第四回 赤羽(岩渕)から新井薬師

 

12月8日(火)19日(土)両日お天気に恵まれた中を9時半に赤羽駅に集まりました。

赤羽駅から鎌倉街道に出るまで少し歩き本尊薬師如来前からのスタートです。まず講師は御家人株は何両で手に入るかという話から始まりました。与力1000両、同心株200両が相場といいますが、庶民にそんなお金はないのではと筆者は思うのですが、夢のなさすぎでしようか。

4~5分歩き本日最初に訪ねたのは赤羽根八幡宮です。右手に天保11年是ヨリ左ヘ一丁という道標がありました。IMG_3063

坂上田村麻呂が陣を張ったという、この辺りの総鎮守であったそうです。

三十段位の石段を登り説明を聴きました。石段の奥ゆきがあるのは駕籠が昇れるようにしているからというのです。IMG_3065

本殿脇の左右の彫刻は大変立派で赤ん坊は応神天皇という事です。IMG_3068

境内には色々な神社が合祀されていて、なで牛や兎、狐、大黒さまなどの置物が

ずらりと並んでいて思い思いに鑑賞し、撫でると吉事があるという牛を撫でたりしました。IMG_3070

そしてこちらで私たちを驚嘆させたのは社務所の下を線路が通っていたことでした。

神殿の下でなくてよかったと皆で思いながら坂道を降りました。IMG_3075

坂本庚申塔を過ぎゆるやかな「うつり坂」を登っていきます。

URの工事現場らしき間を抜けて15分位で善徳寺です。

御手洗いをお借りし、墓地にも入れていただくので心ばかりの御布施をしましたら全員にお供え物の小袋を頂戴しました。19日には本堂内のしやもじ形の仏像(お竹さん)を見せてもらえました。講師より女中のお竹さんの美談を聴き、お竹如来にもお参りいたしました。御伝馬役の名主の馬込家の墓を拝見させていただきました。IMG_3244IMG_3085

 

 

 

 

お竹さんのような女性の鏡にほんの少しでも近づきたいと思いながら善徳寺を後にしました。

お隣の大恩寺へと移りました。仁王さまが立つ門をくぐると観音様がずらりと並んでいました。美しい観音様方に見ほれる程でした。IMG_3092

私たちはいったいどの観音様に救われるのでしようか。地下の墓所には琵琶を持った弁才天が立っておられ、前には可愛い子供の地蔵さまが並べられていました。IMG_3096

又、地上に戻るとお堂の内に金箔を施された水子観音があり、木造では日本一の大きさという華麗なお姿で立っておられました。

最後にこれらの観音様たちの元のお姿の聖観音様の美しく穏やかなお姿を境内で拝見して、こちらを後にしました。

中山道を横切り、又15分位進むと長徳寺です。道標や馬頭観音等石造物の多いお寺を鑑賞しました。

しばらく進むと山中橋(中山道の板橋より古い)を渡り、商店街へと入ります。IMG_3119

野菜や果物の安いこと安いこと。半額セールの焼肉屋もありました。

さあここで一時間のランチタイムです。どの店に入るか悩んだすえに火曜日はトンカツ屋、土曜日は「キッチン亀」とへ。

どちらも安くて美味でした。へそハンバーグランチは、この辺の「へそ祭り」からのメニューという事です。ハンバーグはクリーム煮仕立てで香辛料がきいていました。

午後一番に訪れたのは専称院。前身は鎌倉時代の武将が行基に地蔵を造らせたという伝説の場所です。溺水亡霊解脱塔、救世除水難宝塔、長夜塔が並んで立っています。

さすがに荒川のそばにあったお寺で、水難がいかに大きな事だったか伺えるのでした。又、子育地蔵尊が座像であった事、門にある葵の紋に異なる葉が入っているのはめずらしいとのことです。

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次が名前がユニークな轡神社です。この辺りは通りからすぐに境内となり参道がありません。義経が鎌倉へ、はせ参じた際の馬がこちらの前で倒れ咳で苦しみながら亡くなったそうです。轡を外し祀ったという伝説があり、馬の草鞋を奉納するようになったといわれています。咳の神様として長く信仰されてきているということです。IMG_3127

