第二部13回  早稲田界隈を巡る(午後の部)

午後の集合場所は夏目漱石誕生の地の案内板の前でした。小倉屋の隣です、慶応3年1月5日(1867・2・9)五男三女の末っ子としてこの地に生まれたとありました。記念碑の横には漱石の俳句の碑もありました。

通りを渡り少し入ると民家の様な浄土宗誓閑寺がありました。梵鐘は近在の住民の寄進により鋳造されたもので区内最古のものということです。銅造りの地蔵の半跏思惟像は文政元年(1818)のものです。本堂の中で拝見することはできませんでした。

元の通りに戻り夏目家があったというゆるやかな夏目坂を進みました。この辺りの名主である漱石の父が夏目坂と自分の姓を付けて呼んでいたのが人々に広まりましたと漱石の随筆「硝子戸の家」で書かれてあります。

すぐに日蓮宗本松寺に着きました。天正19年(1590)創建で承応2年(1653)に日念上人が開山しました。現在は小さな本堂があるのみでした。

すぐに日蓮宗感通寺がありました。 松平越後守の下屋敷跡ということです。 笹部桜の説明板が目を曳き木を見上げました。 大島桜の交配種で、笹部新太郞(明治20年生)が昭和35年に自宅の庭で芽生えた桜を丹精して育てたとの事です。 この木は池上本門寺からの枝分けとのことです。 吉野桜が木綿ならば笹部桜は絹であると評価された花を一度は見たいと皆様と思うのでした。

昭和45年の万博で日本館に展示されたさざれ石がありました。 昭和20年の空襲で亡くなった慰霊塔の観音像がありました。 上杉謙信所縁の毘沙門天は硝子戸の中で目をこらしても光って全くわからず残念でした。

通りを進み若松町を左に曲がってしばらくすると宝緑稲荷がありました。 穴八幡の境外末社という事です。 狐の尾や耳が大きくて屋根にも狐が居ました。力石にも注目しながら後にしました。

2~3分で臨済宗法身寺がありました。寛永8年(1631)の創建で江戸時代には虚無僧寺で江戸番所であったとのことです。虚無僧は幕府の命により番所で通行証をもらい尺八を吹きながら行脚し各藩の動静を探る間者だったということです。

私たちは時代劇の虚無僧を思い浮かべましたが幕府の間者とは俄には信じ難いことでした。こちらには大和田健樹終焉の地として案内板がありました。「汽笛一声新橋を・・・」の鉄道唱歌の作詞者です。

4~5分で日蓮宗幸国寺に着きました。区の有形文化財の山門は向って右脇に番所が設けられたものです。江戸後期の建築で田安家の屋敷から移築されました。その前に目立つ題目塔があり寛政4年(1792)のものです。加藤清正が幸せな国を目指す事を願い出て開山されました。豪商の伊勢屋(加太氏)が明治5年に造立した供養塔で三面に唐獅子一面にはライオン像が彫られていました。そして此処には石川忠房の墓がありますが墓地に入ることは出来ず人物像の説明がありました。500石の旗本で勘定奉行、道中奉行を兼ねて文化11年に留守居役に。道中奉行の時に安中宿の人馬軽減をしたので生き神さまとして祀られました。槙の実がなっていて味見をしました。

暫く歩きました。市谷薬王町との地名があります。江戸名所図会には薬王寺がありましたが今はなく、地名や信号の名に残っています。薬王観世音菩薩の前を通り臨済宗月桂寺に入りました。

喜連川島子は小弓公方の子孫である足利頼純の娘として塩谷惟久の正室となります。絶世の美女との誉れが高く豊臣秀吉の関東下向のさいに寵愛をうけました。秀吉は島子に喜連川の地に3500石を与え、島子は後に弟にこれを譲り喜連川藩ができます。そののち島子は家康からも召され三女の振姫が嫁ぐ際に老女として会津に赴きました。明暦元年(1655)に88歳で亡くなり院号が月桂寺でしたので月桂寺と寺号を改めたということです。

秀吉と家康にも関わった島子の生涯に思いを馳せました。切支丹灯籠は上の部分が欠けていましたが珍しい形を鑑賞しました。

念仏坂を下り浄土宗安養寺に入りました。明暦2年(1656)に現在地に移りました。こちらは上部が欠損している板碑型の庚申塔を拝見しました。延宝5年(1677)のもので下部の三猿が浮き出ていて目を曳きました。

安養寺坂をのぼり進むと青峰観音が通りに面して祀られていました。この辺りに市谷監獄の首切り場があったとの事です。最後に斬首になったのは高橋お伝だったとの事です。

7~8分位で天台宗自証院に着きました。尾張藩主徳川光友の正室である千代姫の生母であるお振の方(自証院)を供養するために創建されました。大火で焼失した時、戸山山荘の建物を移築したから檜に節目が多かったので「ふし寺」「瘤寺」と呼ばれました。

元は日蓮宗でしたが不受不施禁教令により天台宗に改宗しました。そのさい尾張藩から堂宇の寄進があったとの事です。梵字が刻まれている阿弥陀三尊板碑がきれいな色をしていました。地蔵座像二基も拝見しました。

通りを右に曲がり案内板だけがある小泉八雲旧邸跡の前にたちました。東京で初めて庭を構えた所で5年間住んだとのことです。少し前に行った終焉の地の公園をおもいだしました。八雲は自証院付近の風景を好みよく散歩したとの事です。葉にかくれそうな説明板を見て過ぎました。

又、坂があり暗闇坂とありました。くらやみともくらがりとも云われたとありました。浄土宗西迎寺は本日最後の訪問です。太田道灌を弔う為に江戸城の紅葉山に延徳2年(1490)に創建されました。寛永年間に四谷に移転したとのことです。中に入ると右に阿弥陀如来像があります。元禄7年(1694)のもので緑青が美しい仏様でした。

貞享3年(1686)の梵鐘は龍頭が二つあり梅鉢の御紋が入っていました。大地蔵は2メートルの高さで穏やかなお顔に皆様ほっとされた様子でした。

この辺は舟町といいます。由来は舟板を造る木材が切り出されていたからとの事です。火曜日は15時半になりました。土曜日は早く3時少し前に都営地下鉄、こちらの宝蔵院曙橋駅に到着しました。少々暑い中、皆様お疲れさまでした。

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