第二部6回(後編) 駒込・巣鴨界隈を巡る

六義園には1時頃に着きました。1時間の休憩で昼食と見学を楽しみました。丁度、紅葉が美しくなりかけていて、私たちの訪れを待っていたかの様に感じました。

五代将徳川綱𠮷の信任の厚かった川越藩主、柳沢吉保が元禄15年(1702)に築園した回遊式築山泉水の大名庭園です。ベンチでお弁当を頂いてから、さあ見学へと踏み出しました。男女の間柄を表す妹山背山の中の島を見ながら渡月橋へと進みました。

藤代峠から見下ろした大泉水の景色を堪能しました。その内、時間が押して来て茶屋の辺りは急いで回りお手洗いを済ませると丁度、集合時間となってしまいました。2時頃,六義園をあとにし、道路を渡り東へ行くと10分位で木戸邸跡に着きました。

木戸孝允は元長州藩士で旧名が桂小五郞で版籍奉還や廃藩置県を進めました。又、欧米使節団の全権副使として随行、45歳の若さで他界し、その後、西郷が死亡、翌年には大久保が暗殺され短い間に維新の三傑が亡くなった事を講師から聞きました。明治天皇は病床の木戸を2回見舞ったということです。

5~6分で鳥居の大きな日枝神社に着きました。江戸時代は東に開けていて朝日に輝く所で朝日山王宮と呼ばれていました。東京の空襲で焼け残り蘇った銀杏の樹を見ました。余りにも大きな空洞が在り、樹が生きていてみんなで感動しました。

大国神社の祭神は大黒天で出世大黒、日出大黒ともいわれました。駒込橋を渡り、駒込駅を見て過ぎました。

通りの右手に子育て地蔵が在り、左端には昭和8年に交通事故で亡くなった11歳の仲良しの少女の像が立っていました。ランドセルを背負った姿に胸が痛み昭和8年でも交通事故があったのかと皆でため息をつきました。

2時頃、建設中のビル右手に妙義神社がありました。16日には工事もしていなかったので階段を上がり新しい神社を見る事ができました。日本武尊が東征の折、陣地にしたとの伝説があり、大田道灌も戦勝祈願をしたとの事です。

森と蔵のある公園には子供達が遊んでいましたのでさっと通り抜けながら見ました。こちらは染井の里といい植木職人集団の棟梁であった伊藤伊兵衛政武が大規模な園芸植物を栽培していたこと事です。

3時になった頃、新義真言宗西福寺に入りました。こちらには伊藤政武の墓がありました。仙台藩最後の藩主、伊達慶邦の記念碑が高くそびえていました。

すぐ側に染井稲荷神社がありました。絵馬を見ました。劉邦が項羽と戦い漢を建国するのを助けた将軍の若き日の韓信の股くぐりのシーンの絵馬でした。

十二地蔵は六地蔵が二段になって刻まれた珍しいもので享保15年(1730)の大火の供養塔と伝わっています。浄土宗専修院には3時20分頃に入りました。伊藤家の屋敷跡で淺草から移されたとの事です。

本日最後のお寺は臨済宗勝林寺です。家康が関ヶ原の合戦で勝利したので正林寺を勝林寺と改称したとの事です。門を入るととてもモダンな建物に重厚さが加わった様な新しい寺院でした。

墓地に入り田沼意次の墓を拝見しました。父は紀州徳川家の足軽から八代将軍吉宗の旗本となりました。意次は幕府側用人から老中にまで累進しました。

そのまま染井霊園へと入っていきました。北海道と命名した蝦夷探検家の松浦武四郎の墓、小説家の二葉亭四迷、美術評論家で思想家の岡倉天心や高村光雲、光太郎夫婦の四つの墓を見学しました。

急ぎ巣鴨通りを目指しました。高岸寺のそばの「みずの」の元祖塩大福をお土産に買い帰路に着きました。あたりは薄暗くなりかけていました。皆様大変お疲れ様でした。

此処彼処 菰巻きの松 陽に映える。 豊治

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第二部 6回(続編) 駒込・巣鴨界隈を巡る

昨年(令和2年)10月に前編を歩いて一年ぶりにその続きを巡ることができました。

白山神社がある白山駅上改札口に10時に集まりました。11月13日(土)、16日(火)、19日(金)共に天気に恵まれまさに小春日和の中を歩きました。

国道17号線を横切ると本郷通りで別名、御成街道を中心に歩きます。

浄土宗瑞泰寺の狛象を見て先に進みました。お釈迦様のお母様のマーヤーは白象が胎内に入る夢を見て妊娠し釈迦を産んだ事によると思われますが狛象は大変珍しく私たちの目を引きました。

すぐに浄土宗清林寺へ入りました。手水鉢の佱(ホウ)の字に注目し飛鳥時代様式の建造中の三重塔にも近付いてみました。花陽稲荷の緑色の幡は奉納された旗と知りました。又、徳本文字の蔦文字を見ました。

3分位で曹洞宗海蔵寺に着きました。ペリー来航時に怪力を示した第十代横綱雲龍久吉の墓がありました。土俵入りの雲龍型というのはこちらの名からきているとのことです。

そして鳥居のあるお墓は行者身禄の墓でした。角行藤仏亡き後、富士信仰を再興した人で江戸末期に男女平等を唱えた身禄に敬愛の念を覚えながらお詣りしました。

細道を入り10時半すぎに夏目漱石旧宅跡に着きました。塀の上に猫が乗っていて昭和46年に川端康成筆による棗漱石旧居跡の石碑を見ました。家屋は明治村に移築されているとの事ですが森鴎外が住み漱石の学友の斉藤阿具が住み、その後、漱石が住み「我輩は猫である」をここで執筆しました。

元の本郷通りに戻るまでにいくつかのお寺を巡りました。まず10分位で浄土宗光源寺に入りました。駒込観音と呼ばれていた元禄10年(1697)の十一面観音像は江戸の鰹節商の丸屋宗閑の寄進でしたが戦火で焼失しました。平成5年に再建されました。3・6メートルと少し小ぶりになったとの事です。金色の大観音様を見上げました。また庭の隅に手の表現がおもしろい千手観音や庚申塔にも注目しました。

11時すこし前に浄土宗蓮光寺に着きました。蝦夷地を探索した最上徳内の墓があります。天明5年(1785)に蝦夷地、寛政10年(1798)には近藤重藏らと共に択捉・ウルップ島を調査しました。そして後に「蝦夷草紙」を著しました。

大垣藩主戸田家の菩提寺でもありました。

少し通りに近づいた場所に曹洞宗高林寺がありました。表に「山門不幸」と書かれた札が建てられていて一般の人が入る事ができませんでした。こちらは緒方洪庵の墓がある寺でとても残念ですが門前で講師の話を聞きながら改めて緒方洪庵の偉大さを知りました。江戸幕府奥医師となり西洋医学所頭取を兼ねて種痘の普及に奔走しました。大坂の適塾では優秀な門下生を育て人材育成に貢献しました。福沢諭吉、大村益次郎、襲われて大けがをした井上馨を手術した所郁太郎、日赤を創った佐野常民等、600余名にのぼります。又、八重というすばらしい伴侶の存在も知りました。