通りの舗道をどんどん進みますと15分位すると大きな水道タンクがそびえていて、初めて見る巨大なタンクに驚きました。関東大震災後に都市部から逃れた人が急増したので、水不足を補う為に造られたものです。IMG_3138IMG_3134

IMG_3139幼稚園の奥にある西光寺に着きました。お正月用の庭の葉ボタンが迎えてくれました。お堂の中に座っているお地蔵は、代掻きをしてくださったという昔話で有名な代掻き地蔵さまです。

途切れていた鎌倉街道にまた入りました。しばらく進むと現在は公園となっている千川上水跡があります。元禄時代、幕府の命により河村瑞賢の設計で玉川上水から分流したといいます。後にこの上水は農業用水としても認められたとの事です。桜の名所でもあった場所の名残は何もありませんでした。IMG_3147

西武池袋線を渡った辺りに明治乳業の前身である籾山牧場があったという立札がありました。IMG_3149

15分位歩くと野方配水塔がそびえていました。こちらも前出のタンクと同じ用途でしたが、先の戦争の空襲時の弾痕跡が残っていて私たちはため息とともに見上げたのでした。

8日と19日は順序が入れ替わりましたが、まだ黄色が残る銀杏並木の横を通り哲学堂公園へと向かいました。本日のメインの一つです。東洋大学の創始者井上円了はあらゆる学問の基礎である哲学こそ日本の近代化にとって重要とし、この哲学館を造ったといいます。IMG_3194

「お化け博士」と呼ばれただけあって幽霊と天狗の像が迎えてくれます。IMG_3162

中に入って自由散策の前に楷書の筆使いを思わせる楷の木と美しい樹形のビヤクシンを見ました。約25分間ゆっくりと見学しました。IMG_3178

三学亭は冬紅葉に包まれていました。正面の赤い四聖堂はひときわ目をひきました。孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四哲人を祀っていました。IMG_3344IMG_3170

理想橋を渡り哲学の庭を散歩しました。IMG_3341

すぐそばの蓮華寺は円了の墓所がありました。井桁の上に円をのせた大きなお墓に氏のユーモアを皆で感じた次第でした。IMG_3327

ここは少し高台になっていて南西の方角が開けていて江古田原の合戦があった一帯だとの説明を受けました。太田道灌が豊島氏を滅ぼした戦いが行われたところです。

10分位歩き御霊神社へと進みました。

前九年の役の帰途、京都の桂の里一族が土着して八幡宮を勧請したといいます。少しうっそうとした場所でお参りをしました。イボを取ってもらえる石が疣天神の傍の箱にはいっているそうです。IMG_3347

哲学堂通りをひたすら歩きました。メタセコイアの並木が夕日に映えて益々濃く見え、それはそれは美しい風景でした。IMG_3211

10分位で本日最後の場所の三井文庫に着きました。こちらは三井家の墓所がありましたが今は京都に移転し、美術工芸品も日本橋に移されたそうです。IMG_3351

現在はただ静寂の中に四角い建物があるのみでした。三井という表札の家が入口付近に建っていて国産車が停まっていました。

10分少し歩き西武新宿線新井薬師前駅南口に着きました。

皆様お疲れさまでした。27年の「鎌倉街道あるき隊」は無事終了致しました。

ありがとうございました。新しい年が皆さまにとって良いお年でありますように。IMG_3105

 

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第三回 新井宿から赤羽(岩渕)

