第二部 7回 田端・王子界隈を巡る(後編)

飛鳥山公園で昼食を取り50分後に集まりました。標高25メートルで23区で二番目の高さです。日本で最初に制定された公園の一つです。

享保5年(1720)、徳川吉宗が吹上御殿で育てた1270本の山桜を植え江戸最大の花見の名所を造りました。そして吉宗は王子権現に寄進し市民に開放したのでした。向島と共に仮装も許されたとの事です。江戸繁花の番付では前頭の二番目でした。佐久間象山櫻賦の碑が大きく聳えていました。明治15年に勝海舟が同門やその弟子たちと建立したものです。正面の文字は象山の筆跡を刻んだとの事です。

都電三ノ輪橋行きが走っているのを見ました。10分位歩くと芝生の向こうに赤レンガ造りの建物が見えてきました。国税庁醸造試験場跡です。ここは江戸幕府の反射炉跡地で明治37年に酒造技術を科学的に研究する機関として設立されました。

13時50分頃、近くの浄土宗正受院に入りました。竜宮城の様な鐘楼門にあっと驚きました。明治35年の建築で戦前までは明け六つ(午前六時)と暮れ六つ(午後六時)に鐘が撞かれていたとの事です。

本堂にお参りした後、近藤重藏座像を見ました。北方探検家ですがこの様な甲冑姿でエトロフ島に標柱を建てたと聞かされました。そして竹藪の奥に進みます。

本堂の奥の竹藪の中に石碑がありました。滝野川の渓流とあります。川が滔々と流れその先に江戸名所図会にもある不動の滝が当時はあったのでした。

慈眼堂は死産や流産も含め、嬰児を供養する堂で東京で唯一の赤ちゃんの寺との事です。ぬいぐるみや折り鶴が供えられ胸がつまりました。また竜宮型の鐘楼門を出て次へと急ぎました。

7分から8分位で真言宗豊山派金剛寺に着きました。門の内に入ると両側に風神、雷神像が在り思ったより小ぶりだと感じました。こちらは源頼朝が石橋山の合戦で敗れ力を付けて府中から鎌倉に入る際にここ滝野川で陣をはったと云われています。松橋辯財天信仰の堂舎を建立し田畑を寄進したとの事です。そしてここは早くから紅葉の名所だったことから寺を通称、紅葉寺と云いました。滝野川で生まれた富士講先達の安藤富五郎の碑は富士山を型どった石でした。

寺を出ると石神井川と紅葉橋がありました。川に沿って少し歩き憩いの水辺を覗き込みました。松橋辯財天洞窟跡とありここが北斎や広重が描いた場所との説明を聞きました。

王子神社の方面に戻る途中に金輪寺阿弥陀堂がありました、金輪寺は王子神社の別当寺です。木食上人(山下覚道)の墓がありました。現在でもベジタリアンはよく聞きますが、この方は火を通した物を食べず生米や草を食べ供養米は貧しい人に施したそうです。生まれは解らず昭和10年に没しています。黒い石で多くの像を造っていて拝見しながら後にしました。

5分位で王子神社に着きました。元享2年(1322)に豊島氏が紀州熊野三山から石神井川の高台に勧進したのが始まりです。王子信仰は神が高貴な幼児の姿で現れそれが信仰の対象になっています。 王子の字の如くでなるほどと思いました。青い屋根の本殿にお詣りしました。七五三のお祝いの子を見かけました。

本殿の左手前に玉垣に囲まれた赤い社の関神社がありました。蝉丸法師ゆかりの神社です。妹が逆さ髪で苦しむのをカツラを造ってあげ大層喜ばれたという話が残っています。床屋さんやかつら店の信仰を集めています。

大銀杏は樹齢600年で黄葉を眩しく見上げました。

名所図会には料亭が二軒ありました。海老屋と扇屋です。今は扇屋の厚焼玉子の小さなお店しか残っていません。王子の狐という落語に出てくる扇屋です。急ぎ

こちらで買物をしました。1個650円でなめらかで甘くて我家の孫たちに好評でした。

中央工学校という有名な専門学校の坂を登りました。そこに王子稲荷がありました。しばらく坂を昇っただけあり、かなりの高台に上がっていました。浮世絵の中央には筑波山がはっきりと描かれています。

毎年、大晦日の夜に関東各地の狐が衣装榎の下に集まり高級官女に装束を改めここ王子稲荷で収穫の吉凶を占ったそうです。初めは岸稲荷の名でしたが元享2年(1322)に王子の地名から王子稲荷と改称したとの事です。

御石稲荷神社では願い事を唱えながら石を持ち上げ、軽いと感じたら願いが叶うとの事です。いとも簡単そうに持ち上げる会員さんが多く、その元気さに驚くばかりでした。聞くところによれば米の10キロより重かったそうです。ちやんと願い事を念じたと皆さんがおっしゃりさすがでした。

急な坂を降り本日最後の装束稲荷に急ぎました。きりりとしたお狐さんが迎えてくれました。狐の集合場所の榎は神木で装束榎と呼ばれていました。今の榎は小さな榎になりましたが神木としてあります。「いざ開けん、海老屋、扇屋とざすとも王子の狐、鈎をくはえて」と蜀山人の狂歌碑があります。装束稲荷は地域の人々により大晦日に行事が行われていますが今年は中止との貼り紙がありました。

15時半を過ぎた日もありましたが扇屋の玉子焼きを楽しみに帰路につきました。

皆様、大変お疲れさまでした。

小春日やスカイツリーの眼前に

庭園の水面を染めて櫨紅葉

大銀杏石燈に舞ふ落ち葉かな    豊治

初冬や妹(いもと)の墓の日へ傾ぎ  慶月

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第二部7回 田端・王子界隈を巡る(前編)

11月10日(火)、12日(木)、14日(土)の3日間、晩秋の王子界隈を巡りました。先月と同様に少な目のご参加でしたがコロナ禍ですから仕方ありません。10時に丁R山手線田端駅南口改札で集合しました。火曜日と土曜日は快晴、木曜日は曇りで肌寒い一日でした。

階段を上り与楽寺坂を下り右へ行くと、芥川龍之介旧宅跡の札が立っていて現在は住宅の工事中でした。大正3年から昭和2年までの13年間、この地に住み羅生門、鼻、河童等を執筆したとの事です。

坂を下り5分位で次の真言宗豊山派与楽寺に入りました。六阿弥陀第四番輿楽寺の詣標石が門の前にありました。弘法大師空海作の秘仏の地蔵菩薩が本尊です。家光から20石の朱印が与えられ10万坪の境内でした。

阿弥陀堂の扁額の金色の字が印象的でした。そして阿弥陀信仰は女性信者が多かったと聞きました。

又、5分位で次の田端八幡宮に着きました。文治5年(1189)に源頼朝が創建したとの事です。旧谷田橋に架かっていた石や富士塚を見ました。照宮茂子内親王(上皇陛下の姉君)の記念碑がわかりにくい場所にありました。本殿が平成2年に左派過激派により放火されたのも皇室に所縁のあったからではと推測されます。新しい本殿にお詣りをしました。

すぐ隣の別当寺である真言宗豊山派の東覚寺に移りました。

石仏仁王の二体に四角の赤紙が貼られて顔から足まで何も見えません。昔、足を病んだ婆の為に爺が、婆の病んでいる部分と同じ場所の仁王像の足に赤い紙を貼り七日七夜、願掛けをしました。満願当夜に夢枕に二体の仁王が現れ「阿」「吽」と叫び去って行き婆は全快したとの事です。東覚寺で赤い紙を買い願をかける信仰が続いています。

左にある立派な山門を潜りました。本堂の奥の右手に蜀山人狂歌碑がありました。彫りが消えかかりよく分りませんでした。竹の形の中に「むら雀(群雀)さわぐ千声もももこえ(百声)も鶴の林の鶴の一声」で幕府の言論統制を皮肉ったものです。