日光御成街道に戻りました。江戸三大青果市場遺跡の碑がありました。天栄寺境内の「さいかち」の木の下で毎朝、土物(大根や人参・牛蒡など土の付いた野菜)が取引されました。

11時半頃、浄土宗定泉寺に入りました。こちらは夢見地蔵菩薩の堂がまずあり。各々がガラス戸の隙間から覗いて進みました。線刻の閻魔大王と地蔵の碑があります。至徳3年(1386)のものでなんとなく見えました。

六角宝塔印塔が奥まった場所にありました。

すぐに天台宗の南谷寺にはいりました。

江戸五色不動の目赤不動がある場所です。目が赤いのではなく伊賀国赤目山で本尊を授かったからとのことです。お堂の中を覗くと炎の光背が見えました。

通りを東に入り進みました。長禄2年(1458)、大田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥天」の金印を発見した事から吉祥寺と称されたとありました。

水道橋に移転後、明暦の大火にあい、ここに移ったとの事です。

その水道橋時代に近辺に住んでいた人が立ち退かされて江戸郊外の吉祥寺の名を付け移り住んだそうです。栴檀林の山門を潜りました。これは曹洞宗修行所で湯島聖堂と並ぶ学問所で後に駒沢大学へと発展しました。

参道が長いのが印象的でした。

墓地に入る前に二宮尊徳の像を見ました。小田原藩領の農村復興に寄与し幕府の日光神領の復興を命じられたが事業半ばに病没しました。大きな墓と小さな尊徳像が印象的でした。

こちらにある膨大な少し朽ちかけた大名の墓に驚きました。その中をどんどん進み鳥居家の墓がありました。鳥居耀蔵は南町奉行の時に蛮社の獄で蘭学者を取り締まりました。

古い経蔵がありました。毘沙門天の使いと言われる虎の狛犬を見ながら次ぎへと進むと奥に榎本武楊の広く立派な墓がありました。旧幕臣でオランダに留学し幕府の軍艦奉行の後、五稜郭にて降伏し3年の在獄を経て明治7年に海軍中将からロシア公使となり千島・樺太交換条約を締結しました。その後に大臣も歴任しました。

街道に戻り講談社のビルと鉛筆のモニュメントの前を進み大きく東へと曲がりどんどん進みました。

10分位で天祖神社に着きました。大きな黄色の銀杏の樹が迎えてくれました。源頼朝が奥州征伐の時に霊夢を見て祀った神社です。江戸時代には駒込神明社と呼ばれ村の鎮守でした。

戦災に会い戦後に復興されました。

境内社や美しい菊を眺めたり庚申塔群を見ました。

すぐに駒込名主屋敷の高木家に着き門の脇の小さな入口から入らせてもらいました。

慶長年間の伝通院領であった駒込一帯の開拓を許され、そのままに土着しました。狭い通路の奥に昔の屋敷があり大きな玄関を拝見しました。

5分位で午後の部、最後の駒込富士神社に着きました。

延文年間(1356~61)にはすでに大きな塚があり一説によると前方後円墳があったとも云われています。江戸で最初の富士講が駒込富士神社で組織されたと云われています。

階段の上に鳥居があり、盛り上がった岩には彩色された富士講塔が沢山ありました。一時ちかくになっています。一路、昼食を取る六義園を目指します。

後編に続く

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第二部8回 巣鴨・板橋界隈を巡る(後編)

50分の休憩を取り午後の部が始まりました。近藤勇が慶応4年(1868)4月25日に処刑された場所に永倉新八を中心に明治9年(1876)に建てた供養塔です。碑の表には近藤勇と土方歳三の名がありました。資料には維新後の隊士たち13名の歩みが記され興味深く読みました。

埼京線の板橋駅が目の前に見えています。その線路を渡り12,3分で浄土宗東光寺に着きました。ここでは宇喜多秀家の墓を見ました。秀家は関ヶ原の合戦で敗れ罪人として八丈島に流され84歳で没しました。秀家の妻が前田家の姫であったために256年後、新政府により放免された子孫71人は前田家下屋敷の一部、3万坪を与えられたとの事です。寛文2年の古い庚申塔を拝見しました。

再び通りに出て5分位で真言宗観明寺です。こちらは室町時代の開山です。さっき見た東光寺の庚申塔より1年早い寛文元年(1661)の庚申塔を鑑賞しました。そして豊川出世稲荷神社の正面欄間の左甚五郎作と伝わる龍を金網越しに見ました。

その後、板橋平尾宿脇本跡跡に立ちました。大きなマンションの前に碑があります。この豊田家の娘の「とみ」は幽閉されていた近藤勇に可愛がられました。「とみ」は長生きし昭和21年まで毎月命日に勇の墓参りをしたとの事です。

平尾脇本陣から10分位歩くと緑地があり加賀前田家下屋敷跡とありました。約21万坪の広い中を石神井川が流れています。現在は学校がいくつもありますが明治には火薬製造所(陸軍造兵廠)となりました。

10分位で中山道の通りに戻ってきました。古い米屋さんが残っていて新米を売っていました。真言宗遍照寺は成田山新勝寺の末寺で境内は馬繋ぎ場になっており明治10年頃まで馬市が開かれていました。植栽の中に馬頭観音がずらりと並んでいました。

5~6分くらい進むとスーパライフの手前に板橋宿本跡跡がありました。飯田家は大坂冬の陣で豊臣方の武将として参加した飯田左馬允(サマノスケ)が板橋に住み名主となりました。

隣のスーパ.ーで数分トイレ休憩を取り人数が揃うとスーパー前の高野長英ゆかりの地に立ちました。居酒屋の前に説明板がありました。蘭学者で医者の長英は幕府の外交政策を批判して伝馬町牢屋敷に捕らわれました。弘化元年(1844)6月に牢を出火させ切り放しの際に逃亡し、この地の弟子に匿われその後、奥州、四国、中国、関東と逃亡したそうで江戸で捕まりました。

2,3分で板橋脇本陣跡に着きました。こちらも後ろはマンションになっていました。飯田家の本家で和宮が京都を出て中山道で泊まった最後の宿でした。

いよいよ石神井川にかかる板橋を渡りました。名所図会では太鼓橋として描かれています。6年くらい前に講師がテレビ朝日のモーニングショーで石原良純さんの番組に出演した折に記念に三人で写真を撮らせてもらった場所です。

すこし進んだ通りの角に縁切り榎があります。樹皮を粉にして飲ませると縁が切れるという事です。いつの頃にか言い伝えで嫁に行く時には下を通らないようにしたとの事です。和宮が通る時には迂回路を通り榎は菰で覆ったとあります。

17号線を渡った所に智清寺がありました。手入れの行き届いた庭木が並んでいます。門をくぐると木下藤吉郞出世稲荷の赤い幟が飛び込んできました。かわいらしい狛狐を眺めながらお詣りをしました。

すぐ近くに真言宗の日曜寺があり、本日最後の訪問先です。山門の扁額は松平定信のものです。手水鉢は神楽坂の名石方の駿河屋平兵衛で天保10年(1839)の逸品とのことです。どこが良いのかと皆でじっくりと眺めました。