第三回中道は晩秋の中を講師以下11月17日(火)は20名、21日(土)は15名で新井宿駅をスタートしました。

すぐに鎌倉街道(後に日光御成道となる)に出ました。

資料の分間延絵図で現在地を確かめます。そして土橋、板橋、石橋の違いの説明を受けました。

IMG_2778今回、初めに訪ねたのは真言宗智山派の地蔵院で寺紋が巴紋とは珍しいとの事。

門に入り、まず右手の良縁地蔵の昔話を聴き、筆者もお嫁さんともっと仲良くしたいとお願いしました。

奥左手の墓地に入れていただき小谷三志の墓へと進みました。富士講を不二道と改め二宮尊徳にも影響を与えたという人です。

この鳩ヶ谷の地で1765年生まれの人が男女平等主義者ということに驚きました。IMG_2780        IMG_2787

そして三志の遺言通りに自然石を二つ重ねた墓なのでした。

また、板碑のような形の石に刻まれた庚申塔はとても立派で頭に蛇がとぐろを巻いていてシヨケラを高く差し上げています。

帰り道の参道には「近江屋」という名の店を見つけ、ふと歴史を感じたのでした。

 

街道に出て進むと三志生家跡がありましたが石柱と案内板があるのみの空地でした。

また10分位進み、鳩ヶ谷本陣の菩提寺であった法性寺へと。室町時代末期と云われる山門をくぐると大きな銀杏の黄葉が迎えてくれました。こちらにあった石造物は特に

IMG_2796印象的で、まず変形六地蔵に驚きました。それぞれの表情が異なるお顔のお地蔵さまが大きな山型の石に彫られていて、なんとも芸術的なことでしょうか。皆で感心しながら見入ってしまいました。

もう一つは怖いお顔の庚申塔です。どくろの首飾りにはちょっと笑えました。

 

当時、一番華やかな場所にあったという高札場に立ち現在の番地を見ると本町一丁目一番地ではありませんか!なるほどねと納得しました。

昔をちゃんと引き継いでいるのですね。

小さな市神社の前を通り、100円出して資料館に入りました。御手洗いを利用させていただきました。そして

小谷三志の優しそうな像を見る事ができました。老人の像ですが、この方が女人禁制の富士山へ弟子の女性を連れて登った人かと、また一つ知識が増えた事を嬉しく思いました。

 

鳩ヶ谷宿の総鎮守の氷川神社へと進み大きな狛犬の間を上がるとここでも黄葉の銀杏が迎えてくれま

す。

きらびやかな神輿三体を見ながら神殿の裏手へとまわりました。IMG_2809IMG_2805

夫婦樟の御神木がたくましく立っていました。赤い着物の七五三の子が手を振ってくれました。

4、5分あるき「日光御成道のみちすじ」という大きな案内所がありました。

大きな壁画の前で講師が大名行列の説明等をしました。「下に下に下に」は将軍で、「下に下に」は御三家、御三卿、「下に」は老中などと格式により違っていた事。大名は「寄れ寄れ」といっていたのがいつの頃からか「下に下に」になったとの事で、色々細かく決め事があり面白いものだと思いました。

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子供が行列を横切った時は元の場所に戻して(原状復帰)罪にはしなかった事を知り一同ほっとして、次へと歩み始めました。

 

 

本陣跡は今ではファッションストアの藤屋さんになっておりました。

その先に吹上橋の両側にあったという一里塚跡に立ちました。

小さな川に架かっている吹上橋を渡ります。IMG_2818

れが資料一枚分にも及ぶ説明がある見沼代用水なのです。

吉宗の時代に紀州の治水家により利根川から新田への用水路を

造り、全長60キロをわずか半年で仕上げたのですから驚嘆の一言です。

今は両側に住宅が立ち並んでいますが脇にある絵図を眺めては昔に想いをはせるのでした。

 

当時使われていたとんぼ橋の一部の石を見てから、10分程歩くと紀伊藩の鷹場杭跡の説明板が立っています。

御三家には江戸より、五里から十里の間に鷹場が与えられたという事や、鷹匠、鳥見役や綱差等の職についての面白い話も聞きました。IMG_2823

そして鷹狩は軍事訓練の一部でもあったというのですから、平和の時代においても武士の生活の一端が解った気が致しました。

 それからしばらくは車に気をつけながら黙々と歩きました。新芝川の鳩ヶ谷大橋を渡りますと、ここは元々は桶川から流れている芝川を明治以降に付け替えた事で、明治の測量地図には記載されていないということです。