7から8分位、見学して広い通りに出て西に歩きました。

赤紙仁王通りと大きく表記してあります。日枝神社の特長のある鳥居を右手に見ながら進むと10時50分頃に法華宗大久寺に着きました。宝篋印塔の中に日蓮腰掛石が置かれていました。日蓮四大法難の一つで伊豆に流された日蓮が海の俎石に置き去りにされたところを漁師の弥三郎に助けられたとの事です。慶安3年(1650)の手水鉢の庚申塔がありました。猿の裸体の右の人物らしきものが気掛かりでした。こちらでは石像物を沢山見る事ができました。

5分間の見学で又、通りを進みました。木々の紅葉が美しく気持ち良く歩く事ができ3~4分で上田端八幡神社に着きました。この八幡神社も頼朝が奥州征伐の帰路に鎌倉八幡宮を勧請したのでした。上田端村の鎮守で大龍寺が別当寺です。

その真言宗大龍寺に11時頃に着きました。門も本堂も朱や金色が多くてきらびやかに感じました。葵の紋が目立っています。これは将軍が日光からの帰りに江戸に入る前に休息をとり衣装を直した事から紋を許されたとの事です。左手の石に大龍精舎と刻まれていました。精舎とは出家修行者がいる寺院、僧院の事です。広い墓地の一番奥の小さな竹林があります。その前に正岡子規の墓がありました。妹の律さんの小さな墓が右にありました。左の奥に糸瓜の飾りのあるレリーフの新しい説明板が建てられていました。糸瓜の水は痰を切るのに大切な水であったそうです。子規は短歌と俳句の改新に力を注ぎ人を育てました。残念なことに脊椎カリエスで35歳の若さで亡くなりました。子規の絶筆の三句がすべて糸瓜の句です。

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな。     痰一斗糸瓜の水も間にあわず。   おととひの糸瓜の水もとらざりき。

北区立田端中学校の鉄筋の目を見張る立派な校舎を見ながら進み5分程で浄土宗円勝寺に着きました。入口に伊佐家の墓の説明板があり、佐藤元次郎の墓がありました。佐藤姓は彰義隊に入った時に名乗った仮姓です。幕府の茶事を務める伊佐三悦の次男で彰義隊に入り戦死しました。伊佐家は石州流茶道(片桐石州の祖)の流れを汲む数寄屋頭(茶道頭)で御三家や大名の茶事を扱っていました。

墓の右には辞世の歌が刻まれていました。「一筋に赤き心を立てとふし捨てる命ハ松ヶ枝の下」

聖学院の校舎が次々と現れしばらく行くと本郷通りに出ます。本日の楽しみな場所の旧古河庭園を目指しました。

田端高台通りの陸橋の傍に入口がありました。ここは明治の元勲、陸奥宗光の別宅の庭園でしたが後に次男が古河財閥の養子となり邸宅の古河家所有となったという訳です。65歳以上は70円で入園できました。洋館と洋式庭園は英国人のジヨサイア・コンドルの設計です。

日本庭園は奥の低地に造られ作庭者は京都の小川治兵衛です。薔薇も見頃で私たちを楽しませてくれましたが何といっても日本庭園の紅葉の見事な事に魅せられてしばし佇んで観賞しました。特に心字池に映えるハゼの木にはうっとりとしました。

25分間、見学してお手洗いも済ませ集合しました。お昼になりましたがもうひと頑張りです。上中里一丁目庚申堂を見ました。詳しい説明が付いていました。

路地を行くとすぐに真言宗豊山派の城官寺に着きました。山門の扁額の字は田中角栄のものです。なかなか堂々とした字だと皆で感心しました。本堂の屋根には鴟尾がありました。多紀柱山一族の墓が広い墓地の中にありました。多紀藍渓は安政年間(1772~81)に将軍の侍医となり子供の桂山も幕府の医官となりました。製薬所を設置したり多くの者を就学させたりし、沢山の医学書を残したとの事です。4面仏灯籠を珍しく眺めました。

多紀柱山一族の墓地です

階段の上に鳥居が見えて来ました。平塚神社へ入っていきました。平安末期の元永年間(1118~20)の創建と伝わっています。源義家が後三年の役(1083~87)に勝利して平塚城に逗留した際に鎧一領と守り本尊の十一面観音像を平塚氏に与えました。義家の死後に鎧塚を造り城の鎮守としたとの事です。これが城官寺の始まりだそうです。銀杏の木の黄葉がみごとでした。

東京病院の前を通り、国立印刷局東京工場を過ぎました。西ケ原一里塚を右に曲がり七社神社へと進み大きな鳥居をくぐりました。樹齢1000年以上と言われる杉の切り株が天祖神社として祀られて居ました。大日如来や千手観音の四仏と天照大神等の三神を合わせて七社神社と呼ばれています。孔子・孟子像もありました。最後には腹籠(ハラゴモリ)の椎を見ました。妊娠何ヶ月だろうかと云うと臨月では?という声も聞こえてきました。

元の一里塚まで戻って来ました。こちらは本郷追分の一里塚の次の一里塚で日本橋から二番目です。当時の場所に両側ともあるのはここだけと説明を聞きました。本当に道の向こう側にもこんもりと榎の木が立っていました。

直ぐに飛鳥山公園へと入っていきました。1時が近づいていました。お待ちかねの昼食の時間です。半分くらいの方は一軒の食堂、半分の方は持参のお弁当を頂きました。木曜日は冷え込んで辛かったですが美味しいお弁当を頬張り午後に備えました。

後編に続きます。

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江戸名所巡 二部第6回 本郷界隈を巡る(後編)

12時45分から午後の部がスタートしました。本郷五丁目の本妙寺跡へ向かいました。法華宗本妙寺は元亀元年(1570)、駿河で創建されましたが家康の入府に従って江戸城清水門に移されました。寛永にこの地に移りましたが現在は豊島区に移転しています。明暦の大火の火元とされていますが実際は隣の阿部忠利(老中)であったらしいとのことです。

日本で初めて小学校が明治3年(1870)6月に市内で6つでき、ここは第四校でした。3分位で菊坂の説明板がありました。この辺一帯は菊畑でしたので坂の下を菊坂町としたとの事です。

菊坂に降りる手前の説明板に宮澤賢治が妹の治療の為にこちらで住んだと書かれてありました。大正10年に上京し二階の6畳を間借りし、赤門前の文信社の校正をしながら昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をしていたそうです。「雨ニモマケズ風ニモマケズ・・」の精神は日蓮宗だったのです。

坂下を右に曲がり進んだ左手奥に木造の古い三階建て家屋があり、この辺りに樋口一葉が住んでいました。ポンプがのせられた井戸は今も使われていて、一葉が使っていた同じ水に触れることができました。道路に出てすぐにある伊勢屋質店跡を見ました。質草が燃えないように土蔵の漆喰が白く今もきれいに残されていました。一葉は伊勢屋の上得意で葬式の時には香典が届いたとの事です。

菊坂下を南下し白山通り西片の交差点に出ました。西に折れ進むと一葉終焉の地碑がありました。洋服店の右端に建てられてあり一葉は明治27年から29年の2年間、守幸という鰻屋の離れに住み、家賃付き3円也と書かれてありました。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など名作をここで書き上げ奇跡の2年間と呼ばれていたとの事です。4分位で新坂を上がり始めました。

阿部家の屋敷に通じる道を新しく開いたので新坂といいます。新坂は江戸に6け所あるという事です。すぐに夏目漱石・魯迅旧居跡がありました。明治39年12月に通称猫の家からこちらに転居しました。40年に「虞美人草」を発表し職業作家としての第一作目でありました。同年9月には早稲田南町に転居しましたが、翌年の41年に魯迅はその弟や友人5人で住みました。どちらも1年たらずの短期間でしたが日中の文豪が相次いで住んだ場所なのです。

