建設を進めました。

見学の後に冷たいものを飲んで休憩し11時28分のバスで伊豆長岡駅に向かいました。

すぐに伊豆箱根鉄道で修善寺に向かいました。修禅寺といえば「お蕎麦」と詳しい方に教わり人気のありそうなお店に入りました。量も多く美味、とても満足して午後へのスタミナとなりました。。

バスにて修禅寺温泉へ行き範頼が自刃した日枝神社(信攻院跡)に参詣しました。樹齢約800年の杉(夫婦杉)がそびえていました。

すぐそばの修禅寺の石段を登りました。仁王門の金剛力士像は指月殿から移した平安時代の作です。手水は大師の湯で本当にお湯で驚きました。

空海が修禅寺を訪れた時に、病気の父親の身体を桂川の水で洗っている少年を見て持っていた独鈷で温泉を沸かしたとの伝説があります。川の中央の建物が独鈷の湯です。講師は若い頃に裸で入った事がありますが、現在はコロナもあり今は入れなくなっているそうです。

少し行くと明治5年創業の新井旅館の前を通りました。すこしずつ坂道になり右側の坂を登ると範頼の墓が静かに立っていました。お詣りして水分補給をし旅の最後である頼家の供養塔をめざします。

時々、木陰に入り気持ちのよい所を通ります。赤蛙公園を曲り10分位で指月殿に着きました。

二代将軍頼家は北条時政の謀略により修禅寺に幽閉され殺害されました。この指月殿は菩提所として政子により建立されました。供養塔の後の小さな石塔が頼家のお墓です。下の敷地に頼家の忠臣十三士の墓がありました。これからのドラマでこの忠臣が見られるのでしょうか。

又独鈷の湯が見える所まで戻りバスで修禅寺駅に戻りました。踊り子号で帰る人と伊豆箱根鉄道で三島まで行く人と別れて列車に乗り、疲れた身体を休めながら車窓を楽しみました。4時少し前に新幹線に乗る事ができ三島駅から富士山が見送ってくれていました。

皆様、大変お疲れ様でした。

カテゴリー: 未分類 | コメントする