午前中最後の中居神社跡が、通りを右に入った所にありました。鎌倉権五郎が源義家に従い奥州へ出兵した時の逸話の絵が納めれれているとの事ですが、あまりにも小さな建物でした。IMG_2829

バス停に「中居」とあります。昔の地名はバス停や小学校名として残っているとの事です。どなたかがスマップの中居くんの話に触れたりして和気あいあいと進みました。 

ここで約一時間のランチタイムです。皆さん揃って「とんでん」へ入りました。海の幸や飲み物を楽しみ、午後へと備えました。

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お昼の後はどんどん南下していきました。午後一番に訪ねたのは朝日氷川神社です。

裏の道が芝川の堤防跡ということで、赤い鳥居をくぐり裏手への回りました。

御神木の銀杏の木を両手で抱いてそれぞれに気をいただきました。

また、10分位進むと薬林寺の前を素通りしてまずは御成り街道沿いにある不動明王堂と庚申塔を拝見しました。IMG_2842

そして薬林寺へ引き返し緑青の水子観音、首振り観音の話と二代将軍徳川秀忠の恐妻ぶりなどの逸話を講師から聴き、ちょっと疲れが和らぎ、次へと進む一行でした。

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鎌倉街道をほんの少しそれたのは重厚なレンガ造りの洋館を見る為です。

材木と味噌醸造で財を成したという田中家は洋館の他に和館、茶室、庭園などがあるというのですから拝見できたらどんなにいいかと思いました。

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十二月田(しわすだ)の交差点を過ぎると又、一里塚跡が、ビル入り口脇の植え込みの中にあり、石柱はあるものの見落としそうな場所でした。

日本橋から四里で川口元郷駅がすぐに見えてきました。

 

それから10分位歩き本日のメインの一つである錫杖寺に着きました。こちらには見処が沢山あります。五筋の定規塀の中に晩秋の色が美しく残り御成門の奥に見えています。本堂の屋根の寺紋は菊の御紋とその下に葵の紋が黄金色に輝いています。IMG_2864

IMG_2862ハゼの樹の紅葉が残っていて八角の六地蔵と二仏の灯篭や鋳物地蔵も印象的でした。大きな茶筅塚もあります。

しかし私たちの心を捉えたのはなんといっても瀧山の墓です。山茶花の高い垣根を進み墓地の奥へ進みました。IMG_2857大河ドラマ篤姫で稲盛いずみが演じたあの瀧山の墓が広いスペースの中に堂々とありました。21日には墓を洗う男性がいてとても丁寧に扱っていました。大奥を閉じる折もその役目を立派に果たしたという女傑の眠る場所でした。山茶花があまりにも美しく、この季節に来られた幸いを感じた次第です。

寺を出るとすぐに凱旋橋跡があります。これは日露戦争と深く関わった川口の姿とその歴史を感じる遺産でもありました。

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川口の説明板を過ぎ、薬局の古い木造の家の前を通りました。店名が右からの表記も歴史を感じましたが、未だに営業しているとは時間があれば寄ってみたいと思ったのは私だけだったでしようか。

5分位で道を右に曲がると川口宿の永瀬家本陣門(薬医門)がありました。瓦の一部がはがれかけていて荒れ果てていましたが、門だけでも見られた我々は幸いだと思いました。IMG_2873

 

さて、これからはどんどん頑張って歩くのみ!荒川を渡りはじめました。歩道は自転車道と一緒になっていてうっかりすると危ないのですが、21日はお天気が良くて富士山が見えました。そして左手にはスカイツリーも見えてきました。IMG_2887

東京側に近づくにつれ土手の桜並木の紅葉が大きくなってきます。

新荒川橋を渡りきる手前で振り向き、あの白い建物が川口善光寺があった場所でここから眺めるとこの広重の浮世絵と一緒ですねと講師が綺麗な絵を掲げて説明するのでした。

東京都北区の標識があります。埼玉県から東京都に入りました。

 

