5月に伊豆を旅しましたが今回はその完結編の鎌倉です
11月26日土曜日JR鎌倉駅東口に9時50分に集合し金沢八景行きのバスに10時5分発の乗車予定でしたが一本早いバスで十二所神社まで乗りました。15分から20分くらいかかりましたがその間に雨が小降りになっていました。
10時20分に鎌倉幕府政所別当を務めた大江広元を祀る稲荷社は石段に赤い鳥居があり参道の奥に小さな社がありました。石段を登りお詣りしました。かつて十二所に屋敷を構えていたといわれています。
橋を渡り大江広元邸跡に数分で着きました。
元のバス通りに戻り鎌倉幕府四代将軍、藤原頼経の祈願寺として建立された明王院の入口に立ちました。ここは幕府の鬼門の方角にあたるので、鬼門除祈願寺として五大明王を本尊とし五大堂と呼ばれていたとのことです。
私たちはここには入らず鎌倉殿の十三人の内の重要人物である梶原景時屋敷跡を目指しました。細い道を行き右に曲がると住宅も少なくなり大きな鯨のモニュメントのある建物を過ぎると行き止まりの辺りに梶原の井戸があり、その先は個人の持主という事で立入禁止となっていました。この辺りに広大な屋敷を構えて朝比奈の切り通しの押えになっていたのではと講師が説明しました。
又、もとのバス通りに戻りせいんすい橋を渡りました。足利公方邸跡を過ぎ10分位で天台宗,大蔵山観音院杉本寺がありました。現在は杉本観音の別称で呼ばれています。奈良時代(8世紀)に藤原房前と行基が開きました。坂東三十三観音霊場の一番です。三十三番は千葉県館山の補陀洛山那古寺で源頼朝や実朝も熱心な観音信仰者でした。十一面観音菩薩三体が本尊で行基、慈覚、恵心僧都作と伝えられています。その上、前立に運慶作の7尺の十一面観音像が寄進されたと伝わっています。
歌の橋に差し掛かったのは11時20分頃でした。翌朝に処刑される渋川兼守は十首の歌を荏柄天神に奉じました。それを知った実朝は歌に感動し罪を赦したとの事です。兼守は二階堂川に橋を架け、この橋は今も「歌の橋」と呼ばれています。
11時半頃、文覚上人屋敷跡に立ちました。文覚は京で北面の武士でしたが問題を起し伊豆の奈古谷(修禅寺の近く)に流され伊豆の蛭が小島に流されていた頼朝と巡り会い頼朝に平家討伐の蜂起を促したのです。
荏柄天神前を横切り先に見なければならない永福寺(ヨウフクジ)へ急ぎました。鎌倉宮を過ぎ12時少し前に永福寺の着きました。広々とした空間に驚きながら永福寺跡を散策しました。頼朝が文治5年(1189)に奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂の為に建てた寺院です。平泉の毛越寺や中尊寺を見て永福寺の建立を思い立ったとされています。大きな池の正面に二階堂、南に阿弥陀堂。北側に薬師堂の跡がありました。
12時半頃、鎌倉宮まで戻り数軒ある食堂で昼食を取りました。
13時15分に荏原天神社に着きました。福岡の太宰府天満宮と京都の北野天満宮と荏柄天神が日本三大天神ということです。
頼朝はここが大蔵御所の鬼門なので鎌倉の守護と決め、歴代の将軍に信仰されました。高い階段を見上げるだけで下からお詣りし次ぎに進みました。
すぐに東御門跡を通り北条義時法華堂跡へと登りました。平成17年(2005)の発掘で瓦葺で一辺が8・45Mのお堂が建っていたことが解りました。
奥の階段の上に毛利季光の墓(大江広元の四男)がありました。父から譲られた相模国毛利荘(厚木市)を基盤とする御家人で承久の乱で武名を上げ安芸国吉田荘の地頭職を与えられました。他には大江広元の墓や島津忠久の墓も在りました。島津忠久は頼朝の子供で母が丹後局で政子の嫉妬を恐れ上方に逃れ産んだとの話があり島津氏の祖となります。
階段を降りると三浦一族の墓がありました。法寺元年(1247)の宝治合戦で北条時頼に攻められ三浦泰村の一族276人は頼朝の法華堂に籠り自害したと伝えられます。その地から60M程離れていますが三浦一族の供養が行われている「やぐら」です。