弘法大師像の前につつじの赤い返り花が咲いていて印象的でした。

早い日には15時20分、少し遅くなった土曜日でも15時50分に都営三田線板橋本町駅で解散しました。ひさしぶりに頑張って9キロ歩きました。

みなさん大変お疲れ様でした。

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第二部8回  巣鴨・板橋界隈を巡る(前編)

実に11ケ月ぶりに江戸名所巡りを再会する事ができました。懐かしい顔35名の再会でした。10月19日(火)、22日(金)、23日(土)の3日間、巣鴨・板橋界隈約9キロを散策しました。コロナ以前の人数より少な目でしたが晴々とした気持ちでJR巣鴨駅10時出発しました。

道路を渡り徳川慶喜の巣鴨屋敷跡の石碑の前に立ちました。広さが約6300坪あったとの事です。明治30年から4年間、巣鴨に鉄道が通るまで住みました。そして現在の文京区小日向に移りました。

巣鴨橋を渡ると左手には真言宗真性寺です。深川の地蔵坊正元の病いが両親の地蔵信仰により治りました。お礼に六地蔵を約15年かけて(1705~)建立したものの一つです。金箔が貼られていたという大きな座像を見上げました。そばに芭蕉句碑がありました。この寺は昔、萩で有名だったそうで芭蕉十哲の杉山杉風(さんぷう)の門人の梅人が芭蕉百年忌(1793)に建立しました。

おばあちゃんの原宿なる通りに入って行きます。巣鴨の代名詞である「棘抜き地蔵」の曹洞宗高岩寺です。本尊は棘抜地蔵菩薩で秘仏です。お礼を飲むか患部に貼ると棘が抜けるように病が治るとのことです。早速、本堂の中に入り買う人もいました。もう一つは洗い観音です。明暦の大火で妻を亡くした屋根屋喜平次が供養の為に観音像を寺に寄進したのが始まりです。持参の布で患部を洗うと病気が治るという信仰です。そして講師がおすすめの大永8年(1528)の阿弥陀三尊が彫られた板碑をガラス越しに見ました。

通りをちよっとそれると青果市場の前に巣鴨御薬園跡があります。徳川吉宗がオランダ人を通じて羊を飼育し羊毛生産を試みたが失敗したとの事です。

細い道を7~8分程歩くと日蓮宗慈眼寺に着きました。浦里(吉原の遊女の三𠮷野)と時次郎(伊勢屋の息子伊之助)の墓がありました。明和6年に仲を反対された二人は江戸三河島で心中、父の長兵衛が墓を建てました。こちらは戦後、復元されたものです。近くで見られなかったのですが二基がぴったりと寄り添って立っていてそれぞれに和歌が彫られているとの事です。他に芥川竜之介の本人希望の座布団がのっている形の墓や、京都から分骨されたという谷崎潤一郞の墓も見ました。司馬江漢(江戸後期の画家・蘭学者)と小林平八郞(吉良家の家老)の墓も見ました。

火曜日は法事で拝見できなかったですが金曜日、土曜日の方々は日蓮宗本妙寺に入る事ができました。明暦3年正月の振袖火事の火元の一つと云われ明治44年に現在地に移転しました。関宿藩主の久世家墓、遠山金四郎、千葉周作などの墓を拝見する事ができました。ペリーの通訳をした森山多吉郞のことも知りました。

手塚治虫の墓のある總禅寺の赤門を見て通りました。手塚治虫の墓は公開していないとの事です。

荒川線の線路を渡りすぐに法華宗妙行寺につきました。四谷怪談の「於岩さん」の墓があるお寺です。田宮家跡跡取り娘である於岩さんの婿に入った伊左衛門は大変な遊び人だったそうです。於岩さんは生きる為に旗本屋敷で働き苦労したそうです。四谷鮫ケ橋にあった寺は明治42年に現在地に移転しました。歌舞伎や落語の演目になり有名になりましたが於岩の墓を巡って怪奇な事が起った事から四谷怪談の発端となったようです。こちらの墓地には浅野内匠頭長矩夫人の阿久里(瑶泉院)の計らいで浅野家の供養塔が建てられたそうです。

茶筅塚の直ぐ目に入る天台宗善養寺に着きました。墓地に向かう脇にシキミ(シビキとも)の実が落ちていました。中国原産で中華料理のスパイスである八角(唐シキミ)と間違いやすく日本のシキミは毒があるそうです。

尾形乾山は尾形光林の弟で京都で活躍し江戸入谷に住み入谷乾山と呼ばれ81歳で死亡しました。墓は尾形乾山の四世の酒井抱一が81年忌に建立しました。又、こちらに日本女性初の原子物理学者の湯浅年子の墓がありました。講師はキユーリ夫人の弟子であったと云いました。新門辰五郎の本姓である町田氏の墓や武蔵川理事長の記念碑も見ました。

西方寺は火曜日だけ拝見する事が出来ました。万治高尾供養塔や、可愛がっていた猫に命を救われた吉原の花魁の話を聞いた後に側にある猫の像を眺めました。

美しい椿のような山茶花が咲いていました。

4~5分程、進むと竹藪の中に輪王寺宮が使用した西法院の旧本堂の鬼瓦が見えました。土曜日には隣の学校の校庭に入れてもらいましたが良く見る事は出来ませんでした。

輪王寺宮は、慶応4年に彰義隊が護衛と称して上野山に立て籠もりましたし、その後に奥羽列藩同盟の盟主となりました。

5~6分位歩き大正大学の門の前を通りました。中山道脇の千川上水跡を見て滝野川銀座を進みました。ここは旧中山道です。板橋駅の前の近藤勇の墓までやってきました。こちらで昼食の休憩です。あてずっぽうで入った四川料理のランチが600円でとても安くて味もまずまずでした。

後編に続きます。

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第二部 7回 田端・王子界隈を巡る(後編)

飛鳥山公園で昼食を取り50分後に集まりました。標高25メートルで23区で二番目の高さです。日本で最初に制定された公園の一つです。

享保5年(1720)、徳川吉宗が吹上御殿で育てた1270本の山桜を植え江戸最大の花見の名所を造りました。そして吉宗は王子権現に寄進し市民に開放したのでした。向島と共に仮装も許されたとの事です。江戸繁花の番付では前頭の二番目でした。佐久間象山櫻賦の碑が大きく聳えていました。明治15年に勝海舟が同門やその弟子たちと建立したものです。正面の文字は象山の筆跡を刻んだとの事です。

都電三ノ輪橋行きが走っているのを見ました。10分位歩くと芝生の向こうに赤レンガ造りの建物が見えてきました。国税庁醸造試験場跡です。ここは江戸幕府の反射炉跡地で明治37年に酒造技術を科学的に研究する機関として設立されました。

13時50分頃、近くの浄土宗正受院に入りました。竜宮城の様な鐘楼門にあっと驚きました。明治35年の建築で戦前までは明け六つ(午前六時)と暮れ六つ(午後六時)に鐘が撞かれていたとの事です。

