4部8回  鶴見・神奈川宿界隈を巡る

10月18日(土)、21日(火)、10時に京急鶴見駅に集合しました。21日は曇りでしたが両日ともに歩くには丁度良かったと思われました。

駅を右に曲がり信号を渡ると清月という和菓子屋があり元禄から享保年間に鶴見の「よね」という女が売っていた塩餡の餅を俵型にした物を竹籠で売っていました。「お江戸、日本橋七ツ立り初上り~六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀との、よね饅頭、こちゃえ~こちゃえ~」と歌われていました。皆さん「よね饅頭」をお土産に買ってから本日の歩きが始まりました。

鶴見は間(アイ)の宿で休息ができる小規模な宿場で本陣・問屋などがありません。線路を渡り線路沿いを歩き総持寺に向かいました。10時40分頃長い参道を進みました。曹洞宗大本山の総門に至る前に三味線地蔵と呼ばれる延命地蔵が右手に立っています。

一人の瞽女が宿に泊まり三味線を弾いていると隣の部屋の越中の薬売りが歌に引かれて話をしているうちに心を許し二人は夫婦の契りを結びました。翌日に目をさました薬売りは女の顔全体の天然痘の跡を見て心がさめてしまい総持寺に向かう途中で谷底に女を突き落としました。以来、夜に谷底から助けてという声が聞こえるようになり薬売りは犯した罪を反省し仏門に入り地蔵を造立して供養したのがこの地蔵だと伝えられています。

三門を入り香積台の中を見学しました、おさわり大国と正面奥に日本最大の大黒天が安置されていました。売店もあり買い物をされた方もいらっしぃました。

大祖堂は本堂と客殿を兼ねていて正面の門は向唐門(勅使門)になっていました。 

広い墓地へと進みました。高く聳えるているのは日比野雷風の墓でした。古武道を学び紳力流舞術を開眼しました。古来に居合術を基本し柔術・空手・舞踊の要素を融合させた武者の舞とは見たい物です。金木犀の香りの中を奥に進むと石原裕次郎の墓がありました。

供花がいくつも在りました・まき子夫人の詩の様な言葉が黒石に刻まれています。

再び境内に戻り三宝荒神の階段を登り始めました。平成救世観音が白銀色に光っていました。欧州戦役受難船員碑がありました。日本郵船が大正8年第一次世界大戦で死亡した船員の慰霊で建立した物です。宮崎丸、常陸丸、平野丸と刻まれていました。少し上がると三宝殿がありました。

大梵鐘が見えてきました。大正2年に吊るされたもので重さは18・75トンで関東の寺院では最高との事です。

11時45分頃に東福寺に入る手前に道標や石碑を集めた一角を見て門の手前の葬頭河婆の祀られている小さな堂を覗いてみました。目・鼻・耳・口の病に御利益があるとの事で元文元年(1763)の造立です。

石段を登り本堂へお詣りをしました。疣取り地蔵は足元の小石を借りて帰り毎日、自分の疣を擦り疣が取れたら石を二個にして奉納するとの事です。子宝信仰の子生(子育て)観音が有名だったので門外には願いが成就した印として多くの石碑が並んでありました。立派な芭蕉句碑がありました。「観音の甍見やりつ花の雲」で深川の草庵で詠まれたものです。

通りの大きなタブの樹を見ながら駅へと歩きました。18日と21日は生麦事件現場へ行くのは前と後ろになりました。道路に面したビール会社の植え込みの中に小さな石柱があり、生麦事件でイギリス人が此処まで逃げてきた現場です。これでは誰も気付かないのではと話しながら眺めました。文久2年(1862)、勅使の太原重徳が島津久光を従え攘夷を奉じて幕府に伝えた後、久光が帰国する9月に生麦村で行列を乱したイギリス人を殺傷した事件です。幕府は10万ポンドの賠償金を支払いました。生麦事件の記念碑がありました。

電車で東神奈川駅に降り京急線沿いにある真言宗金蔵院の前にさしかかりました。

朱印は10石で徳川家康が神奈川御殿が建てられるまで宿泊した所で、その時に紅梅を手折り江戸城に持ち帰りました。以降、住職は梅の一枝を江戸城に持参したとの事です。

金蔵院の少し奥に熊野神社がありました。神奈川宿の総鎮守です。寛治元年(1987)金蔵院を創建した勝覚僧上が熊野権現を近くの山(権現山)に勧請しました。その後、権現山が崩壊したので現在地に移したとの事でした。公孫樹は樹齢約400年で御神木です。大火や戦災を乗り切り一部は炭化して大きな洞となっていますがしっかりと立ち茂っていました。狛犬は大獅子で右の子犬は進駐軍に埋められましたが平和条約後に掘り返し元に戻したそうです。