八雲神社の中の小さな水神社に進みました。鎌倉時代ここに渡し場があった証拠だという事です。

街道に戻り岩渕問屋跡の碑を過ぎると東京23区内唯一の造り酒屋の小山酒造があります。小山酒造は真の辛口という男性好みのお酒らしいのですが、女性の会員さんもにこにこしながら買い物をしていらっしゃいました。17日の火曜日は定休日で残念でしたが、21日は営業していました。IMG_2896

分位先の正光寺は笹竜胆の源氏の紋で正観音が源頼朝の守り本尊と云われています。観音堂が新しくされていてとてもきらびやかでした。

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大満寺は小さいながらも不動明王像が鎌倉時代の作ですし、四国霊場札所の銘板や仏足石も興味深く拝見しました。講師は自分の実家に一番近い讃岐一宮寺、八十三番札所を指しておりました。

4時を過ぎました。板橋道と岩槻道(御成り街道)の追分を通り本日最後の宝幢院へ着きました。道標と板碑形の庚申塔と思われる阿弥陀如来に向く二猿の線刻が見事でした。IMG_2912

 

少し暗くなり始めた中を駅へ向かいます。赤羽駅の何とにぎやかな事でしようか。やはり東京ですねと誰かの声が。今回も無事終了する事が出来ました。皆様お疲れさまでした。赤羽駅北口改札口で12月に又お会いしましよう。IMG_2910

 

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冬木影水子地蔵の女かな

水神を祀る宮あり新酒買ふ   幸子

 

山茶花の生垣奥に眠りをり   慶月

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お知らせ 大変長らくお待たせしていますモーニングショウでの放映の件ですが、またもディレクターから連絡が入りまして、1週間延びる事になりました。

12月14日になりましたのでよろしくお願いいたします。

 

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第二回 釣上から新井宿

 

IMG_2479 第2回中道は10月20日(火)講師以下20名、31日(土)は14名で歩きました。9時半に浦和美園駅に集合10時少し前に釣上交差点がある鎌倉街道に出ました。

右に曲がり、その交通量の多さに驚きながら進みました。

しばらく行くと道の角に大きめの彫りがよく分かる庚申塔がありました。

IMG_2488本日最初に訪れたのは保寿院跡の原家の墓石群です。中心には現在の新しい墓が建てられていて家紋の九曜の紋が歴史を今に伝えていました。武田二十四将の一人の原氏が落ち延びてこの地に土着したといわれています。

又、古い庚申塔が集められている一角がありました。

 

神明社の狛犬の面白さはいろいろとありました。屋根のあIMG_2495る中に居て注連縄が張られ、首に手ぬぐいが巻かれ、のっぺりとした変なお顔なのです。何と云っても右足にひもの様なものが二重に巻かれています。理由は妻子の家出の足止めというから噴出してしまいます。

こちらで行われている神事で、十年前に国指定の無形文化財になった子供の土俵入りが有名とのことです。その石碑の前に力石が沢山並べられていました。昔を今に伝え残している人々に感動致します。

それにしても、他にも古い狛犬が長い参道にいくつもあるのです。それらに別れを告げ次へと向かいました。

 

IMG_2519三面がはっきりとしている馬頭観音(1765)はとても古く講師がこれはいいものですねという。

民家のプロパンを背に街道に向いていました。

 

 

 

 

 

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綾瀬川にかかる畷(ナワテ)橋からの眺めと大正時代の写真を見比べて、この辺に河岸があり帆掛け船で荷を運んでいた光景をみんなで想像しました。

 

さて本日は少し早目のお昼です、交差点を挟んでチエーン店群があります。ここで一時間の食事休憩です。

私たちは四人で回転寿司店に入りました。一番若い男性の会員さんが、美味しい美味しいと言いながらランチに加え別に追加されていました。

 

午後は10分位に歩いて大きくカーブしている坂にかかりました。IMG_2523

ここは貝殻坂といい、大昔この辺りまで潮がきていたという事です。

上がり切ると旧日光御成道との追分になっていました。

 