  15分位、進むと西片1丁目から2丁目に入り佐佐木信綱住居跡がありました。国文学者で正岡子規や与謝野鉄幹らと歌壇の革新運動を進めたとの事です。「夏は来ぬ」「灯台守」の作詞でも有名です。

14時頃、日光御成街道と中山道の分岐点の森川(本郷)追分に来ました。大店である八百屋太兵衛の店はこの辺りにありました。

追分には高崎屋があり酒屋と両替商を営みその大きさは文京区歴史館にあった掛け軸の絵でみました。下級武士たちが住むこの場所で有名銘柄でない安い地場の酒を扱い人気があったとの事です。

東大農学部が見えています。現在はコロナ禍で見学することが叶いませんがでした。 こちらの校内に水戸中屋敷跡があり朱舜水(シュシュンスイ)の碑があります。明が滅んだ後に日本に亡命し水戸光圀に招かれ歴史の正統性を説き水戸学思想に大きな影響を与えました。

10分位歩くとコンクリートのお寺の浄土宗西善寺につきました。こちらの奥に近藤重藏の墓がありました。近藤重藏は御先手組与力の三男として明暦8年(1771)に生まれ父と同じ御先手組与力として出仕し、4度蝦夷地に赴きました。樺太、千島、利尻や現在の札幌周辺を視察しました。択捉島に設置されていたロシア人の十字架を撤去し「大日本恵土呂府」の石標を建てました。その後、身分不相応な行いで蟄居となり近江国大溝藩預かりとなり58歳で死去しその地で葬られました。そしてこちらの西善寺にも墓が建てられました。

すぐに正行寺の前に唐辛子地蔵の説明板がありました。境内にある地蔵尊は咳に効くとのことです。前の道が直線の道で縄手といい小苗木縄手が鰻縄手に変化したそうです。

14時半頃に曹洞宗大円寺に着きました。墓地の方から入り高島秋帆の墓を見ました。花々が脇に植えられた道を奥へ進みました。秋帆は幕末の砲術家で父親が長崎の鉄砲方で父に萩野流を学びました。出島のオランダ人からも教えを受け武器の貿易で得た財を私的に軍隊を率いて徳丸が原で実演を行ったとの事です。現在の高島平です。信長の孫にあたる人の墓もあり、かすかに織田という字が分りました。 斎藤緑雨の墓もあり墓石に刻まれた字は幸田露伴と知りました。明治の小説家ですが評論家として樋口一葉を高く認めた人ということです。

墓地から本堂の前にある高村光雲監修の観音像を見上げ有名なほうろく地蔵にお詣りしました。ほうろくが高く積まれてありました。庚申塔も観賞し次ぎへと進みました。

坂を下るとすぐに天台宗円乗寺です。こちらのお寺も様変わりしていて鉄筋コンクリートになっていました。奥の八百屋お七の墓に参り講師の話を聞きました。

15時頃、本日最後の白山神社に入りました。雄しべが旗の様に立っている白旗桜の話や、孫文と宮崎滔天が座って中国革命について語ったという長い石を見ました。明治43年5月という事です。

火曜日は少し暑く感じ、木曜日は途中小雨が降りましたが丁度良く、土曜日は一日中、雨でした。久しぶりの歩きは一万歩を超えましたが3時頃に終わりました。お陰様でいつものように皆様と楽しく進める事が出来ました。心より感謝申しあげます。来月も元気に巡れることを願っております。

待ちわびし江戸町歩き秋時雨

行く秋や名立たる坂の江戸の町     豊治

秋水に触れ一葉の古井かな       慶月

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江戸名所巡り 二部 第6回  本郷界隈を巡る(前編)

令和2年10月13日(火)、15日(木)、17日(土)の三日間、実に8ケ月ぶりの江戸名所巡りでした。新型コロナの影響は続いておりますが社会全体がwithコロナとして動き始めましたので、私共の歩き隊も参加できる人達で始動することにいたしました。

午前10時JR水道橋東口を出発しました。目の前に1907年都立高校とある校舎の建物がそびえています。左手に見ながら2~3分位進むと三崎稲荷神社です。かつてこの辺りは海沿いにあり「岬」だったことから、この名前になったそうです。稲荷の番付表では関脇ですから昔はどんなに大きく人気があったか、現在の規模では想像もつきませんでした。寛永年間に疱瘡の神薬を二の牛の日に施し与えたそうです。また大隈重信が海外へ渡航する時に参拝し、南極探検隊の白瀬矗(しらせのぶ)が「お砂守り」を携帯したという事です。

水道橋の駅まで戻り反対側の北へ向かいました。水道橋を渡り川沿いを歩くと神田上水懸樋跡碑がありました。広重の絵と名所図会で富士山を見て位置を確かめました。

私たちが先ほど乗ってきたJR中央線がひっきりなしに走っています。神田川から少し離れて西に進むと5分位で本郷1丁目の金比羅神社に着きました。讃岐金比羅宮東京分社です。ここは讃岐松平家下屋敷跡という事です。全国に6ケ所ある金比羅宮直轄分社の一つです。狛犬の顔の面白さや大きな腹(玉かも)に驚いてしまいました。

右隣の角地に宝生流能楽堂がありました。能楽は日本の伝統芸能で式三番、能、狂言を包括する総称です。宝生流能楽堂を曲がり坂道を上がります。坂の名前は忠弥坂です。忠弥は由比正雪と並ぶ慶安事件(不平浪人を組織して江戸幕府転覆を計る)の首謀者です。その丸橋忠弥の槍の道場が坂の上にあったそうです。説明板の上に郁子(ムベ)が色付いていました。

歩いて2分のところで本郷のこちらも一丁目で昌清寺の前に立ちました。家光の弟の徳川(松平)忠長の正室である「於昌」と乳母の「於清」の一字ずつからなる昌清寺の名前に胸がつまりました。入って左手に芭蕉句碑の「桜狩りきとくや日々に五里六里」があります。吉野で詠んだ句で寛永8年(1796)の建立でしたが関東大震災で消滅し再建された新しいものでした。

神田上水石樋(せきひ)を再現したものが公園の隅にありました。水道局は公園に隣接していて、水道歴史館へと入っていきます。その向かい側の辺り一帯は順天堂大学病院です。我国で初めての私立病院で日本で初めて入院して治療するシステムを導入したとのことです

さて、11時15分頃、水道歴史館に入り15分間ですがお手洗いを兼ねて見学しました。水道は明治31年に淀橋浄水場に始まりました。2Fには江戸時代の上水遺構の展示があり目を見張りました。1Fでは自由に飲める水を頂き、カルキ臭のない事に驚きました。

啄木のゆかりの喜之床跡は今も床屋さんとは皆で感心しながら眺めました。明治42年6月からこの二階の2間を借りて久しぶりの家族揃った生活ができ、仕事は朝日新聞の校正係でした。しかしながら家族五人の生活は苦しく望郷の歌が生まれ大逆事件で社会に目を開くようになったのでした。啄木の最も優れた作品が生まれたのもここ喜之床と言われています。

すぐに本郷4丁目の文京ふるさと歴史館につきました。こちらも15分の予定で見学しました。酒屋と両替商の高崎屋に関する資料を見て、当時どれだけ繁栄していたか知る事ができました。また昭和初期の道具類の展示も懐かしく見ていると、実家には殆ど残っていますよとおっしゃる方がいらっしゃいました。

元の広い通に出て100メートル位い進むと道路沿いに桜木神社がありました。菅原道真が太宰府に赴く時に桜の木で自分の姿を彫ったという説や元は桜の馬場にあったからという説があります。また一葉は、幼い時期に住んだ家のことを桜の宿と呼んでいます。奥に赤い見送稲荷がありました。これは江戸を追放となった人を見送った見返り坂が近かったからとの事です。

天台宗真光寺(戦災で世田谷烏山に移転)にあった十一面観世音像が住宅地の奥にありました。蓮華座には依頼主の名や享保五庚子(1720)とあります。又、同じ真光寺にあった薬師堂も見て午前の部が終わりました。近くで45分間の昼食休憩を取りました。

