11月8日(火)、12日(土) 両日共に晴れて、とても気持ち良く歩けました。10時に皆さまが揃っていましたが、下仁田行き上信電鉄の電車は16分の発車です。山名に向けて、ペインティングされた車両に乗り込みました。
10時半過ぎ、山名駅より本日のスタートです。細い真っすぐな道の田園風景の中、左手にこんもりとしたものが古墳だと聞き、長い歴史の流れを感じながら歩みを進めました。
前回の追分より道がここへと続いているという場所を見ながら、20分位で西山名駅の線路を渡りました。
石碑群の中に扶桑教碑が大きく立っていました。鎌倉街道中道の新井宿での不二道(富士道)の小谷三志を思い出します。明治になり多数に分立していた講を統合して扶桑教としたそうです。前方に妙義山が見えています。
民家のローズガーデンやオリーブの実を見ながら歩きます。からすうりも赤く熟れています。
11時20分頃、真光寺に着きました。輪違の紋が屋根に輝いていました。こちらは石尊山大権現(大山の阿夫利神社)の石碑があり、天狗の人事異動のおもしろい話を講師より聞きました。
11時45分、迂回して鏑川の松ノ木橋を渡りました。12日には真っ白な鳥がいて感動しました。
のどかな風景から細道に入り、三ツ木城址へと進みました。苔むした堀の跡を入りました。1467~87年に三ツ木信守が、平井城の北の防衛としていた城です。豊受神社が奥にあり、伊勢神宮の外宮を勧請しているとの事です。
おしやれな白い建物はケーキ屋さんだったとか。だんだんと廃墟化していくのは悲しいですね。 また下仁田ねぎらしいしっかりしたねぎ畑が目に着きました。
12日は良く晴れていて山々がとてもきれいに見えました。 12時半過ぎ、本日の昼食を取る公園に着きました。石のテーブルといすがあり、持参のお弁当を広げました。
30分余り休憩して、御手洗いも済ませ、隣の神社にお参りしました。
そして、先程通って来た吉良上野介陣屋跡へと戻りました。途中に喜蔵塚古墳(通称田村塚)で7世紀の円墳を遠目に見ました。
上野介の陣屋跡は広々とした田村さんのキヤベツ畑になっています。母親である吉良若狭守の正室が伊香保温泉からの帰途、この館で上野介を産んだとのことです。 産湯をくんだと伝えられている井戸も残っていました。この地では三河の吉良と同じく上野介を敬い忠臣蔵はご法度との事です。誰も通らないこの場所で、松の廊下事件の話などを聞きました。
天狗党が通ったという道を眺めながら、また細い道路に入り柿がたわわに実をつけた奥の墓地に入りました。四代将軍家綱の時に、凶作にも関わらず地頭の過酷な年貢に対し幕府に直訴して果てた緑埜の名主である堀越三右衛門の墓がありました。この地の民の為に命を掛けた名主の存在に感動しながら次に進みます。
2時少し過し前に平井の公民館で御手洗いをお借りし休憩しました。目の前の交番の建物の屋根に千木があり目立ていました。緑埜の交差点を右に曲がると山内上杉の最後の拠点だった平井城址ということですが、我々は先へと進み、住宅地を入り千部供養塔を見ました。1783年の浅間山の大爆発の模様と被害状況を刻んだ供養塔です。昔の養蚕を物語る上州造りの屋根が見えました。
ビニールハウスのある草原を過ぎ鮎川沿いを歩きます。
3時少し前に凱旋馬頭観音尊の前に来ました。明治31年、日露戦争の時の秋山好古の黒溝台の戦いの話を聞きました。勝つために、馬を降りて騎兵らしからぬ戦いをした格好の良い軍服姿の好古を私たちは思い浮かべるのでした。
北野天神の鳥居の前を通りましたが、参道が細く長く続いている風景を見るだけで本日は寄らずに先へと急ぎました。真言宗光厳寺はひっそりとしていた古い石碑と新しいお地蔵さまが対照的に立っていました。甲子塔は甲子又は子の日に講を行った供養塔でこれまであまり見かけなかった物でした。
タクシーでJR群馬藤岡駅へ3時30分頃に着きました。8日は15分余り、12日はかなり余裕があり自動販売機のアイスクリームを大勢の方が楽しんでおられました。真っ直ぐな線路を見て、八高線で高崎方面へと出て、それぞれの帰路に着きました。
本日は静かな田舎道を気持ちよく歩く事が出来ました。次回の集合場所は群馬藤岡駅ですから、どのように集合すればいいのか頭を巡らしながらのお別れでした。