本堂にお参りした後、近藤重藏座像を見ました。北方探検家ですがこの様な甲冑姿でエトロフ島に標柱を建てたと聞かされました。そして竹藪の奥に進みます。

本堂の奥の竹藪の中に石碑がありました。滝野川の渓流とあります。川が滔々と流れその先に江戸名所図会にもある不動の滝が当時はあったのでした。

慈眼堂は死産や流産も含め、嬰児を供養する堂で東京で唯一の赤ちゃんの寺との事です。ぬいぐるみや折り鶴が供えられ胸がつまりました。また竜宮型の鐘楼門を出て次へと急ぎました。

7分から8分位で真言宗豊山派金剛寺に着きました。門の内に入ると両側に風神、雷神像が在り思ったより小ぶりだと感じました。こちらは源頼朝が石橋山の合戦で敗れ力を付けて府中から鎌倉に入る際にここ滝野川で陣をはったと云われています。松橋辯財天信仰の堂舎を建立し田畑を寄進したとの事です。そしてここは早くから紅葉の名所だったことから寺を通称、紅葉寺と云いました。滝野川で生まれた富士講先達の安藤富五郎の碑は富士山を型どった石でした。

寺を出ると石神井川と紅葉橋がありました。川に沿って少し歩き憩いの水辺を覗き込みました。松橋辯財天洞窟跡とありここが北斎や広重が描いた場所との説明を聞きました。

王子神社の方面に戻る途中に金輪寺阿弥陀堂がありました、金輪寺は王子神社の別当寺です。木食上人(山下覚道)の墓がありました。現在でもベジタリアンはよく聞きますが、この方は火を通した物を食べず生米や草を食べ供養米は貧しい人に施したそうです。生まれは解らず昭和10年に没しています。黒い石で多くの像を造っていて拝見しながら後にしました。

5分位で王子神社に着きました。元享2年(1322)に豊島氏が紀州熊野三山から石神井川の高台に勧進したのが始まりです。王子信仰は神が高貴な幼児の姿で現れそれが信仰の対象になっています。 王子の字の如くでなるほどと思いました。青い屋根の本殿にお詣りしました。七五三のお祝いの子を見かけました。

本殿の左手前に玉垣に囲まれた赤い社の関神社がありました。蝉丸法師ゆかりの神社です。妹が逆さ髪で苦しむのをカツラを造ってあげ大層喜ばれたという話が残っています。床屋さんやかつら店の信仰を集めています。

大銀杏は樹齢600年で黄葉を眩しく見上げました。

名所図会には料亭が二軒ありました。海老屋と扇屋です。今は扇屋の厚焼玉子の小さなお店しか残っていません。王子の狐という落語に出てくる扇屋です。急ぎ

こちらで買物をしました。1個650円でなめらかで甘くて我家の孫たちに好評でした。

中央工学校という有名な専門学校の坂を登りました。そこに王子稲荷がありました。しばらく坂を昇っただけあり、かなりの高台に上がっていました。浮世絵の中央には筑波山がはっきりと描かれています。

毎年、大晦日の夜に関東各地の狐が衣装榎の下に集まり高級官女に装束を改めここ王子稲荷で収穫の吉凶を占ったそうです。初めは岸稲荷の名でしたが元享2年(1322)に王子の地名から王子稲荷と改称したとの事です。

御石稲荷神社では願い事を唱えながら石を持ち上げ、軽いと感じたら願いが叶うとの事です。いとも簡単そうに持ち上げる会員さんが多く、その元気さに驚くばかりでした。聞くところによれば米の10キロより重かったそうです。ちやんと願い事を念じたと皆さんがおっしゃりさすがでした。

急な坂を降り本日最後の装束稲荷に急ぎました。きりりとしたお狐さんが迎えてくれました。狐の集合場所の榎は神木で装束榎と呼ばれていました。今の榎は小さな榎になりましたが神木としてあります。「いざ開けん、海老屋、扇屋とざすとも王子の狐、鈎をくはえて」と蜀山人の狂歌碑があります。装束稲荷は地域の人々により大晦日に行事が行われていますが今年は中止との貼り紙がありました。

15時半を過ぎた日もありましたが扇屋の玉子焼きを楽しみに帰路につきました。

皆様、大変お疲れさまでした。

小春日やスカイツリーの眼前に

庭園の水面を染めて櫨紅葉

大銀杏石燈に舞ふ落ち葉かな    豊治

初冬や妹(いもと)の墓の日へ傾ぎ  慶月

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第二部7回 田端・王子界隈を巡る(前編)

11月10日(火)、12日(木)、14日(土)の3日間、晩秋の王子界隈を巡りました。先月と同様に少な目のご参加でしたがコロナ禍ですから仕方ありません。10時に丁R山手線田端駅南口改札で集合しました。火曜日と土曜日は快晴、木曜日は曇りで肌寒い一日でした。

階段を上り与楽寺坂を下り右へ行くと、芥川龍之介旧宅跡の札が立っていて現在は住宅の工事中でした。大正3年から昭和2年までの13年間、この地に住み羅生門、鼻、河童等を執筆したとの事です。

坂を下り5分位で次の真言宗豊山派与楽寺に入りました。六阿弥陀第四番輿楽寺の詣標石が門の前にありました。弘法大師空海作の秘仏の地蔵菩薩が本尊です。家光から20石の朱印が与えられ10万坪の境内でした。

阿弥陀堂の扁額の金色の字が印象的でした。そして阿弥陀信仰は女性信者が多かったと聞きました。

又、5分位で次の田端八幡宮に着きました。文治5年(1189)に源頼朝が創建したとの事です。旧谷田橋に架かっていた石や富士塚を見ました。照宮茂子内親王(上皇陛下の姉君)の記念碑がわかりにくい場所にありました。本殿が平成2年に左派過激派により放火されたのも皇室に所縁のあったからではと推測されます。新しい本殿にお詣りをしました。

すぐ隣の別当寺である真言宗豊山派の東覚寺に移りました。

石仏仁王の二体に四角の赤紙が貼られて顔から足まで何も見えません。昔、足を病んだ婆の為に爺が、婆の病んでいる部分と同じ場所の仁王像の足に赤い紙を貼り七日七夜、願掛けをしました。満願当夜に夢枕に二体の仁王が現れ「阿」「吽」と叫び去って行き婆は全快したとの事です。東覚寺で赤い紙を買い願をかける信仰が続いています。

左にある立派な山門を潜りました。本堂の奥の右手に蜀山人狂歌碑がありました。彫りが消えかかりよく分りませんでした。竹の形の中に「むら雀(群雀)さわぐ千声もももこえ(百声)も鶴の林の鶴の一声」で幕府の言論統制を皮肉ったものです。

7から8分位、見学して広い通りに出て西に歩きました。

赤紙仁王通りと大きく表記してあります。日枝神社の特長のある鳥居を右手に見ながら進むと10時50分頃に法華宗大久寺に着きました。宝篋印塔の中に日蓮腰掛石が置かれていました。日蓮四大法難の一つで伊豆に流された日蓮が海の俎石に置き去りにされたところを漁師の弥三郎に助けられたとの事です。慶安3年(1650)の手水鉢の庚申塔がありました。猿の裸体の右の人物らしきものが気掛かりでした。こちらでは石像物を沢山見る事ができました。

