第二部8回 巣鴨・板橋界隈を巡る(後編)

50分の休憩を取り午後の部が始まりました。近藤勇が慶応4年(1868)4月25日に処刑された場所に永倉新八を中心に明治9年(1876)に建てた供養塔です。碑の表には近藤勇と土方歳三の名がありました。資料には維新後の隊士たち13名の歩みが記され興味深く読みました。

埼京線の板橋駅が目の前に見えています。その線路を渡り12,3分で浄土宗東光寺に着きました。ここでは宇喜多秀家の墓を見ました。秀家は関ヶ原の合戦で敗れ罪人として八丈島に流され84歳で没しました。秀家の妻が前田家の姫であったために256年後、新政府により放免された子孫71人は前田家下屋敷の一部、3万坪を与えられたとの事です。寛文2年の古い庚申塔を拝見しました。

再び通りに出て5分位で真言宗観明寺です。こちらは室町時代の開山です。さっき見た東光寺の庚申塔より1年早い寛文元年(1661)の庚申塔を鑑賞しました。そして豊川出世稲荷神社の正面欄間の左甚五郎作と伝わる龍を金網越しに見ました。

その後、板橋平尾宿脇本跡跡に立ちました。大きなマンションの前に碑があります。この豊田家の娘の「とみ」は幽閉されていた近藤勇に可愛がられました。「とみ」は長生きし昭和21年まで毎月命日に勇の墓参りをしたとの事です。

平尾脇本陣から10分位歩くと緑地があり加賀前田家下屋敷跡とありました。約21万坪の広い中を石神井川が流れています。現在は学校がいくつもありますが明治には火薬製造所(陸軍造兵廠)となりました。

10分位で中山道の通りに戻ってきました。古い米屋さんが残っていて新米を売っていました。真言宗遍照寺は成田山新勝寺の末寺で境内は馬繋ぎ場になっており明治10年頃まで馬市が開かれていました。植栽の中に馬頭観音がずらりと並んでいました。

5~6分くらい進むとスーパライフの手前に板橋宿本跡跡がありました。飯田家は大坂冬の陣で豊臣方の武将として参加した飯田左馬允(サマノスケ)が板橋に住み名主となりました。

隣のスーパ.ーで数分トイレ休憩を取り人数が揃うとスーパー前の高野長英ゆかりの地に立ちました。居酒屋の前に説明板がありました。蘭学者で医者の長英は幕府の外交政策を批判して伝馬町牢屋敷に捕らわれました。弘化元年(1844)6月に牢を出火させ切り放しの際に逃亡し、この地の弟子に匿われその後、奥州、四国、中国、関東と逃亡したそうで江戸で捕まりました。

2,3分で板橋脇本陣跡に着きました。こちらも後ろはマンションになっていました。飯田家の本家で和宮が京都を出て中山道で泊まった最後の宿でした。

いよいよ石神井川にかかる板橋を渡りました。名所図会では太鼓橋として描かれています。6年くらい前に講師がテレビ朝日のモーニングショーで石原良純さんの番組に出演した折に記念に三人で写真を撮らせてもらった場所です。

すこし進んだ通りの角に縁切り榎があります。樹皮を粉にして飲ませると縁が切れるという事です。いつの頃にか言い伝えで嫁に行く時には下を通らないようにしたとの事です。和宮が通る時には迂回路を通り榎は菰で覆ったとあります。

17号線を渡った所に智清寺がありました。手入れの行き届いた庭木が並んでいます。門をくぐると木下藤吉郞出世稲荷の赤い幟が飛び込んできました。かわいらしい狛狐を眺めながらお詣りをしました。

すぐ近くに真言宗の日曜寺があり、本日最後の訪問先です。山門の扁額は松平定信のものです。手水鉢は神楽坂の名石方の駿河屋平兵衛で天保10年(1839)の逸品とのことです。どこが良いのかと皆でじっくりと眺めました。

弘法大師像の前につつじの赤い返り花が咲いていて印象的でした。

早い日には15時20分、少し遅くなった土曜日でも15時50分に都営三田線板橋本町駅で解散しました。ひさしぶりに頑張って9キロ歩きました。

みなさん大変お疲れ様でした。

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