第十四回 江戸名所巡り 下総国府界隈(前編)

令和元年5月14日(火)16日(木)18日(土)の3日間、新緑の中を気持ちよく歩く事ができました。

10時に京成本線国府台駅に集合し、大体時間通りに出発できました。国府があった場所がなぜ「こうのだい」と読むのかという説明で諸説あるが鴻の鳥がこの辺りに多く居たとの説明を聞きました。

しばらく線路沿いを歩き左に曲がるとそこが万葉集の和歌が鑑賞できる通りでした。山部赤人、額田王、山上憶良、詠み人不詳等と、どれも達筆で表示されていました。個人の住宅の塀にあるのを一つ一つ熱心に読む方もいらっしゃいました。

この辺りの地名は真間(ママ)といいますが崖線、土手の崩れの意味を持つ古い言葉で万葉集の時代には、湾は今より北方にあった様で入江がいくつもあったそうです。州から州へ架橋があり、その名を残す継橋を渡りました。そして国府台は下総国府の中心であり、川と海に行き交う人々で賑わったそうです。

継ぎ橋という名前が残る橋を渡りました。

手児奈は629~642年の頃の葛飾真間の国府に勤める国造の娘で大変美しい人で遠く都にも聞こえていて万葉集の歌にも再三出てくるとのことです。

この美しい人は嫁ぎ先の国造と実家が争いになり逃げて一人で子供を養っていましたが、その美しさゆえに周辺の男たちが言い争うようになり入水したのでした。1501年に弘法寺7世の日与上人によって手児奈霊堂が建立されました。池には白い睡蓮とその葉で被はれていましたが此所が真間の入江の名残とされています。安産講記念碑はとても珍しいとの事です。

10時半過ぎに日蓮宗弘法寺亀井院に入りました。湧き水が瓶に満々と満ちていた事から瓶が亀になったということです。手児奈が水を汲んだという井戸がありました。男達は朝早くから彼女を見るために集まったそうです。井戸の周りを一廻りさせて頂きました。白秋の歌碑「蛍飛び真間の小川の夕闇に蝦(えび)すくう子か水音立つ」

私達は真間の住宅地を進みました。先程、見た石段のある日蓮宗弘法寺の場所に出ました。中頃の一つだけ常に濡れているという涙石も見ながら上がりました。日光に運ぶ石を弘法寺の石段に使用した罪で作事奉行の鈴木長賴が切腹したとの言い伝えがあります。それ以降、涙で濡れるようになったといいます。

上がると直ぐに一茶の碑「真間で斯(こ)う拾ひしよ散紅葉」楼門の金剛力士は運慶の作で「真間山」の額の字は弘法大師の真筆という説があります。袴腰の鐘楼が赤くて新緑の中にありました。

境内を進むと伏姫桜という大きな垂れ桜がありました。これは南総里見八犬伝の里見義実の娘にちなんだ樹齢400年の見事なものでした。実際のモデルの姫は里見義堯の娘である種姫です。その奥に戦前の砲兵連隊の碑がありこの辺に大きな連隊があった事が分ります。

本堂の前を先に進むと広重の絵の場所に着きました。この寺は紅葉で有名でした。丁度、紅葉のピンクの羽(花)が沢山付いていて綺麗でした。

奥の方に43メートルあるという前方後円墳墳がありました。

日蓮の真刻と伝えられる大黒天が祀られていました。

文化5年(1808)の道標があります。「国分寺 五町」「真間山」が読めました。

10分位歩くと郭沫若記念館に着きました。大正3年から日本に留学し九州大学医学部を卒業しました。その後、蒋介石に追われて日本に亡命し市川の須和田で10年間過ごしました。日中戦争時に密かに日本を脱出し中華人民共和国では政務副総裁等で活躍したそうです。日本人の妻や子供の事も聞きました。

土曜日は中に入ることができました。あまり時間はなくじっくり見せてもらう事は叶いませんでした。11時半に近づいていた頃、記念館を後にしました。

7分~8分程あるき下総国分寺跡に着きました。新しい律令時代の門が現れました。右の仁王が江戸時代のもので左の方は新しい仁王さまでした。現在は真言宗国分山国分寺という名前です。

土曜日は法鼓が鳴っていて趣きを感じました。広い参道を進みました。馬頭観音は馬が犬よのうであり光背もあり、私たちを引きつけました。安永2年とありました。

 

 

お昼少し前に平川の跡を見ました。鏡石はこの辺にあったそうですが暗渠となっていて両側は住宅地となっています。

 

本日のお昼の場所の千葉商科大学を目指して10分位あるきました。12時前後に学食に入りました。平日は12~13時までは学生さんが中心ですので私たちは外のイス、テーブルで頂きました。450円と550円どちらか選んで食券を買うのです。

安くてボリュームがあり、美味しく頂きました。

後編に続きます。

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