後編に続きます。

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第二部五回 佃島、築地界隈を巡る(後編)

13時過ぎ、もんじゃや海鮮、鰻などそれぞれ好みでお昼を頂いた後、佃島見学を開始しました。13時過ぎ、最初に拝見したのが江戸中期に上野寛永寺の宮様が建立した佃天台地蔵尊です。上野浄名院の和尚が写したものを線刻した地蔵尊が路地の奥にありました。銀杏の木が建物を突き抜けていました。

路地を出ると於咲波除稲荷大明神がありました。波除とはもっともな明神様です。さし石(力石)を見て次へと進みました。

昼前に橋を渡る時に見えていた石川島灯台跡に向かいました。江戸時代、軽犯罪者の自立支援施設として加役方人足寄場が石川島にありました。略して人足寄場です。

慶応2年、寄場奉行の清水純畸が船舶の安全の為に寄場の油絞りの益金の一部で灯台を設置しました。翌年、日本橋魚市場組合が常夜灯のお礼に50両、寄場に寄付したとの事です。灯台が石垣の上に復元されていました。ここで講師が火付盗賊改であった長谷川平蔵が松平定信に受刑者救済の意見書を出し、ここ石川島人足寄場の設置が実現したと話しました。私たちは平蔵という人物に改めて感心したのでした。

住吉小橋を進むと赤い鳥居がありずっと奥に住吉神社がありました、天正10年(1582)、本能寺の変の時に堺に滞在していた家康は、佃村の漁師の舟で逃げたのでした。翌年、平岡氏が社殿を奉載した田蓑(タミノ)神社の分霊と東照大権現を奉斎し住吉神社を祀りました。八角神輿は天皇陛下の高御座(タカミクラ)を模したと言われます。入船稲荷の狛狐のきりりとした顔と巻物を見ました。鳥居の扁額が陶器でできているのは珍しく文字は有栖川熾仁親王(和宮の婚約者)だという事でした。

境内を出ると直ぐに三軒の佃煮屋さんがあります。丸久は安政6年(1859)創業、天安は天保8年(1837)、佃源田中屋は天保14年(1843)です。どの店も人気の佃煮があり迷ってしまいましたが、三軒とも買い求めた方がいらっしゃいました。

又、佃煮屋さんの間の道を少し行くと手造りのお箸屋さんがあり黒檀製で5千円、一生物という事でした。こちらも買った方がいらっしゃいます。14時ちかくになり佃島を後にしました。

又、佃大橋を渡り湊へと戻って来ました。聖路加国際病院の新しい建物が聳えています。

青山学院記念の地とあり米国の宣教師により創立されたとありました。すぐ近くに女子聖学院発祥地の碑もあり、2分後には明治学院発祥の地で明治10年(1877)とありました。

それからすぐにヘンリーフォールス住居跡の碑がありました。イギリスの宣教師兼医師で築地病院を開き盲人教育に努めました。また日本古来からの指印(拇印)から指紋により個人が分別できるとの論文をネイチヤーに発表しました。日本では明治44年に警察に採用されました。

ここ明石町辺りは築地居留地跡なのです。江戸末期の安政5年(1858)、欧米五カ国との修好通商条約により開市とされました。外国の公使や領事館、また海外の知識人が居住していたのです。明石小学校前の交差点の向こう側が居留地だったとの説明板がありました。

明治16年、この付近に耕牧舎という乳牛の牧場があり作家の芥川龍之介が明治25年に経営者の長男として生まれました。母の病気により実家に引き取られ12歳の時に芥川家の養子になりました。

14時15分頃に浅野家上屋敷跡の碑がある所にきました。本懐を遂げた赤穂浪士たちが泉岳寺に向かう途中、この旧上屋敷辺りを通って主君に報告したとも伝わっています。聖路加病院へと入っていきました。スコットランドの宣教医師であるヘンリーフォルスが築地病院を設立し、その後、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り聖路加病院としました。淡桃色の建物が以前の病院部分で今は学校になっているそうです。教会の十字架が高くありました。ルドルフ・トイスラーの碑に前にアメリカ合衆国の星や白頭鷲などの公使館にあった石標や、トイスラーの住んだ館が復元されています。

直ぐ側に立教学院発祥の地の碑がありました。またすぐに慶應義塾発祥の地の碑もありました。隣に解体新書が描かれた蘭学事始の碑がありました。

メタセコイヤの大木の中、あかつき公園の中に入りました。シーボルトの胸像がありました。江戸に出てきた時には日本橋の長崎屋に逗留していました。ここに胸像があるのは娘のイネがこちらで産婦人科の医者をしていたからという事です。

公園を出て築地方面へと進みます。晴海通りに出た辺りに軍艦操練所跡がありました。築地卸市場となっている一帯はかつて幕府の軍艦操練所がありました。

浪除通りを進むと数分で波除稲荷がありました。起源は万治年間(1658~61)と言われます。当時、海中に漂う稲荷神社の御札を見つけ祀ると波が穏やかになり堤防工事が無事に終わったので稲荷神社を創建したとの事です。こちらはなんといっても大きな獅子頭でお歯黒の方が雌で、宝珠が乗っているのが雄です。牛丼の吉野屋の碑もあり皆さまの目を引いていました。色々な塚があり大きな玉子塚が目立っていました。

築地本願寺の手前に芭蕉句碑がありました。「大津絵の筆の初めは何佛」。

いよいよ本願寺へと入っていきました。元和3年(1617)に西本願寺の別院として淺草に建立されましたが明暦の大火で焼失し築地に移転したとの事です。まず、まわりの石碑やお墓を拝見しました。

現在の建物は伊東忠太博士が昭和10年に完成させたもので、ガンダーラ洋式の外観と内部は真言寺院造りとなっています。正面の本堂へと進みました。伊東忠太の動物像に注目しながら廻りました。本堂の下に羽根の生えたライオン像がありました。上の柱からも下を見ています。馬・牛・猿・象・鳥・グロテスク(口から階段の手すりが出ている)の像がありました。そして一番感銘したのは象と猿と鳥で樹木の高さを評定するという説話でした。鳥は非力だが一番高い処から見る事ができ物事は全体を見渡す事が大事だとの仏教の教えです。階段の動物を見たあとは小さな部屋でお茶を頂き、本堂の法話の邪魔にならないようにそっと手を合わせて失礼しました。

国立ガンセンターの大きな建物が見えて来ました。料亭新喜楽は芥川賞や直木賞の選考が行われる所です。明治初期には大隈重信邸だったのです。寿司の江戸銀の近くを通り海軍兵学寮跡碑を見ました。采女橋は松平采女正の屋敷があった事から付いた名前です。

本日の最後は東銀座の佐久間象山住居跡です。松代藩士で海防問題や海外事情の研究や技術の導入を説き木挽町で塾を開きました。勝海舟・河井継之助・山本覚馬・吉田松陰・坂本龍馬も門人でした。外国人と間違えられる程の容貌で、ぺりーが挨拶をしたとの話が残っています。京都で長州関係の人らに暗殺されました。日本にとって大きな損失であったと講師は述べて今日の行程を終わりと致しました。

歌舞伎座が見えて来ました。15時半をかなり回り16時近くになってしまいました。皆様、本日も楽しんでいただけたでしょうか。大変お疲れさまでした。

なお3月の江戸名所巡りは新型コロナウイルス感染防止の為にお休みとさせていただきます。

春浅し錨で偲ぶ江戸湊

富士塚やビルの谷間の風寒し

春の空尖塔高し大伽藍    豊治

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第二部五回  佃島・築地界隈を巡る(前編)

令和2年2月11日(火)、13日(木)、15日(土)の三日間お天気にも恵まれ巡る事ができました。都営日本橋駅10時に集合し5分~10分は早くスタートできました。

地上に上がると左手前方に郵便局の〒マークが見えました。日本橋郵便局です。交差点を渡りそちらに向かうと郵便発祥の碑がありました、イギリスの郵便事業を取り入れ前島密(ヒソカ)は明治4年(1871)に郵便制度を作りました。