5分間の見学で又、通りを進みました。木々の紅葉が美しく気持ち良く歩く事ができ3~4分で上田端八幡神社に着きました。この八幡神社も頼朝が奥州征伐の帰路に鎌倉八幡宮を勧請したのでした。上田端村の鎮守で大龍寺が別当寺です。

その真言宗大龍寺に11時頃に着きました。門も本堂も朱や金色が多くてきらびやかに感じました。葵の紋が目立っています。これは将軍が日光からの帰りに江戸に入る前に休息をとり衣装を直した事から紋を許されたとの事です。左手の石に大龍精舎と刻まれていました。精舎とは出家修行者がいる寺院、僧院の事です。広い墓地の一番奥の小さな竹林があります。その前に正岡子規の墓がありました。妹の律さんの小さな墓が右にありました。左の奥に糸瓜の飾りのあるレリーフの新しい説明板が建てられていました。糸瓜の水は痰を切るのに大切な水であったそうです。子規は短歌と俳句の改新に力を注ぎ人を育てました。残念なことに脊椎カリエスで35歳の若さで亡くなりました。子規の絶筆の三句がすべて糸瓜の句です。

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな。     痰一斗糸瓜の水も間にあわず。   おととひの糸瓜の水もとらざりき。

北区立田端中学校の鉄筋の目を見張る立派な校舎を見ながら進み5分程で浄土宗円勝寺に着きました。入口に伊佐家の墓の説明板があり、佐藤元次郎の墓がありました。佐藤姓は彰義隊に入った時に名乗った仮姓です。幕府の茶事を務める伊佐三悦の次男で彰義隊に入り戦死しました。伊佐家は石州流茶道(片桐石州の祖)の流れを汲む数寄屋頭(茶道頭)で御三家や大名の茶事を扱っていました。

墓の右には辞世の歌が刻まれていました。「一筋に赤き心を立てとふし捨てる命ハ松ヶ枝の下」

聖学院の校舎が次々と現れしばらく行くと本郷通りに出ます。本日の楽しみな場所の旧古河庭園を目指しました。

田端高台通りの陸橋の傍に入口がありました。ここは明治の元勲、陸奥宗光の別宅の庭園でしたが後に次男が古河財閥の養子となり邸宅の古河家所有となったという訳です。65歳以上は70円で入園できました。洋館と洋式庭園は英国人のジヨサイア・コンドルの設計です。

日本庭園は奥の低地に造られ作庭者は京都の小川治兵衛です。薔薇も見頃で私たちを楽しませてくれましたが何といっても日本庭園の紅葉の見事な事に魅せられてしばし佇んで観賞しました。特に心字池に映えるハゼの木にはうっとりとしました。

25分間、見学してお手洗いも済ませ集合しました。お昼になりましたがもうひと頑張りです。上中里一丁目庚申堂を見ました。詳しい説明が付いていました。

路地を行くとすぐに真言宗豊山派の城官寺に着きました。山門の扁額の字は田中角栄のものです。なかなか堂々とした字だと皆で感心しました。本堂の屋根には鴟尾がありました。多紀柱山一族の墓が広い墓地の中にありました。多紀藍渓は安政年間(1772~81)に将軍の侍医となり子供の桂山も幕府の医官となりました。製薬所を設置したり多くの者を就学させたりし、沢山の医学書を残したとの事です。4面仏灯籠を珍しく眺めました。

多紀柱山一族の墓地です

階段の上に鳥居が見えて来ました。平塚神社へ入っていきました。平安末期の元永年間(1118~20)の創建と伝わっています。源義家が後三年の役(1083~87)に勝利して平塚城に逗留した際に鎧一領と守り本尊の十一面観音像を平塚氏に与えました。義家の死後に鎧塚を造り城の鎮守としたとの事です。これが城官寺の始まりだそうです。銀杏の木の黄葉がみごとでした。

東京病院の前を通り、国立印刷局東京工場を過ぎました。西ケ原一里塚を右に曲がり七社神社へと進み大きな鳥居をくぐりました。樹齢1000年以上と言われる杉の切り株が天祖神社として祀られて居ました。大日如来や千手観音の四仏と天照大神等の三神を合わせて七社神社と呼ばれています。孔子・孟子像もありました。最後には腹籠(ハラゴモリ)の椎を見ました。妊娠何ヶ月だろうかと云うと臨月では?という声も聞こえてきました。

元の一里塚まで戻って来ました。こちらは本郷追分の一里塚の次の一里塚で日本橋から二番目です。当時の場所に両側ともあるのはここだけと説明を聞きました。本当に道の向こう側にもこんもりと榎の木が立っていました。

直ぐに飛鳥山公園へと入っていきました。1時が近づいていました。お待ちかねの昼食の時間です。半分くらいの方は一軒の食堂、半分の方は持参のお弁当を頂きました。木曜日は冷え込んで辛かったですが美味しいお弁当を頬張り午後に備えました。

後編に続きます。

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江戸名所巡 二部第6回 本郷界隈を巡る(後編)

12時45分から午後の部がスタートしました。本郷五丁目の本妙寺跡へ向かいました。法華宗本妙寺は元亀元年(1570)、駿河で創建されましたが家康の入府に従って江戸城清水門に移されました。寛永にこの地に移りましたが現在は豊島区に移転しています。明暦の大火の火元とされていますが実際は隣の阿部忠利(老中)であったらしいとのことです。

日本で初めて小学校が明治3年(1870)6月に市内で6つでき、ここは第四校でした。3分位で菊坂の説明板がありました。この辺一帯は菊畑でしたので坂の下を菊坂町としたとの事です。

菊坂に降りる手前の説明板に宮澤賢治が妹の治療の為にこちらで住んだと書かれてありました。大正10年に上京し二階の6畳を間借りし、赤門前の文信社の校正をしながら昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をしていたそうです。「雨ニモマケズ風ニモマケズ・・」の精神は日蓮宗だったのです。

坂下を右に曲がり進んだ左手奥に木造の古い三階建て家屋があり、この辺りに樋口一葉が住んでいました。ポンプがのせられた井戸は今も使われていて、一葉が使っていた同じ水に触れることができました。道路に出てすぐにある伊勢屋質店跡を見ました。質草が燃えないように土蔵の漆喰が白く今もきれいに残されていました。一葉は伊勢屋の上得意で葬式の時には香典が届いたとの事です。

菊坂下を南下し白山通り西片の交差点に出ました。西に折れ進むと一葉終焉の地碑がありました。洋服店の右端に建てられてあり一葉は明治27年から29年の2年間、守幸という鰻屋の離れに住み、家賃付き3円也と書かれてありました。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など名作をここで書き上げ奇跡の2年間と呼ばれていたとの事です。4分位で新坂を上がり始めました。

阿部家の屋敷に通じる道を新しく開いたので新坂といいます。新坂は江戸に6け所あるという事です。すぐに夏目漱石・魯迅旧居跡がありました。明治39年12月に通称猫の家からこちらに転居しました。40年に「虞美人草」を発表し職業作家としての第一作目でありました。同年9月には早稲田南町に転居しましたが、翌年の41年に魯迅はその弟や友人5人で住みました。どちらも1年たらずの短期間でしたが日中の文豪が相次いで住んだ場所なのです。