3分程、西に移動し53段の石段を登ると頼朝の墓がありました。始めは五輪塔でしたが頼朝の子孫を称する薩摩藩主、島津重豪が安永8年(1779)に層塔に変えました。五重の塔の様な屋根は苔むして両脇に供花は秋らしい色で玉垣で囲まれていました。
右隣には頼朝の弟で土佐で殺された源希義所縁の石が敷かれていました。
階段を降りると白旗神社がありました。ここは建久10年(1199)に亡くなった頼朝の遺体が葬られた法華堂と呼ばれ供養されていましたが48年後の三浦一族が安達一族に攻められ自刃し滅びた場所です。
2時頃に大蔵幕府跡に着きました。頼朝、頼家、実朝の三代45年間の御所でした。
道路拡張工事で現在は暗渠になっている筋違橋を過ぎると3分位で宝戒寺に着きました。ここは北条義時の館があった場所で代々の執権はこの小町邸が主たる邸宅でした。
北条氏滅亡ののちに後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏が宝戒寺を創建し北条氏の怨霊鎮護を目的としました。
通りを入った所に土佐坊昌俊邸跡がありました。頼朝の義経討伐の命で京都の室町邸を襲うが敗れ六条河原で処刑されました。
2時15分に「さかい内科」横の薬局の壁のタイルに「政所跡」の小さなプレートがあるのみで想像を巡らすにはかなり無理がありました。
すこしずつ八幡宮に近づいてきました。南御門の側に畠山重忠屋敷跡がありました。武士の鑑とされた重忠は鎌倉武士と頼朝の信頼が篤かった人です。
八幡宮の門を入ると流鏑馬の道が真っ直ぐに走っていました。宝物殿の手前に「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらぬやも」の実朝の歌碑で藤原定家が写し持っていたのを昭和3年に旧鳥居に刻みました。すぐに宝物館が見え美しい紅葉が点在する中を歩くと康平6年(1063)のに源頼義が前九年の役の戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮から神霊を勧請した白旗宮です。
若宮、舞殿へと進むと花嫁行列に会い笛や笙の音と共に、しばし雅びな世界を堪能しました。そして大銀杏の子供が育ち黄葉しているのをバックに記念撮影をしました。樹齢1000年を超えていましたが2010年の強風により倒れ切られました。元久元年(1219)、公暁により実朝が殺害されたのは下から13段目との話があります。
丸山稲荷社の横を通り後方の坂路を上り今宮へ着いたのが3時頃でした。承久の乱で後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡へ渡り、土御門上皇は土佐に流され、それぞれ流罪先で崩御されました。その三上皇をお祀りしたのが今宮です。二十五坊跡碑がありました。八幡宮の供僧の人数が25人でこの第四代の別当が公暁でこの坊に住み実朝暗殺後にも逃げ込んだとの事です。
その後、八幡宮の源平池を散策し紅葉を楽しみました。3時半頃に若宮大路に面した泰時と時頼の執権邸跡を見ました。土産物店の中にあり、地下となってしまった部屋を覗く形のガラス張りとなっていました。
それから細道に入り、若宮大路幕府跡に向かいました。実朝の死後、嘉禄元年(1225)から11年間、藤原頼経が政務を執って場所とされています。実際は政治は執権が行ったので文化的行事や遊興行事などが行われていたとの事です。碑の横には大仏次郎の屋敷がありました。
その後、キリスト教会横の細道に入り宇都宮幕府跡の宇都宮稲荷を見て第一日目の行程は終了しました。
皆様、お疲れ様でした。大河ドラマで描かれている時代だけを巡りましたがこの鎌倉にも多くの歴史が存在していたことを改めて感じました。
宿泊組は懇親会の会場へ5時に集まり楽しいひとときをおくりました。