首都高を潜り日本橋兜町へと入るとすぐに兜神社がありました。明治11年東京株式取引関係者が創建し昭和2年、現在地に移されたそうです。名所図会では牧野家の庭だったという事で源義家(朝臣)の兜を埋めて霊を慰める小祠を造ったとあります。

 

目の前に東京証券取引所のビルがあります。テレビで見かけるビルにちょっと興奮しながら進みました。周りは色々な証券会社のビルが立ち並んでいます。まさにここは日本経済の中心地なのです。

日本橋川に沿って歩くとすぐに鎧の渡跡がありました。やはり義家伝説で奥州征伐のとき鎧一領を海中に投じて風浪を鎮めたとの事です。江戸名所図会の風景は白壁の蔵が並び渡し船が往来していてとても味わい深いものです。

又くるりと廻り兜町の側に戻り日枝神社に入りました。こちらは山王御旅所で神輿三基が立ち寄る所でした。胸を張った江戸狛犬が印象的でした。

道を挟んで裏に別当寺の天台宗智泉院がありました。あの天海大僧正の発意により開かれたそうです。境内に宝井其角が住んでいたとの事です。猿の石仏は風化していました。地蔵菩薩は関東大震災の犠牲者の冥福を祈る為に日本橋魚河岸の人々が建立しました。

茅場町一丁目の永代通りのみずほ銀行角に其角住居跡の碑がありました。大高源五との関わりも思い出されます。

10時半過ぎに霊岸橋を渡りました。日本橋水門がありました。数分で河村瑞軒(賢)屋敷跡に着きました。伊勢の出で土木家です。明暦の大火の折、木曽より材木の買い付けで巨額の富を得たとの事です。後に大坂の治水の功を建てたという事です。

 

 

格調の有りそうなビラフォンティーヌホテルの前を通り新川大神宮の鳥居を潜りました。小ぶりの美しい紅白梅が迎えてくれました。こちらは霊岸島の産土神で大神宮、神明社と呼ばれています。鞭架けがありました、伊勢上人所縁の神社であり酒問屋の守護神としても崇敬されています。

霊岸島の交差点近くに梅花亭がありました。嘉永3年の創業です。私たちは以前、門前仲町の店でうすいどら焼きや幕末に作られたというアメリカ饅頭を買い求めました。こちらが本店ですが今回はお休みでもあり素通りしました。

亀島橋には瑞軒の土木、海運の功労者の説明板があり、亀島橋を渡ると堀部安兵衛の碑がありました。儒学者の細井次郎太夫の家に居り近所の子供に剣を教えていたとの事です。

すこし行くと小さな芭蕉句碑「菊の花 咲くや石屋の 石の間(アヒ)」がありました。この辺りは石屋が集まっていたとの事です。

鈴らん通りを抜ける手前に八丁堀与力同心組屋敷跡の説明板が立っていました。慶長17年(1612)頃から舟を通す堀が造られ河口から長さ8町(約860M)あった事から八丁堀と名が付きました。京華コミユニティールームシルバ人材センターの建物のまえです。与力は300~500坪、同心は100坪の拝領屋敷があったという事です。生活費を得るために文化人などの町民に貸していたそうです。

八丁堀駅前通りを行きました。東京湾クルージングという小さな舟が進んでいました。河津桜が咲いていて私たちの目を楽しませてくれました。そして埋められた八丁堀あとの下水道局の通路を眺めました。

高橋を渡り越前堀薬局を過ぎると11時半頃に於岩稲荷田宮神社に着きました。四谷怪談の主人公「お岩」を祀った社です。紋は陰陽勾玉巴です。歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地で明治2年歌舞伎役者の願いを受けて創建したとの事です。

5~6分で江戸湊発祥の地に着き水辺の風景が広がっていました。慶長年間、幕府が江戸湊を築港し水運の中心地としました。昭和11年までは伊豆七島などへの航路の出発点として賑わったいたそうです。金の錨が目立っています。

南高橋を渡りました。関東大震災で被災した両国橋の鉄橋を利用して架けたという事です。鉄砲州稲荷神社に着きました。八丁堀の産土神で稲荷番付では西の横綱と聞き私たちもしっかり拝見しなくてはと力が入りました。しかし一番印象に残ったのは富士塚で広重の絵にも描かれています。どなたかが登りたいとおっしゃっていましたが、残念ながら今は禁止されています。お供え物の立派さに驚きながらお詣りをし繆斌(ミユンヒン)慰霊碑(孫文主義の発起人で大東亜戦争の終戦工作を試みた人物)を見上げました。

丁度12時頃に佃島渡船場跡に着きました。佃の渡しの渡賃は一人50文(漁師はただ)で明治9年には5厘となり「5厘の渡」と呼ばれました。

昭和38年に佃大橋の完成により廃止されました。その佃大橋を渡りました。しっかりと区切られた歩道があり車道も広く感じました。左手にはスカイツリーが見えています。右には勝どき橋が見えました。

10分位で月島西中通りの商店街に着きました。もんじゃ焼き屋さんが両側にずらりと並んでいました。迷っていると会員さんの詳しい方が有名なお店に案内して下さいました。人気メニューのもんじゃ焼きを美味しくいただきました。

後編に続きます。

 

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江戸名所巡り 二部4回 日本橋・京橋界隈を巡る(後編)

午後は1時頃のスタートで銀座のメイン通りに出てブランドのウインドーをチラリチラリと見ながら進みました。松屋を過ぎ木村屋のあんパンの美味しさを思いながら三越銀座店の晴海通り口から9Fを目指しました。

屋上ガーデンの隅に大きな出世地蔵立ち、横にお神籤の様な祠がありました。その中には本物の出世地蔵尊が鎮座していらっしゃいます。明治初期に三十間堀から発掘され地震、戦災の度に行方不明となりましたが地元の人がその都度見つけ出し祀りました。そして昭和43年に当地に移設されました。道ばたから百貨店の屋上に移された事から出世地蔵とよばれる様になったとの事です。その横に三井家の三囲神社が祀れていました。

三越の向いの銀座の象徴ともいうべき服部時計店の時計台の立つ和光ビルを見上げました。四丁目交差点は東京のシンボルの一つでこれを渡ると鳩居堂です。熊谷氏の子孫が寛文3年(1663)に京都で薬種商として創立し、後に中国から輸入した文具を取り扱いました。熊谷氏の紋である鳩から「鳩が居る場所」として名付けられたとの事です。筆者は主に葉書や句帳、祝儀袋を愛用しています。

銀座千疋屋やGAPの店もあります。数寄屋橋交番の前を右に行くと柳並木の碑があり並ぶように銀恋の碑がありました。「心の底までしびれる様な・・・・東京で一つ銀座で一つ・・・真実の恋の物語」石原裕次郎の低い声が聞こえてくる様です。

14時頃,西銀座の銀座インズを通り有楽町駅前の南町奉行所跡に着きました。呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋と移動し、文化年間(1804~18)から明治に至るまでここに南町奉行所が置かれました。講師は大岡忠相が行った偉業を三つあげ、その内の再審制度を作った事で庶民の支持を大いに得たのだと力を入れて語るのでした。

地上から地下へ降りました。壁面に奉行所の地下の穴蔵(地下室)の一部が展示されていました。水抜き用の穴もそのままにありました。木製の長いベンチや、石の一人用ベンチも当時のもので造られているのです。一体どれだけの人がこの事を知って利用いているのでしょうか。

有楽町の名前の元となった話を聞きました。戦国時代の大名織田有楽斎(織田長益)の屋敷がこの辺りにあった事から明治に有楽町と名付けられました。有楽稲荷は高槻藩永井飛騨守が子孫泰平と子孫繁栄を祈念して安政6年に創建した屋敷神です。