  15分位、進むと西片1丁目から2丁目に入り佐佐木信綱住居跡がありました。国文学者で正岡子規や与謝野鉄幹らと歌壇の革新運動を進めたとの事です。「夏は来ぬ」「灯台守」の作詞でも有名です。

14時頃、日光御成街道と中山道の分岐点の森川(本郷)追分に来ました。大店である八百屋太兵衛の店はこの辺りにありました。

追分には高崎屋があり酒屋と両替商を営みその大きさは文京区歴史館にあった掛け軸の絵でみました。下級武士たちが住むこの場所で有名銘柄でない安い地場の酒を扱い人気があったとの事です。

東大農学部が見えています。現在はコロナ禍で見学することが叶いませんがでした。 こちらの校内に水戸中屋敷跡があり朱舜水(シュシュンスイ)の碑があります。明が滅んだ後に日本に亡命し水戸光圀に招かれ歴史の正統性を説き水戸学思想に大きな影響を与えました。

10分位歩くとコンクリートのお寺の浄土宗西善寺につきました。こちらの奥に近藤重藏の墓がありました。近藤重藏は御先手組与力の三男として明暦8年(1771)に生まれ父と同じ御先手組与力として出仕し、4度蝦夷地に赴きました。樺太、千島、利尻や現在の札幌周辺を視察しました。択捉島に設置されていたロシア人の十字架を撤去し「大日本恵土呂府」の石標を建てました。その後、身分不相応な行いで蟄居となり近江国大溝藩預かりとなり58歳で死去しその地で葬られました。そしてこちらの西善寺にも墓が建てられました。

すぐに正行寺の前に唐辛子地蔵の説明板がありました。境内にある地蔵尊は咳に効くとのことです。前の道が直線の道で縄手といい小苗木縄手が鰻縄手に変化したそうです。

14時半頃に曹洞宗大円寺に着きました。墓地の方から入り高島秋帆の墓を見ました。花々が脇に植えられた道を奥へ進みました。秋帆は幕末の砲術家で父親が長崎の鉄砲方で父に萩野流を学びました。出島のオランダ人からも教えを受け武器の貿易で得た財を私的に軍隊を率いて徳丸が原で実演を行ったとの事です。現在の高島平です。信長の孫にあたる人の墓もあり、かすかに織田という字が分りました。 斎藤緑雨の墓もあり墓石に刻まれた字は幸田露伴と知りました。明治の小説家ですが評論家として樋口一葉を高く認めた人ということです。

墓地から本堂の前にある高村光雲監修の観音像を見上げ有名なほうろく地蔵にお詣りしました。ほうろくが高く積まれてありました。庚申塔も観賞し次ぎへと進みました。

坂を下るとすぐに天台宗円乗寺です。こちらのお寺も様変わりしていて鉄筋コンクリートになっていました。奥の八百屋お七の墓に参り講師の話を聞きました。

15時頃、本日最後の白山神社に入りました。雄しべが旗の様に立っている白旗桜の話や、孫文と宮崎滔天が座って中国革命について語ったという長い石を見ました。明治43年5月という事です。

火曜日は少し暑く感じ、木曜日は途中小雨が降りましたが丁度良く、土曜日は一日中、雨でした。久しぶりの歩きは一万歩を超えましたが3時頃に終わりました。お陰様でいつものように皆様と楽しく進める事が出来ました。心より感謝申しあげます。来月も元気に巡れることを願っております。

待ちわびし江戸町歩き秋時雨

行く秋や名立たる坂の江戸の町     豊治

秋水に触れ一葉の古井かな       慶月

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江戸名所巡り 二部 第6回  本郷界隈を巡る(前編)

令和2年10月13日(火)、15日(木)、17日(土)の三日間、実に8ケ月ぶりの江戸名所巡りでした。新型コロナの影響は続いておりますが社会全体がwithコロナとして動き始めましたので、私共の歩き隊も参加できる人達で始動することにいたしました。

午前10時JR水道橋東口を出発しました。目の前に1907年都立高校とある校舎の建物がそびえています。左手に見ながら2~3分位進むと三崎稲荷神社です。かつてこの辺りは海沿いにあり「岬」だったことから、この名前になったそうです。稲荷の番付表では関脇ですから昔はどんなに大きく人気があったか、現在の規模では想像もつきませんでした。寛永年間に疱瘡の神薬を二の牛の日に施し与えたそうです。また大隈重信が海外へ渡航する時に参拝し、南極探検隊の白瀬矗(しらせのぶ)が「お砂守り」を携帯したという事です。

水道橋の駅まで戻り反対側の北へ向かいました。水道橋を渡り川沿いを歩くと神田上水懸樋跡碑がありました。広重の絵と名所図会で富士山を見て位置を確かめました。

私たちが先ほど乗ってきたJR中央線がひっきりなしに走っています。神田川から少し離れて西に進むと5分位で本郷1丁目の金比羅神社に着きました。讃岐金比羅宮東京分社です。ここは讃岐松平家下屋敷跡という事です。全国に6ケ所ある金比羅宮直轄分社の一つです。狛犬の顔の面白さや大きな腹(玉かも)に驚いてしまいました。

右隣の角地に宝生流能楽堂がありました。能楽は日本の伝統芸能で式三番、能、狂言を包括する総称です。宝生流能楽堂を曲がり坂道を上がります。坂の名前は忠弥坂です。忠弥は由比正雪と並ぶ慶安事件(不平浪人を組織して江戸幕府転覆を計る)の首謀者です。その丸橋忠弥の槍の道場が坂の上にあったそうです。説明板の上に郁子(ムベ)が色付いていました。

歩いて2分のところで本郷のこちらも一丁目で昌清寺の前に立ちました。家光の弟の徳川(松平)忠長の正室である「於昌」と乳母の「於清」の一字ずつからなる昌清寺の名前に胸がつまりました。入って左手に芭蕉句碑の「桜狩りきとくや日々に五里六里」があります。吉野で詠んだ句で寛永8年(1796)の建立でしたが関東大震災で消滅し再建された新しいものでした。

神田上水石樋(せきひ)を再現したものが公園の隅にありました。水道局は公園に隣接していて、水道歴史館へと入っていきます。その向かい側の辺り一帯は順天堂大学病院です。我国で初めての私立病院で日本で初めて入院して治療するシステムを導入したとのことです

さて、11時15分頃、水道歴史館に入り15分間ですがお手洗いを兼ねて見学しました。水道は明治31年に淀橋浄水場に始まりました。2Fには江戸時代の上水遺構の展示があり目を見張りました。1Fでは自由に飲める水を頂き、カルキ臭のない事に驚きました。

啄木のゆかりの喜之床跡は今も床屋さんとは皆で感心しながら眺めました。明治42年6月からこの二階の2間を借りて久しぶりの家族揃った生活ができ、仕事は朝日新聞の校正係でした。しかしながら家族五人の生活は苦しく望郷の歌が生まれ大逆事件で社会に目を開くようになったのでした。啄木の最も優れた作品が生まれたのもここ喜之床と言われています。