高札場を出て浄土宗の成仏寺へと進みました。10石の朱印で紋は三鱗です。安政6年(1859)、横浜開港当時はアメリカ宣教師の宿舎となりました。ヘボン博士は、この年に来日しヘボン式ローマ字を考案し日本で最初の和英辞典を完成したり医者として日本人の診察を行い後に明治学院を創設しました。

次は浦島伝説のある浄土宗、慶運寺です。文安4年(1447)の創建で7石の朱印を有しました。紋は備前蝶でフランス領事館を置いた所です。浦島伝説は他と少し違い乙姫から玉手箱と長生きできる観音像を貰い親の故郷である神奈川へ帰りました。観音様のおかげで両親の墓が解りお堂を建て観音様を祀ったとの事です。徳本名号塔があり文政5年(1822)の造立です。

7~8分程あるき日蓮宗の浄滝寺の前に来ました。こちらはイギリス領事館があった所です。

直ぐ近くに神奈川の大井戸と呼ばれる井戸がありました。将軍や明治天皇の通行の際に使われたました。

次は曹洞宗の宗興寺に行きました。アメリカ宣教師のシモンズの宿舎で、十全病院で外科手術を行いました。その後、ヘボン博士が診療所を開設し宿舎の成仏寺から通い無料で診察に当たりました。

神奈川台場跡は本陣跡から少し離れていますが安政6年(1859)に幕府の命令で伊予松山藩が約1年の工事で約7万両の費用が掛かりましたとの説明を受けた後、青木本陣と滝の川を挟んで石井本陣があったとの説明がを受けました。

3時半近くに洲崎大神の前に差し掛かりました。青木町の総鎮守です。かっては船着き場があり、海に向かって参道が伸びていました。横浜が開港すると開港場と神奈川宿を結ぶ重要な渡船場となりました。

別当寺の浄土宗甚行寺はすぐ傍にありました。フランス公使館跡碑を見ながら領事館との違いなどの説明を受けました。

ここで対岸の青木橋を渡りました。

高台から下を見下ろす場所に来ました。

2~3分で曹洞宗、本覚寺に入って行きました。階段を上がるとアメリカ領事館跡碑が入口に立っていました。岩瀬肥後守忠震(タダナリ)顕彰碑がありました。幕府海防掛目付で開国を推進した幕末三傑の一人です。

山門を潜りました。江戸時代の建築ですが日本に存在しなかった西洋塗装(ペンキ)の跡が残っていました。中に入ると寝釈迦(涅槃像)があり全国塗装業者合同慰霊碑とありました。

子育て地蔵堂の前には水盤を我慢さんが支えていました。本堂は昭和46年の再建です。第10世住職の大穴梁国の夢枕にお地蔵様が立たれ人々の難病を救う霊薬を授けました。何種類かの薬草で薬を造り万病に効く「黒薬」は有名になり旅人は本覚寺で薬を買い求めました。西向寺は本覚寺の隣にあり虚無僧寺でした。まだ新しそうなこの碑は西向寺奉賛会と虚無僧寺研究会有志が造立したものです

私たちは時代劇に出てくる虚無僧は本当に存在したのだと思いを馳せました。4時半に近づいて大網金毘羅神社へと歩を進めました。

赤い鳥居を潜りました。文治4年(1188に源頼朝が飯綱権現を勧請して大綱神社を創建、その後、山の中腹に金毘羅神社を勧請しましたが山が崩壊したので両社を合併させたとの事です。大きな天狗に像に驚きました。江戸から讃岐国金毘羅宮に天狗を奉納しようとし神奈川宿で一泊すると使者の夢枕に「この神社に留まりたい」とのお告げがあり翌日に天狗像を重くて運ぶ事が出来なくなり奉納したとの事です。

階段を降り5分位で割烹田中家の前に着きました。坂本龍馬の妻である「お龍さん」が働いていた所です。龍馬が暗殺された後、自立の道を模索していた時、勝海舟の紹介で住み込みの仲居として働いたそうです。その後、客と所帯を持ちましたが夫の事業の失敗やお龍さんのアルコール依存症で幸福な晩年ではなかったとのことです。ちょっと悲しい思いで田中家を後にしました。

本日、最後に神奈川台関門跡・袖ヶ浦見張り所を見て横浜駅に向かいました。辺りはうす暗くなっていました。皆様、長丁場、大変お疲れさまでした。


カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です