明治大学発祥の地の赤い石碑の前を通り数寄屋橋跡を見ました。

江戸城外堀に設けられた見附の一つで数寄屋門の掛かった橋の名前で数寄屋とは茶室の造りで、有楽斎の茶室で有名であった事と幕府の数寄屋役人(幕府の茶礼、茶器を扱った小吏)の公宅があった事からきているとの事です。

数寄屋橋は「君の名は」の最初の舞台になった場所です。橋は焼失し現在は公園となっています。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」。

少し歩き、みゆき通りに入りました。明治天皇が築地の海軍操練所をご覧になるために通られた道で天皇の外出を御幸(ミユキ)と呼んだ事から「みゆき通り」とされました。また将軍が浜御殿に行く時の道でもありました。

フランス貴族の門を移築した泰明小学校はとても有名な人が卒業していました。北村透谷、島崎藤村、池田弥三郎、近衛文麿等々です。門の中は校庭が広がりその向こうに校舎が建っていました。

5分位でロレックスのビルの前に石川啄木のレリーフがあり、あの若く美しい顔がありました。「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」明治18年に岩手県に生まれた啄木は明治42年から44年まで此処にあった東京朝日新聞で校正係を務め翌年に27歳の若さで亡くなりました。困窮を極めた生涯でしたが、贅をつくしたロレックスの時計を目の前にしている像に、なんと皮肉な事かと思いながら別れを告げました。

次に花椿通りに入りました。5分位で豊岩稲荷がありました。明智光秀の家臣であった安田作兵衛が江戸初期に主家の再興を願って創建したとの事です。森蘭丸を討ち取った人と言うことで、今年の大河ドラマで安田作兵衛が出るかどうか注目してみましよう。それにしてもこちらの稲荷もとても狭いです。お供え物の油揚げがちやんと供えてありました。花椿通りには名前の通りに資生堂があります。創始者は西洋風調剤薬局を明治5年に開業しました。資生とは中国の易経の万物資生から付けたそうです。椿色のビルが建っていました。

銀座の端の8丁目の金春通りに入りました。金春家は幕府直轄の能役者の最旧家でした。その屋敷あとの説明板がありました。路地には芸者が集まり花街として発展し明治に新橋芸者になったとの事です。今も金春湯や金春通りとして名前が残っています。銀座の煉瓦作りの煉瓦が残されていました。

15時前に芝御御門跡に立ちました。朝鮮通信使来府を機に新井白石の建議により札の辻より移された御門です。一回に約200人程の通信使が訪れ御三家なみの待遇で持てなしたとの事です。17世紀以降に日本から朝鮮に入った物は唐辛子、タバコ、トマト、サツマイモ等が有り驚きを持って話を聞きました。

15時、新橋親柱のすぐ側に銀座の柳の碑があり昭和29年とあり、かなり古いのにしっかりと音符も見えました。しかし曲が浮かんで来ません。柳は二世との事です。

ポルシエのビルを通り着いたのが旧新橋停車場跡でした。明治5年(1872)に新橋、横浜(現在の桜木町)間の約29キロが開通しました。日本の鉄道に携わった人々の熱意が今に受け継がれ現在世界をリードしているということにとても誇りに感じます。0哩標識を見た時は皆、口々にほお!!の声が出ていました。

鉄道博物館の内部を観た後、浜離宮へ行く人と、ここで終了する人とに別れ解散しました。約半数の方々が浜離宮を見学をしました。汐留の方へ進み始めた時に左手に踏み切りの信号があります、線路など有るはすが無い場所です。これは昔の築地市場への引き込み線の踏切でしたが残して欲しいとの強い要望により残されました。なんと云っても此処は新橋なのですから。胸があつくなる話ではありませんか。

15分位歩き浜離宮恩賜庭園の大手門に着きました。65歳以上は半額の150円です。六代将軍の家宜が本格的に改修し海の水を入れ回遊式築山庭園としました。300年の松はその時に植えられたとの事です。昨年の10月にまかれた菜の花がもう咲いていました。紅梅が咲き始めていました。ビルを背に東京ならではの風景です。大きな山茶花が散りながらも満開の華やかさを南に向けていました。

海岸まで進み私たちは将軍お上り場を眺めました。慶喜が大阪城より逃げ帰り、ここから上がったのです。水鳥がゆうゆうと遊んでいました。目の前は東京湾です。

その後は鴨場を見物しながら辺りの散策をしました。平成30年(2018)に復元された鷹の御部屋(約2億3千万円の費用を掛けた)をゆっくり拝見しました。将軍の待つ場所と大名の場所の違いの説明を受けました。

外に出ると池の真中の中島の御茶屋がとても美しく水に映えていました。もう一度、300年の松を見て浜離宮恩賜庭園に別れを告げました。

土曜日は一日中冷たい雨の中をお疲れ様でした。三寒四温のこの頃ですが、二月も元気よく皆様とお会いできます様にと願っております。

年の初めの江戸名所巡り、皆様お疲れ様でした。

屋上へ出世の地蔵春うらら       豊治

智恵子への千代紙寒の雨の店      慶月

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江戸名所巡り 二部4回  日本橋・京橋界隈を巡る(前編)

令和2年となりました。皆様本年も江戸名所巡りを宜しくお願いします。

1月16日(木)、18日(土)、21日(火)の三日間、私たちにとって憧れの場所でもある銀座を中心とした所を巡りました。

午前10時、銀座線、日本橋駅をスタートし地上に出ると、布団の西川の向こうに第一部一回にスタートした懐かしい日本橋の文字と首都高が見えていました。ポマードの柳屋のビルが黒くそびえています。それを見ながら横断歩道を渡りました。柳屋のポマードは父が愛用していた記憶があります。

講師は、東海道の道幅は車道ですよと云いました。西川布団店の手前を右に入ると、コレドの前に白木屋の井戸跡がありました。白木屋は近江長浜の材木商が寛文2年(1662)に江戸に出て小間物屋を開き、後に呉服を扱うようになりました。白木屋二代目が深井戸を掘り、その清水を通行人にサービスしたとの事です。黒い石碑の右に漱石名作の舞台の石碑がありました。この近所の飯屋や寄席の木原亭が「三四郎」や「こころ」「我が輩は猫である」に登場するのです。

2,3分で榛原(ハイバラ)に着きました。文化3年(1806)より和紙や小間物を販売しています。高村光太郎が智恵子に千代紙を買ったという話に感動し店の中に入りました。10分位時間を取り見学したり買物をしました。

お茶の山本山は元禄3年(1690)に山本嘉兵衛が煎茶の狭山茶で販売を行いました。通りに丸善のビルがありました。明治2年に丸屋善八が創業したのは洋書専門店でした。

 

日本橋さくら通りを入った所に日本橋長門がありました。間口も奥行もありませんが小綺麗な店内でした。こちらの「切り山椒」という上新粉でできた菓子は将軍様御用達と聞き、冷たい雨の中を歩いていた木曜日には買って試食してみました。東の横綱の味は、上品で山椒の香りと味が後に残りました。

5分位で江戸秤座跡の碑がありました。甲州浪人、守随兵三郎が徳川家康に願い出て関八州の秤の管理を任されました。その後、東日本33ケ国は守随家が西日本の33ケ国は神善四郎が任されました。

日本橋三丁目養珠院通りに入っていきました。家康の側室で養珠院(於満の方)は紀州徳川家と水戸徳川家祖の御生母です。日本橋に将軍家の休息所があり於満の方がこの地の商人を贔屓にし日本橋界隈の発展に貢献しました。死後に商人たちが恩に感じ稲荷社を建てました。ビルとビルの間の人一人が入っていける狭さですが、それぞれに拝見しお詣りしました。

JR前の地下街に降りました。ヤンヨーステン記念像がありました。ヤンヨーステンは「耶揚子(ヤヨウス)と名乗り屋敷地が八代州(ヤヨス)河岸で、後に八重洲となりました。地上に出て安全地帯に造られたヨーステンとリーフデ号のレリーフを見ました。少し進むと慶応元年(1866)創業の越前屋は手芸用専門店でしたが、現在は福井の特産品を扱っているようでした。