又10分ほど歩くと諏訪神社に着きました。立派な鳥衾(トリブスマ)の瓦があり、小さいながら拝殿と本殿、それを繋ぐちょっと粗末な幣殿がありました。

別当寺の延寿寺は十代将軍家治の小休所でしたが廃寺となっていました。

 

さてしばらく歩道のない道路を気をつけながら15分程進みました。手入れの行き届いた寺院に着きました。

IMG_2538西光院の階段を数段上り門をくぐると仏像と美しい庭が広がっていました。ここで御手洗いをお借りし休憩もさせていただくので、会から心ばかりの御布施をさせて頂きました。

お釈迦さまが苦行されているお姿の骨と皮の釈尊像が恐ろい程に私たちの目の前に迫ってきました。

ここで水分補給しながら、美しい石のテーブルや腰掛けで一息入れました。

右手が天を指しているふっくらした像を見て、講師からお釈迦さまは母親の脇に下から生IMG_2540まれたという話にへえ~と皆さんから声がもれてくるのでした。

ぽっくり薬師や七福神にもお参りして庭に作られた数々の仏像を拝見しました。20分余り、ゆっくりさせていただきましたが金色の魚籃観音様の大魚の上で丸みをおびた腰が

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なんと艶めかしいことでしようか。筆者はどこの魚籃観音を見てもいつもそう感じるのでした。

 

すぐ脇に七郷の神社を合祀した七郷神社があります。ここは小宮氏が天正年間に築城したという場所。

次に訪ねたのは紅葉の寺という本行寺。金色のもみじの紋が本堂の上で美しく輝いていました。紅葉の木は何本かありましたがほんの僅かの薄紅葉という状態で残念でした。

 

しばらく歩くと戸塚の一里塚が。と云っても表示とポケット公園があるだけでした。IMG_2565ここで一里の長さが時代により異なり、その地方により異なるという話を聞く。

律令時代は一里が六町で約109メートルだったとか。千葉の九十九里浜の長さが66キロなのでなる程と思うのでした。

 

次に妙延寺跡の女郎仏という大きな旗に男性達がオッと声をあげます。しかし今は何もなく説明板とお百度の石柱があるだけでした。若く気品のある身分の高そうな女性がこの近くで急病になり帰らぬ人となったとか。余りの美しさと身分をあかさなかったために、もしかすると女郎ではないかということで土地の人が女郎堂を建てたということです。女郎仏に関するものは残っていなく期待感があっただけにがっかりとした人も多かったではないでいしょうか。

IMG_2566頭上に髑髏(どくろ)があり、シヨケラをしっかり握っている庚申塔がありました。右手にベルのような五鈷鈴(ゴコレイ)を持っているのは珍しいという事です。

 

5分ぐらい進むと吉宗の休息所として使ったという真乗寺へ。スダジイの巨木がある寺でした。

 

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街道沿いの敷地から十月桜が小さな花がはみ出しています。山茶花が咲いています。花ミズキは赤い実をつけています。道沿いに庭木屋さんや造園業の家が沢山ある場所です。

高速道路の下をくぐり新井宿村へと入ります。

IMG_2591首都高の新井宿という案内板が見えてきて、もう少しだと嬉しくなってきました。こちらのコミュニティバスともすれ違いました。

歩行者からどこまで歩くのかと声をかけられました。

 

宝蔵寺には古い(1518年)の二十一仏庚申待供養板碑があるとのことですが、案内板でしか見る事が出来ず、庭を拝見してお向かいの子日神社へと。

日光御成道が境となり新井宿村が西と東に分けられて社寺が向かい合わせになってしまっIMG_2600たという事がよく分かる光景です。

沢山の草鞋が奉納されていました。

 

 

 

IMG_2608 いよいよ本日訪ねる最後の場所、源長寺です。まず沢山の板碑が集められているのを見ながら本堂の前へ。ここは足利一族である伊奈氏の頌徳碑があります。お墓に入らせて頂くので会よりお布施をさせて頂きました。

