令和7年2月11日(火)、15日(土),どちらも晴れの暖かい日差しの中、東急目黒線不動前駅を10時過ぎに出発しました。すぐ近くに最初の訪問先の桐ケ谷氷川神社がありました。神社が経営した氷川幼稚園の名残のコンクリートの滑り台が道に向かって二本ありました。


その先にある鳥居を潜りました。狛犬は二体とも子と一緒にいる子持ち狛犬でした。境内を進むと幕末の勤皇の志士たちが御殿山の料亭である観桜館の庭で鉄砲の練習をした時に標的にした石がありました。弾丸による凹があります。






天保13年(1842)の立派な鳥居を見上げて別当寺の天台宗安楽寺へと進みました。門柱の上に仁王像が立っているのに驚きながら入りました。


まず連理塚を見ながら説明を聞きました。平井権八と吉原の遊女小紫の塚は、唐の玄宗と楊貴妃の悲劇を詠んだ白居易の「天にあっては比翼の鳥,地にあっては連理の枝」の長恨歌から来ている事を知りました。小紫に会う為の金を作る為に殺人や追剥をし鈴ヶ森で磔になり小紫は墓前で自害した悲話は歌舞伎となり白井権八・小紫の話となりました。


塩掛け地蔵の足は塩で溶けていました。又,青面金剛庚申塔や馬頭観音供養塔などを鑑賞しました。







10分位歩くと享保12年(1727)造立の子別れ地蔵があり、これは子供に先立たれた親がその亡骸を見送った場所なのです。




1、2分で旧中原街道供養塔がありました。堂の中に4基(地蔵2基と馬頭観音と聖観音)が安置されていました。



中原街道とは虎の門を起点をして赤羽橋、聖坂、五反田、平塚橋、旗の台、千束池、丸子で多摩川を渡り小杉、瀬谷、寒川、中原で東海道に合流します。德川家康も駿府までの往来にこの道を使ったとの事です。通りの向かい側に大きな建物の桐ケ谷斎場がありました。桐ケ谷村霊源寺の境内に荼毘所があり、当初は芝三田の長松寺にあったが德川家光の頃に当地に移されました。

通りのこちら側には浄土宗霊源寺がありました。戦国時代にはこの辺りは戦場になり江戸の初期に浄土宗の僧である霊源和尚が遺体を集めて供養堂を建立したのが寺の始まりです。

直ぐに浄土宗専修寺に入りました。増上寺末で元は赤坂にあり西五反田に移り最近現在地に移ったとの事です。東京大空襲で本尊が焼失し市原市の天台宗の光明寺から阿弥陀如来三尊を迎えたのは中尊の胎内にある永正5年(1508)の銘から元は市川市正福寺に安置されていた事が判明しました。



庭の盆梅に注目しながら進むと庚申塔など石仏が並び興味深く拝見しました。



4~5分で法華宗陣門派長応寺に入りました。立派な山門は昭和4年建築の四脚門です。


江戸中期に住職が夢中に不動明王尊がある夢を3回続けてみたので境内を掘ると不動明王像が出現し祀ったのが「土中出現不動尊」です。お堂の中も写真で撮りました。



ザクロの紋の水盤や寛永寺の森氏の寄進した灯籠を見ました、墓地では西郷(ニシゴオリ)局の五輪塔を見ました。






4~5分で孟宗竹栽培記念碑がありました。築地の廻船問屋の山路治兵衛は薩摩藩邸の庭から鉢植え用として数株入手し植えたのが始まりと云います。数年後には竹林から筍が取れるようになり近隣の農家に栽培を進め広まったとの事です。「櫓も楫も弥陀にまかせて雪見哉 釈竹翁」の辞世の句が彫られています。


4~5分で京極稲荷がありました。江戸時代には讃岐丸亀藩5万2千石の下屋敷にあった所の屋敷神で明治維新の時に地元に譲りました。東京大空襲でこの辺りは焦土となりましたが大神輿が焼失を免れたのは稲荷神に御加護と信仰が続いています。







