江戸名所巡り 4部1回 五反田・大崎界隈を巡る

令和7年が開けました。江戸名所巡りは、いよいよ最終の第4部の始まりの回です。10時少し過ぎてから都営浅草線の高輪台駅をスタートしました。

6~7分で袖が崎神社に着きました。平安時代に京都から稲荷大明神を勧請したのが始まりで室町時代に神明社を、江戸元禄時代に天満宮をその後、塩釜大神、厳島大神が合祀されました。仙台藩伊達家などの下屋敷や旗本の屋敷が多くあったので武士階級の人々に崇敬されました。

すぐそばの日蓮宗妙建山本立寺に入りました。まず地蔵堂を見ました。寺の境内に元禄時代の三体の地蔵が埋もれていて掘り出し供養をすると病気が治ったという逸話が残っています。戦災で焼失し復元したのは中央の一体だけで宝元禄6年(1693)の物です。左は普賢菩薩で元禄11年(1698)、右は聖観音で元禄7年(1694)です。

本堂までの参道を歩くと本立寺に棲む生き物たちと猫と蛙に注意との立看板が目につきました。そして奥に見えてきた本堂の形に驚きました。二度と焼かれないようにと昭和41年にコンクリート造りの六角形の建築物です。これは教会仕様で内部はすべて椅子席なのです。

墓地に入ってすぐの場所に山下家の五輪塔があり、落語家の柳家金語楼の墓です。明治34年に芝の葉茶屋の山下園の三男として生まれ昭和47年に71歳で亡くなりました。

通りに戻ると相生坂の説明版がありました。中原街道に合流した場所で三叉路になっているでしようと講師の説明がありました。

道路に面して鳥居が立っている雉子神社がありました。文明年間(1469~87)の創建で大鳥大明神と称していましたが徳川家光が鷹狩の折に白雉が神社に逃げ込んだ事から「雉子の宮」と呼ぶように命じたとの事です。コンクリートの階段を上がりビルの中に入った所に拝殿があり屋根には雉子が留まっています。

4、5分で11時少し前に天台宗慈光院宝塔寺に入りました。立派な筋塀と山門、松の雪吊に寺の品格を感じました。

15~6分で浄土宗本願寺に着きました。増上寺下屋敷支院(隠居寺)として寛文元年(1661)に現在地に移り、この眺めの良い所で住職が余生を過ごしたのだと説明がありました。コンクリート造りの本堂ですが天女の装飾、唐獅子、羅漢などを見上げました。

隣には浄土宗正福院常光寺がありました。慶應義塾の創立者福沢諭吉の希望で、この地を墓地と決めて葬られました。昭和52年に福沢家の意向により麻布の善福寺に墓は移されました。又、入口には慶應義塾幼稚舎の創立者である和田義朗の碑がありました。2分位で浄土宗西山派宝蔵院の前に差し掛かりました。西山派は関東ではこの寺のみです。笹竜胆の紋は住職の鈴木家の紋との事でした

11時30分頃に池田山公園に入りました。備前国岡山藩池田家の下屋敷が置かれた事により池田山と呼ばれました、大名庭園の面影が残り池に石橋がかかり雪吊の木も数本あり手洗い休憩を取りながら暫く風景を楽しみました。インドネシア大使館を過ぎると「ネムの木の庭公園」がありました。

上皇后美智子様の生家である正田家の邸宅があった場所です。上皇后さまが高校生の時に読まれた「ねむの木の子守歌」の「合歓の木」が残されていました。作詞・著作権は日本肢体不自由児協会に下賜され「ねむの木賞」を制定したとの事です。

坂道を降りて五反田駅周辺で50分の自由昼食を取りました。

昼食後、山手線で一駅の大崎駅に移動しました。午後は大崎駅から歩き始めました。13時15分頃に天台宗観音寺に入りました。山門を潜ると立派な庚申塔を見ました。延宝5年(1677)居木村の名主である松原氏ら約80名の名が刻まれており女性の名もあります。松原家の墓にも参拝し家紋を興味深く眺めました。

13時40分頃に隣に居木神社に着きました。寛文年間(1661~73、目黒川の氾濫の為に現在地の高台に移りました。最初に富士塚を見ながら石段を上がりました。しだれ白梅が咲き始めていました。土曜日は新年のお祭りが催されていて出店や参拝客で賑やかでした。

大崎1丁目の角に芳水小学校がありました。大正2年に明電舎が大崎町に移転した時に大崎町には小学校が2校しかなく従業員の子供が入学すると負担が掛かる事を案じて明電舎創立者の重宗芳水が新たに学校を建て町に寄付しました。

20分位あるき貴船神社に着きました。創建は飛鳥時代ですが荏原神社の移転でその跡地に残されました。社殿は昭和42年の再建です。文政11年(1828)の道標には「西めぐろ」は読めました。布袋像はとても大きく国際自動車の創立者である波多野氏が建立した物を現在地に移しました。

三つ木通りを行き有名な戸越銀座の通りを歩きました。

中程を左に入り戸越八幡神社に入りました。天文年間(1532~55)に鎮座しました。社殿の天井絵の桜が見ものという事で手を合わせた後に覗き込みました。神楽殿、狛犬、神輿を見た後に奥の神木である樹齢約250年の「ケンポナシ」を見ました。冬で枝だけなのでイメージする事が難しく、実は小さい球形で甘みがあるとの事です。

隣接する別当寺の浄土宗行慶寺に入り「旅立の法然像」を通り、苔むした手水鉢が目に着きました。馬頭観音の憤怒の形相に注目して拝見しました。蠟梅の黄が目立ち香ってきました。

14時50分頃に文庫の森公園に入りました。江戸時代に肥後熊本藩の屋敷でしたが明治に三井家の所有になり三井文庫が戦後の財閥解体により昭和22年に国文学研究資料館となりました。

講師からこの公園は近隣住民の避難所となる為に周囲を囲むフエンスが無く何処からでも出入りできるようにしていると説明がありました。

すぐ近くの戸越公園に入りました。と熊本藩54万石細川家の屋敷跡です。東海道の風景を模した庭園を造りました。その後、持ち主の藩が変わり明治維新後は三井家が所有しましたが荏原町に寄付されました。薬医門もすばらしく江戸時代の細川家に思いを馳せる事ができました。

最後に冠木門を出て3時頃に戸越公園駅で解散となりました。本日は急な坂道があり皆様、大変お疲れさまでした。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です