関東郡代であった伊奈氏歴代の墓が居並ぶ中で入口付近にある頌徳碑が目につきます。その下方に刻まれた見た事もない動物に注目しなければなりません。

重きを負う事を好んだ龍の子の贔屓(ヒイキ)が刻まれています。

IMG_2612これは龍である徳川家に対して伊奈氏を宋の時代の贔屓の姿として表現しているとの事です。

丁度4時となりました。すぐ近くの新井宿駅に向かいます。今日は約11キロの行程でした。

4時10分、埼玉高速鉄道の静かできれいな駅で解散です。11月に又、ここでお会いいたしましょう。皆さま、お疲れさまでした。IMG_2535

 

 

御成道地蔵そろひの秋羽織    幸子

 

お地蔵へ輪廻へ供ふ木の実かな  慶月

 

 

トピックス

IMG_2686さて10月31日はテレビ朝日のモーニングシヨーの取材のカメラが入りました。

11月16日のモーニングショーで中山道日本橋から板橋まで石原良純さんを案内する役の四宮講師の仕事ぶりを撮るためです。

会員の皆様にもインタビユーがあったようですね。

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10月26日にすでに本番撮りは終わっています。日本橋から板橋に至るおもしろい場所を案内しましたが、放映ではさてどれだけ紹介されるのでしようか。

皆様、5チヤンネル朝9時15分位からという事ですから、お時間のある方は是非ご覧ください。

お知らせ! テレビ局の都合で放映が12月7日に変更となりました。

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あるき隊道中記 いざ鎌倉へ

DSC_0140第一回 岩槻から釣上

鎌倉街道あるき隊が9月末、いよいよ鎌倉へ向けて始動いたしました。第一回22日は講師始め15名 26日は13名の一行です。9時半集合埼玉東武アーバンラインの岩槻駅からの出発です。

 

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22日と26日では最初に訪れる場所を入れ替えて時短をはかりました。まずりそな銀行前にあるみみずく土偶のレプリカを見てから歩き始めました。愛宕神社に参拝後、太田道灌ゆかりの芳林寺へ向かいました。馬に跨る雄々しい道灌の銅像が迎えてくれました。

 

 

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突然の雨に農家の娘に蓑を借りようとしたら娘は一輪の山吹を差し出した。それは八重咲の山吹に実が実らないので蓑がないという訳だったという話を地元では今も大切にしていて、岩槻区の花として黄色の山吹の花をシンボルとしています。

 

さて曼珠沙華が残る芳林寺の庭には開基の尼僧の像がありますが、なんと右の膝を立てていらっしゃる。なぜか韓流の時代劇の女性を思い出す筆者でした。IMG_2324

 

IMG_2323細い参道を振り返りながら、日光御成街道に出ました。高札場の横には∧に安の屋号の歴史を感じる青果店があります。

 

江戸時代嘉永年間創業の菓子店に寄り名物の栗最中を購入。お腹が空いたと言っておだんごをほうばる人もいました。店内には御殿雛など人形の棚もあり、さすがに人形の町岩槻を感じました。このお店のもう一つの注目すべき点は、屋根瓦の上に鐘馗さまが立っていらっしゃること。昔から今の世までずっとこの菓子舗を守っていたのでしよう。IMG_2437

御典医の御屋敷の前に金木犀が大木となり板塀からせりだしています。秋の香りのなかを遷喬館へと向かいました。岩槻藩藩校で児玉南柯が最初は家塾として開いたという。フイリヤブランが狭い庭に群れ咲き、日本家屋の清楚な佇まいです。しかし奥の厠辺りの柱に多くの疵が残っていて当時の若武者達のふれ合いや苦悩さえ垣間見た思いがしました。