スーパの隣に朝日地蔵がります、江戸中期の寛文7年(1667)に戸越村の念仏講中の16人が造立した物で安産・子育て。厄除けの御利益がある地蔵として信仰されています。

日蓮宗朗惺寺は4分位にありました。池上本門寺十一世の日惺上人は徳川家康より江戸市中5ケ所に約1万坪の土地を拝領し5ケ寺を開きその内の一つが当寺です。本堂は昭和28年の耐震建築で少しモダンといえる建築物です。本堂脇に満州開拓団殉難碑が建てられています。昭和18年に旧満州国興安総省(モンゴル自冶区)に渡った武蔵小山商店街有志の1039人の内、800人が匪賊の襲撃などで死亡しかろうじて帰国した人々により13回忌に造立されました。





すこし奥の庚申塔や鳥塚を拝見しました。12時半頃に武蔵小山商店街で昼食を取りました。

八幡通りを進むと1時頃に三谷(サンヤ)八幡宮に着きました。1700年頃に宗教上の軋轢により小山八幡宮から分社し八幡神像のある三谷の出世稲荷境内に移し旧小谷村三谷の鎮守としました。社殿は昭和32年に再建され、白梅が咲き始めていました



金山地蔵堂には小山村の旧家である石井・伊藤家が九品仏の浄真寺に願掛けをし成就したので地蔵菩薩を安置しました。


10分位歩き小さな鳥居があり説明版の平塚の碑とありました。永保3年(1983)の後三年の役の際、朝廷の許しを得ずに苦戦を強いられている兄の源義家を助け乱を平定した新羅三郎義光が出羽国から帰途の途中、当地で盗賊に襲われ多くに将兵が死亡し平塚村の住民が手厚く葬り慰霊の塚を築いました。その後に塚の存在は忘れられたが戦後の道路整地の折の多くの甲冑や刀剣が出てきたので供養塚を築きました。



江戸時代には「妙見社」と呼ばれた鏑木氏の氏神である葛原神社がありました。葛原とは葛原親王(桓武天皇の第三皇子)に由来しています。妙見菩薩を祀っていますので仏教と関係が深い菩提樹が植えられていて樹齢約150年と伝わり勢いがとても良いとのことです。



少し歩き小山八幡に着きました。この辺りは古山村池の谷と呼ばれていたので池の谷八幡とも呼ばれていました。樹齢約200年の椎の樹が枝を広げていました。



社殿は昭和13年の造営で立派でした。哲学者の散歩道を通り隣の日蓮宗摩耶寺に入りました。摩耶寺は延宝6年(1678)の木造の摩耶夫人立像が安置されています。白梅は枝ぶりよく咲いていました。







14時頃、旗の庚申塔の前を通りました。寛文5年(1665)に造立された庚申塔には珍しく「南無妙法蓮華経」の髭題目が正面に彫られています、旧中延村の住民のほとんどが日蓮宗の檀徒だったという事です。


木霊稲荷神社の傍に中原街道高札場跡がありました、





15分位で旗ケ岡八幡に着きました。長元3年(1030)に上総・下総で起こった平忠常の乱を鎮圧する為に朝命を奉じた甲斐守源頼信は追討に行く時、この地で一族郎党と宿営し霊威を感じ氏神である八幡大神に祈願し高台に源氏の白旗をなびかせ武威を高めたので旗ケ岡八幡となりました。





元治元年(1864)中延村の竹屋吉治郎が奉納した駒引き猿の図の大絵馬は社務所二階に展示され皆で見せていただきました。


日蓮宗法蓮寺は本日最後の訪問先です。この地の豪族である荏原左衛門義宗の末子で日蓮上人の九老僧の一人だある朗慶が文永年間(1264~75)に居館に開きました。又、将軍家斉の時に鷹狩に訪れ住職の日詮と相撲を取り上人が手加減をせずに勝ったので家斉から賞されたとの話があります。



2月とはいえ、とても天気の良い日に急な坂も無く白梅と紅梅を見ながらの歩きを楽しみ、3時より早く終えることができました。