新しくできたミユージアムの脇を入ると歌川広重の住居跡のプレートが建築中のビルの壁にありました。

明治屋は昭和8年に建てられたイタリア・ルネッサンス様式の建物で地下鉄の駅と直結した初のものでした。

山形屋海苔店は明和元年(1764)創業で明治初年に焼き海苔を創作したということです。海苔の香りが一番よく香る海苔ですね。

江戸歌舞伎発祥碑が立派に建っていました。中村勘三郎が寛永元年(1624)に芝居興行したのが始まりとの事です。その奥に京橋大根河岸・青物市場跡がありました。

向こうに緑化されたブリジストンのビルが見えています。信号を渡ると警察博物館がありました。無料で大人も子供も楽しめる所です。ヘリコプター、赤バイ、白バイにも跨がる事ができ、子供は制服やヘルメットを借りる事ができます。

上階には立つだけで変身(制服に)できる写真やゲーム的要素の遊びもできる場所があり、またもっと上階にはこれまでの大事件などの展示もありました。15分位の間にお手洗い休憩も取り次に進みました。

京橋は擬宝珠のある(他は日本橋と新橋)立派なものでした。昭和34年に埋め立てられ撤去されて親柱が残るのみとなっています。広重の浮世絵で私たちは当時を偲びました。

 

越後屋は宝暦5年(1755)創業と暖簾に染めてある店で呉服を扱い現在展示されている高級着物は目の保養になりました。

お昼近くに銀座発祥の地の碑を見ました。関ヶ原の翌年、銀の鋳造所と役所が作られました。

前回の神楽坂での昼食に続き、今回もまた特に楽しみな銀座での食事です。洋食の祖の煉瓦亭はいつも賑わっていました。素敵なカップル、静かな外国人の家族等々。やはり元祖のポークカツレツとオムライスは食べてみたい一品でした。オムライスの中身が特に美味でマシュルームが入っていて気にいりました。又ポークカツレツの肉が軟らかくとても食べやすい印象でした。

又、通りの奥のスペイン料理も評判でした。ランチタイムのコース料理は味とお値段で大満足でした。内装もおしゃれ!さすが銀座です。

煉瓦亭のそばのグリル・スイスも味わってみたく、最後の日に入ったお店でした。

後編に続きます。

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江戸名所巡り 二部第3回 江戸城外堀を巡る(後編)

善国寺に集合し大体、午後1時位のスタートで後半がはじまりました。すぐ先を左に折れ地蔵坂にさしかかるとすぐに光照寺に着きました。浄土宗増上寺末です。正保2年(1645)に神田の誓願寺町から移転しました。快慶作の三井寺から移された地蔵菩薩があり、子安地蔵として親しまれていたから地蔵坂と呼ばれました。

門の内に入り左に曲がると酒井氏の墓所があります。出羽松山藩酒井家の江戸における菩提寺で2万石とはいえ、なかなか立派でした。鐘は戦時中に供出されましたが返還されたそうです。すこし小ぶりな鐘です。どの様な音色なのでしようか。海ほうずき供養塔の横には立派な正保4年(1647)の釈迦像が立っていました。そして本堂の奥の墓地も拝見させてもらいました。奥の突き当たりに諸国旅人供養塔がありました。安政5年(1858)までに旅先で亡くなった人は49名で俗名と生国が刻まれているとの事でしたが文字はすでに風化したのでしようか、いくら見ても分かりませんでした。

徳本の名号塔には○に十字をきったような花押が刻まれています。浄土宗の僧で寺を持たずに一生、旅をして広める念仏行者徳本上人の塔です。又、すこし横には切支丹仏像と言われる額に花菱クルスがある如意輪観音がありました。石をいくつも並べた石庭風の珍しい墓は大久保北陰のもので大正6年、81歳で亡くなった人の墓です。また、便々館湖鯉鮒(ベンベンカンコリウ)の墓は江戸時代中期の狂言師で文化15年(1818)、70歳で没したとの事です。本堂の前に牛込城とあり、ここに牛込氏の屋敷があった事が解ります。

新坂という坂を下り住宅地を通り7分位で若宮八幡神社に着きました。源頼朝が文治5年(1189)に奥州藤原氏討伐の時、ここで祈願し奥州平定後、鎌倉若宮八幡を勧請しました。すぐに次へと進みました。坂道を下る時、すばらしく大きな屋敷の横を通りました。聞くと最高裁判所長官の官舎という事です。庾嶺坂(ユウレイサカ)にそって高い塀が続いていました。

そこから2~3分で小さな筑土神社があり、その前に堀兼の井がありました。掘っても堀ってもなかなか水が出ず皆が苦労してやっと掘ったという意味ですが、継母に素手で掘るように言われた子が水が出ないまま息絶えたとの話が残っています。現在はポンプの井の形をした防災用井戸となっています。

外堀通りを南に向かって10分位歩き、ちよっと折れて住宅地に入った所に浄瑠璃坂の柱がありました。光円寺の主尊が薬師如来で東方浄瑠璃世界の教主だったという説とか人形浄瑠璃師が住んでいたとかの説があります。しかし、その名前は現在に残り私たちに何か伝えている様でした。江戸の三大仇討ちの一つである浄瑠璃坂の仇討ちが行われた所です。寛文12年(1672)、宇都宮藩の家老同士の口論から刃傷沙汰におよび切腹、息子は改易となりました。4年後に息子が本懐を遂げた時の絵を講師が掲げて見せました。

通りに出て進み市ヶ谷見附跡の信号を右に曲がると市谷亀ヶ岡八幡宮の石段が見えました。大半の方々は右手の女坂(駿台予備校の中を通る)を選び上り始めました。太田道灌が江戸城築城の折、西の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請しました。坂を上り切ると網のフエンスの中に自衛隊のトラック等が置かれていました。広大な土地と建物がある防衛省の用地となっていました。さてぐるりと廻り後ろから入った市谷八幡にお参りと見学をしました。琴平の酒である金陵が奉納されています。水盤の左側面の台座にはあの几号水準点の印がありました。狛犬はどちらも江戸時代のものです。

石段を少し下った所に琴平神社がありました。これは近くに港があったという事を意味しているとの事です。木曜日はここで少し風が吹いたのでしようか、銀杏落葉が私たちに振り注ぎました。又、少し下がり茶木稲荷に詣りました。茶の木稲荷には白狐がいて茶の木で目を突いたとの事です。信者は正月の三が日はお茶を絶ったという話があります。又、長崎から横尾道益という医者が怪我をした旅人を手当したのがここの狐だったのです。狐の予言どおりに道益は出世したり、火事の時には狐の助言で命拾いをしたとの事です。

 

10分位で市谷駅構内へと入っていきました。江戸歴史散歩コーナがあり石垣が改札の中にドンとあり江戸の古地図が床に描かれたありました。ここが市谷見附です。私たちはトイレを借りながら足元の絵図を楽しみました。

エスカレータを上がりもと来た道に戻り橋を渡ると市ヶ谷駅が右手にありました。左の交差点の千代田区の標識の下辺りの道が帯坂で番町皿屋敷の話がある所です。腰元のお菊が帯を引きずり逃げた事から帯坂と名がついたとの事です。

説明を聞きながら外堀の土手(江戸城外堀公園)を歩きました。松が植えられているのは非常時に松を切り倒しバリケードにするためだそうです。銀杏の黄葉を踏み風景を楽しみました。10分位で左側の大きな品の良い入口の建物を見ました。雙葉小学校と中学校とありました。

四谷見附(説明は次回の半蔵門から新宿の時)の側を通り迎賓館へと進みました。紀州藩中屋敷の20万坪の広大な敷地は現在、赤坂御用地となっています。明治42年にベルサイ宮殿を模して片山東熊(コンドルの弟子)が統轄し完成しました。本日はフエンスの外から見ながら通りました。15時過ぎた頃、紀州藩中屋敷の御門がありました。人通りが少なくて上野と同じ景色を見た時を思い出しました。江戸時代にタイムスリップしたような気がしました。白壁の塀が長く続いていました。