すぐに本郷4丁目の文京ふるさと歴史館につきました。こちらも15分の予定で見学しました。酒屋と両替商の高崎屋に関する資料を見て、当時どれだけ繁栄していたか知る事ができました。また昭和初期の道具類の展示も懐かしく見ていると、実家には殆ど残っていますよとおっしゃる方がいらっしゃいました。

元の広い通に出て100メートル位い進むと道路沿いに桜木神社がありました。菅原道真が太宰府に赴く時に桜の木で自分の姿を彫ったという説や元は桜の馬場にあったからという説があります。また一葉は、幼い時期に住んだ家のことを桜の宿と呼んでいます。奥に赤い見送稲荷がありました。これは江戸を追放となった人を見送った見返り坂が近かったからとの事です。

天台宗真光寺(戦災で世田谷烏山に移転)にあった十一面観世音像が住宅地の奥にありました。蓮華座には依頼主の名や享保五庚子(1720)とあります。又、同じ真光寺にあった薬師堂も見て午前の部が終わりました。近くで45分間の昼食休憩を取りました。

後編に続きます。

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第二部五回 佃島、築地界隈を巡る(後編)

13時過ぎ、もんじゃや海鮮、鰻などそれぞれ好みでお昼を頂いた後、佃島見学を開始しました。13時過ぎ、最初に拝見したのが江戸中期に上野寛永寺の宮様が建立した佃天台地蔵尊です。上野浄名院の和尚が写したものを線刻した地蔵尊が路地の奥にありました。銀杏の木が建物を突き抜けていました。

路地を出ると於咲波除稲荷大明神がありました。波除とはもっともな明神様です。さし石(力石)を見て次へと進みました。

昼前に橋を渡る時に見えていた石川島灯台跡に向かいました。江戸時代、軽犯罪者の自立支援施設として加役方人足寄場が石川島にありました。略して人足寄場です。

慶応2年、寄場奉行の清水純畸が船舶の安全の為に寄場の油絞りの益金の一部で灯台を設置しました。翌年、日本橋魚市場組合が常夜灯のお礼に50両、寄場に寄付したとの事です。灯台が石垣の上に復元されていました。ここで講師が火付盗賊改であった長谷川平蔵が松平定信に受刑者救済の意見書を出し、ここ石川島人足寄場の設置が実現したと話しました。私たちは平蔵という人物に改めて感心したのでした。

住吉小橋を進むと赤い鳥居がありずっと奥に住吉神社がありました、天正10年(1582)、本能寺の変の時に堺に滞在していた家康は、佃村の漁師の舟で逃げたのでした。翌年、平岡氏が社殿を奉載した田蓑(タミノ)神社の分霊と東照大権現を奉斎し住吉神社を祀りました。八角神輿は天皇陛下の高御座(タカミクラ)を模したと言われます。入船稲荷の狛狐のきりりとした顔と巻物を見ました。鳥居の扁額が陶器でできているのは珍しく文字は有栖川熾仁親王(和宮の婚約者)だという事でした。

境内を出ると直ぐに三軒の佃煮屋さんがあります。丸久は安政6年(1859)創業、天安は天保8年(1837)、佃源田中屋は天保14年(1843)です。どの店も人気の佃煮があり迷ってしまいましたが、三軒とも買い求めた方がいらっしゃいました。

又、佃煮屋さんの間の道を少し行くと手造りのお箸屋さんがあり黒檀製で5千円、一生物という事でした。こちらも買った方がいらっしゃいます。14時ちかくになり佃島を後にしました。

又、佃大橋を渡り湊へと戻って来ました。聖路加国際病院の新しい建物が聳えています。

青山学院記念の地とあり米国の宣教師により創立されたとありました。すぐ近くに女子聖学院発祥地の碑もあり、2分後には明治学院発祥の地で明治10年(1877)とありました。

それからすぐにヘンリーフォールス住居跡の碑がありました。イギリスの宣教師兼医師で築地病院を開き盲人教育に努めました。また日本古来からの指印(拇印)から指紋により個人が分別できるとの論文をネイチヤーに発表しました。日本では明治44年に警察に採用されました。

ここ明石町辺りは築地居留地跡なのです。江戸末期の安政5年(1858)、欧米五カ国との修好通商条約により開市とされました。外国の公使や領事館、また海外の知識人が居住していたのです。明石小学校前の交差点の向こう側が居留地だったとの説明板がありました。

明治16年、この付近に耕牧舎という乳牛の牧場があり作家の芥川龍之介が明治25年に経営者の長男として生まれました。母の病気により実家に引き取られ12歳の時に芥川家の養子になりました。

14時15分頃に浅野家上屋敷跡の碑がある所にきました。本懐を遂げた赤穂浪士たちが泉岳寺に向かう途中、この旧上屋敷辺りを通って主君に報告したとも伝わっています。聖路加病院へと入っていきました。スコットランドの宣教医師であるヘンリーフォルスが築地病院を設立し、その後、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り聖路加病院としました。淡桃色の建物が以前の病院部分で今は学校になっているそうです。教会の十字架が高くありました。ルドルフ・トイスラーの碑に前にアメリカ合衆国の星や白頭鷲などの公使館にあった石標や、トイスラーの住んだ館が復元されています。

直ぐ側に立教学院発祥の地の碑がありました。またすぐに慶應義塾発祥の地の碑もありました。隣に解体新書が描かれた蘭学事始の碑がありました。

メタセコイヤの大木の中、あかつき公園の中に入りました。シーボルトの胸像がありました。江戸に出てきた時には日本橋の長崎屋に逗留していました。ここに胸像があるのは娘のイネがこちらで産婦人科の医者をしていたからという事です。

公園を出て築地方面へと進みます。晴海通りに出た辺りに軍艦操練所跡がありました。築地卸市場となっている一帯はかつて幕府の軍艦操練所がありました。

浪除通りを進むと数分で波除稲荷がありました。起源は万治年間(1658~61)と言われます。当時、海中に漂う稲荷神社の御札を見つけ祀ると波が穏やかになり堤防工事が無事に終わったので稲荷神社を創建したとの事です。こちらはなんといっても大きな獅子頭でお歯黒の方が雌で、宝珠が乗っているのが雄です。牛丼の吉野屋の碑もあり皆さまの目を引いていました。色々な塚があり大きな玉子塚が目立っていました。

築地本願寺の手前に芭蕉句碑がありました。「大津絵の筆の初めは何佛」。

いよいよ本願寺へと入っていきました。元和3年(1617)に西本願寺の別院として淺草に建立されましたが明暦の大火で焼失し築地に移転したとの事です。まず、まわりの石碑やお墓を拝見しました。

現在の建物は伊東忠太博士が昭和10年に完成させたもので、ガンダーラ洋式の外観と内部は真言寺院造りとなっています。正面の本堂へと進みました。伊東忠太の動物像に注目しながら廻りました。本堂の下に羽根の生えたライオン像がありました。上の柱からも下を見ています。馬・牛・猿・象・鳥・グロテスク(口から階段の手すりが出ている)の像がありました。そして一番感銘したのは象と猿と鳥で樹木の高さを評定するという説話でした。鳥は非力だが一番高い処から見る事ができ物事は全体を見渡す事が大事だとの仏教の教えです。階段の動物を見たあとは小さな部屋でお茶を頂き、本堂の法話の邪魔にならないようにそっと手を合わせて失礼しました。