お奉行様のお屋敷は立派な武家屋敷で、昔日の如くかわらずにありました。城の廻りの総構えの跡を見上げたあと、有名な鐘へと進みました。それは草生す場所にあり、日本橋や川越のものとは全く異なり哀れささえ感じました。さてここで一枚、全員での記念撮影です。そして講師のおもしろい話に皆で笑いました。昔はどうやって時間というものをしらせていたのか。資料の絵に線香がくゆっているその前に玉代の名札が!芸者さんの一単位の時間が線香一本が尽きる45分ということだと。だからお線香代というのはそこからきていると説明される。男性達はうんうんといたく納得した様子でした。IMG_2356

曽我兄弟の子孫の寺という浄源寺、根がある梶紋は由緒あるとの諏訪神社を経て、二股杉を右に見ながら岩槻城跡へ。突然視界が開けて赤い八橋が見えました。橋の下にはピンクの水連が咲いています。このあたりが太田道灌の時代の城跡という。障子堀の説明を受け、戦いにそなえを怠らないこの時代の厳しさを改めて感るのでした。ここでお昼を少し過ぎていたので国道に出てランチタイムです。水分補給をしっかりして午後に備えました。IMG_2446

江戸時代は岩槻街道と云われた鎌倉街道をすこし南下したところに、貝塚遺跡が、原っぱに石柱だけという姿で広がっていました。この場所から、最初に見たあのみみずく土偶が発見されたのです。縄文の頃、ここは海辺だったから貝塚遺跡があるのだと言われてもにわかには信じ難いものがありました。しかし、講師は昔の海陸の地図を高々と示すのでした。IMG_2377

20分くらい歩き久伊豆神社へ。とりぶすまの説明に屋根を見上げます。見やすい庚申塔があり踏まれている邪鬼の歪んだ顔が印象的でした。

そしてすぐ側の別当寺の正蔵院へ。あるき隊から心ばかりにお布施をさせていただきました。ここで御手洗いと休憩をとります。約15分間でしたが、庭に用意された冷たい麦茶と院の名の入った御煎餅で御接待を受けました。22日は暑くて本堂の中へもどうぞと云われお言葉に甘えさせていただきました。樹齢600年~700年の銀杏の樹形が美しく、手入れの良さを感じます。ご住職は古文書でここが真福寺だったらしいというお話をされました。その証拠がこの大樹らしいというのでした。26日はご住職お一人でお茶を用意してくださいました。湯呑茶碗を持ってこられるとき、かまちにつまずかれたのにお盆の湯呑を落とされずしかもご住職はさっと立ち上がられました。御仏のご加護を瞬間に感じた私たちでした。IMG_2389IMG_2393

 

そうしてまたずんずん南下しました。常福寺の一石一字書写供養塔へ。日本石仏事典にも載っていると講師に見せられ、本物と本を見比べて納得。どの場所に寄ってもとても静かなたたずまいです。ここではゆっくりと石造物を鑑賞しました。IMG_2398

街道に戻りまた南下、15分位で源義家ゆかりの笹久保八幡へ。終わりかけた曼珠沙華の群生がありその真中に土俵があり、木陰の中で小さな蚊の餌食にもなりました。尾立狛犬の後ろから見た模様がとてもきれいでした。IMG_2405

地蔵院の六地蔵は2体ずつ三段になって立っておられ300年の以前のものと見入ってしまいました。IMG_2409

20分又街道を南下し八幡宮の鳩の話を聞き、隣の勝軍寺の道標を兼ねた庚申塔もあることも知りました。榧の木の実と葉っぱの香りの清々しさに疲れを癒されながら、後すこしと力を振り絞りました。IMG_2417

そして又20分、本日最後の光秀寺へと。日本国中の霊場を巡った記念の六十六部満願塔を感心しながら見るのでした。さぞかし御利益があった事でしょう、そのお方は。

これであるき隊の訪ねる場所は全部終了です。後は駅までひたすら歩くのみ。これが長くて長くて!今日は15キロ強歩きました。皆さま本当にお疲れさまでした.

IMG_2427城跡や精霊とんぼ湧くやうに

一粒の榧の実炒りて良夜かな          幸子(あるき隊会員)

 

 

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