外堀の橋を渡る時は右手には水鳥が遊んでいました。左手は広いグランドになっていますが戦災の瓦礫をここで処分して埋め立てたという事です。上智大学が協力したとの事で周辺には上智大学の立派な校舎がそびえていました。橋を渡った先が当時の道が左右に折れ曲っていたので喰違見附跡と言われています。紀伊国坂上に讃岐高松藩生駒氏により築かれたもので三十六見附中、最高の地点です。明治7年に岩倉具視襲撃事件がここで起こりましが軽傷で暗闇の濠へ逃れ助かりました。

 

ホテルニューオオタニが見えて来ました。歩道の右手に尾張名古屋藩屋敷跡碑の石柱がありました。近江彦根藩井伊家屋敷跡もありました。静かな裏庭の様な場所にホテルオオタニの創業者である大谷米太郎が購入した上野寛永寺の灯籠が2つありました。萱の大木も見上げました、江戸中期より井伊家の庭にあった萱の木です。冬桜も近くに咲いていました。

ホテルを出て紀尾井坂を下りました。銀杏並木の美しさにうっとりとしながら滑らないように踏みしめながら歩きました。

ホテルの外に沿って右に曲がると清水谷公園です。またまた美しい紅葉が池に映っていて外国人も楽しんでいました。その奥に大久保利通慰霊碑が大きく建てられていました。明治11年にこの地で石川・島根県の不平士族に殺害されました。懐に西郷隆盛の手紙を持っていたとは胸の詰まる話でした。落葉の奥に石桝が置かれていました。

公園を出ると新しく建ったガーデンテラスホテルのイルミネイションが月曜日は灯り始めていました。弁慶橋を渡ります。弁慶小左衛門が神田の藍染川に掛けた橋の廃材で造りました。擬宝珠もある日本風の美しい橋と桜の木で東京の名所だったそうです。

左に曲がると赤坂見附跡がありました。赤坂見附門の石垣の高さは外堀随一の高さです。大山街道はここから始まります。これまで内堀・外堀を歩きましたが江戸城の大きさが少し分ったような気がします。この城を中心に100万人の人達の暮らしがあった事を偲びながら帰路に就きました。

暮れの月にもかかわらず大勢様のご参加をありがとうございました。そして一年間大変お世話になりました。

令和元年もあと少しです。新しい年が皆様にとって素晴らしいお年でありますように。

 

山の手の社静かな年の暮     豊治

 

茶屋の名を刻み稲荷の冬日和

山茶花を掃き黒塀へ消えゆけり   慶月

 

 

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第二部 三回 江戸城外堀を巡る(前編)

12月10日(火)、12火(木)、14日(土)の3日間、東京のまだまだ美しい紅葉の中を歩きました。10時にJR飯田橋駅をスタートしました。

西改札口を降りて本日の予定などを聞き、右に折れた所に牛込橋があり、牛込見附跡がありました。明治35年に撤去されましたが阿波徳島蜂須賀阿波守が築いた御門や石垣があり、3千から1万石の旗本が3年交替で勤番していました。

真直ぐ進むと神楽坂ですが周りの何カ所か見学してからという事で、日本歯科大学をぐるりと廻り5分で東京大神宮に着きました。明治33年、大正天皇が皇太子の時、初めて神前結婚式が行われました。これを参考に東京大神宮(当時は日比谷大神宮)の神官が神前結婚式を実施し世間に広まったとの事です。

飯富稲荷へお参りして飯田橋方面へと戻りました。その折り、向こうの信号辺りですが、幕末に清川八郎の発案で組織された江戸の警護集団の新徴組が駐屯していた庄内藩酒井家中屋敷があった所との説明がありました。

飯田橋の駅の近くに「東京農業大学開校の地」があり、徳川育英会が明治24年に設立したとありました。初代学長があの榎本武揚なのです。

外堀に住むゴイサギを見ながら歩道橋を渡りました。飯田橋の由来は開府前の江戸でこの辺りの長老、飯田嘉兵衛が家康を案内し、その功に対して、この一帯を飯田村と命名したとの事です。明治23年に鉄製の橋が架けられました。

 

目白通りと分かれて東西線、大江戸線の上辺りを歩いて行くと10分位で筑土八幡宮に着きました。江戸名所図会では平安時代に慈覚大師が小さな祠を建て伝教大師作の阿弥陀如来を祀ったのが始まりとの事です。鳥居の裏側に刻まれている「従四位下行豊前守丹治直人直邦」の行に注目しました。豊前守より従四位下が上だという事を示しています。

猿と桃の珍しい庚申塔や狛犬、金太郎や一寸法師などを作曲した田村虎蔵の碑も見ました。古い江戸時代の神輿もガラス越に見る事ができました。

この辺りは武家地なので元々、町名はなく坂道にそれぞれ名前が付いています。瓢箪(ひょうたん)坂を上がりました。

大きな赤い鳥居が見えてきました。木々の紅葉がまだ残っていて美しい風景の中に入っていきました。本殿も右手にあるカフエやマルシェも近代的な建物なので時間があれば楽しみたいと感じました。

小田原北条氏に属していた牛込氏(大胡氏)が家康より領地を安堵され旗本となったとの事です。おかっぱ頭の狛犬は加賀白山狛犬で江戸中期に流行ったそうです。北野神社の神楽殿は蛍雪神社となりました。

絵馬の奥に進みました。八耳神社は太子堂でしたが耳の病気を治す信仰となりました。神楽坂の東照宮と言われた葵神社と出世稲荷神社の三つが並んで鎮座していました。

神楽坂のメインの通りに向かいました。音楽の友社の前を通り東西線の駅を過ぎると神楽坂のオレンジ色の旗が華やかに迎えてくれていました。ポストの横にコボチヤン像が立っています。読売新聞の四コマ漫画コボチャンを描いていた植田まさし氏が住んでいたとの事です。

神楽坂上から少し奥にいった所に小さな寺内公園がありました。マンションと住宅地の中ですが元は行元寺の境内でした。最初は武士だけが仇討ちを認められていましたが、ここで農民が初めて仇討ちをした所とのことです。

神楽坂の通りを少しずつ下っていきます。相馬屋は1648年創業との事です。四百字詰原稿用紙を作ったとの事で、講師は石川啄木を例に挙げて文士たちにとってこの店の原稿用紙の価値がどれだけのものであったかを説明しました。

 

木曜日、土曜日は先に善国寺に入りました。日蓮宗鎮護山善国寺は家康から山号、寺号を賜りました。江戸三大毘沙門天の一つです。他は芝の正伝寺、淺草の正法寺です。石虎は嘉永元年(1838)のもので英国式水準点の几号が彫られています。毘沙門天は多聞天とも言い多くの願いを聞いてくれるとの事で参拝者を多く集めています。

すぐ右に折れ見番横町に入りました。現在は約25名の芸妓がいるそうです。芸者衆の手配や稽古を行う場所で火曜日、木曜日は三味線の音が聞こえてきました。小さな稲荷神社があり松枝と一番有名な料亭名が角に刻まれていました。この横町は約100Mとのことです。

芸者さん達の履物や小間物を扱う「助六」を見ました。

 

粋な黒塀で有名な「かくれんぼ横町」を少し見学しました。お安いランチでも2200円位からで名のある天麩羅屋さんは天丼が3500円位です。格子戸の内側に小さな庭も見え日本情緒をかもし出しています。

しかし私達の大半の人たちはリーズナブルで美味しい元の通りに戻り昼食を楽しみました。一時間位の休憩で、おせんべい屋やホテルのパン屋の買物を楽しみました。神楽坂の雰囲気をちょっぴり味わった後で毘沙門天に集合しました。

後編に続きます。

 

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