国立ガンセンターの大きな建物が見えて来ました。料亭新喜楽は芥川賞や直木賞の選考が行われる所です。明治初期には大隈重信邸だったのです。寿司の江戸銀の近くを通り海軍兵学寮跡碑を見ました。采女橋は松平采女正の屋敷があった事から付いた名前です。

本日の最後は東銀座の佐久間象山住居跡です。松代藩士で海防問題や海外事情の研究や技術の導入を説き木挽町で塾を開きました。勝海舟・河井継之助・山本覚馬・吉田松陰・坂本龍馬も門人でした。外国人と間違えられる程の容貌で、ぺりーが挨拶をしたとの話が残っています。京都で長州関係の人らに暗殺されました。日本にとって大きな損失であったと講師は述べて今日の行程を終わりと致しました。

歌舞伎座が見えて来ました。15時半をかなり回り16時近くになってしまいました。皆様、本日も楽しんでいただけたでしょうか。大変お疲れさまでした。

なお3月の江戸名所巡りは新型コロナウイルス感染防止の為にお休みとさせていただきます。

春浅し錨で偲ぶ江戸湊

富士塚やビルの谷間の風寒し

春の空尖塔高し大伽藍    豊治

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第二部五回  佃島・築地界隈を巡る(前編)

令和2年2月11日(火)、13日(木)、15日(土)の三日間お天気にも恵まれ巡る事ができました。都営日本橋駅10時に集合し5分~10分は早くスタートできました。

地上に上がると左手前方に郵便局の〒マークが見えました。日本橋郵便局です。交差点を渡りそちらに向かうと郵便発祥の碑がありました、イギリスの郵便事業を取り入れ前島密(ヒソカ)は明治4年(1871)に郵便制度を作りました。

首都高を潜り日本橋兜町へと入るとすぐに兜神社がありました。明治11年東京株式取引関係者が創建し昭和2年、現在地に移されたそうです。名所図会では牧野家の庭だったという事で源義家(朝臣)の兜を埋めて霊を慰める小祠を造ったとあります。

 

目の前に東京証券取引所のビルがあります。テレビで見かけるビルにちょっと興奮しながら進みました。周りは色々な証券会社のビルが立ち並んでいます。まさにここは日本経済の中心地なのです。

日本橋川に沿って歩くとすぐに鎧の渡跡がありました。やはり義家伝説で奥州征伐のとき鎧一領を海中に投じて風浪を鎮めたとの事です。江戸名所図会の風景は白壁の蔵が並び渡し船が往来していてとても味わい深いものです。

又くるりと廻り兜町の側に戻り日枝神社に入りました。こちらは山王御旅所で神輿三基が立ち寄る所でした。胸を張った江戸狛犬が印象的でした。

道を挟んで裏に別当寺の天台宗智泉院がありました。あの天海大僧正の発意により開かれたそうです。境内に宝井其角が住んでいたとの事です。猿の石仏は風化していました。地蔵菩薩は関東大震災の犠牲者の冥福を祈る為に日本橋魚河岸の人々が建立しました。

茅場町一丁目の永代通りのみずほ銀行角に其角住居跡の碑がありました。大高源五との関わりも思い出されます。

10時半過ぎに霊岸橋を渡りました。日本橋水門がありました。数分で河村瑞軒(賢)屋敷跡に着きました。伊勢の出で土木家です。明暦の大火の折、木曽より材木の買い付けで巨額の富を得たとの事です。後に大坂の治水の功を建てたという事です。

 

 

格調の有りそうなビラフォンティーヌホテルの前を通り新川大神宮の鳥居を潜りました。小ぶりの美しい紅白梅が迎えてくれました。こちらは霊岸島の産土神で大神宮、神明社と呼ばれています。鞭架けがありました、伊勢上人所縁の神社であり酒問屋の守護神としても崇敬されています。

霊岸島の交差点近くに梅花亭がありました。嘉永3年の創業です。私たちは以前、門前仲町の店でうすいどら焼きや幕末に作られたというアメリカ饅頭を買い求めました。こちらが本店ですが今回はお休みでもあり素通りしました。

亀島橋には瑞軒の土木、海運の功労者の説明板があり、亀島橋を渡ると堀部安兵衛の碑がありました。儒学者の細井次郎太夫の家に居り近所の子供に剣を教えていたとの事です。

すこし行くと小さな芭蕉句碑「菊の花 咲くや石屋の 石の間(アヒ)」がありました。この辺りは石屋が集まっていたとの事です。

鈴らん通りを抜ける手前に八丁堀与力同心組屋敷跡の説明板が立っていました。慶長17年(1612)頃から舟を通す堀が造られ河口から長さ8町(約860M)あった事から八丁堀と名が付きました。京華コミユニティールームシルバ人材センターの建物のまえです。与力は300~500坪、同心は100坪の拝領屋敷があったという事です。生活費を得るために文化人などの町民に貸していたそうです。

八丁堀駅前通りを行きました。東京湾クルージングという小さな舟が進んでいました。河津桜が咲いていて私たちの目を楽しませてくれました。そして埋められた八丁堀あとの下水道局の通路を眺めました。

高橋を渡り越前堀薬局を過ぎると11時半頃に於岩稲荷田宮神社に着きました。四谷怪談の主人公「お岩」を祀った社です。紋は陰陽勾玉巴です。歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地で明治2年歌舞伎役者の願いを受けて創建したとの事です。

5~6分で江戸湊発祥の地に着き水辺の風景が広がっていました。慶長年間、幕府が江戸湊を築港し水運の中心地としました。昭和11年までは伊豆七島などへの航路の出発点として賑わったいたそうです。金の錨が目立っています。

南高橋を渡りました。関東大震災で被災した両国橋の鉄橋を利用して架けたという事です。鉄砲州稲荷神社に着きました。八丁堀の産土神で稲荷番付では西の横綱と聞き私たちもしっかり拝見しなくてはと力が入りました。しかし一番印象に残ったのは富士塚で広重の絵にも描かれています。どなたかが登りたいとおっしゃっていましたが、残念ながら今は禁止されています。お供え物の立派さに驚きながらお詣りをし繆斌(ミユンヒン)慰霊碑(孫文主義の発起人で大東亜戦争の終戦工作を試みた人物)を見上げました。

丁度12時頃に佃島渡船場跡に着きました。佃の渡しの渡賃は一人50文(漁師はただ)で明治9年には5厘となり「5厘の渡」と呼ばれました。

昭和38年に佃大橋の完成により廃止されました。その佃大橋を渡りました。しっかりと区切られた歩道があり車道も広く感じました。左手にはスカイツリーが見えています。右には勝どき橋が見えました。

10分位で月島西中通りの商店街に着きました。もんじゃ焼き屋さんが両側にずらりと並んでいました。迷っていると会員さんの詳しい方が有名なお店に案内して下さいました。人気メニューのもんじゃ焼きを美味しくいただきました。

後編に続きます。

 

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