第二部 12回  高田・池袋界隈(前編) 午後の部

江戸川公園に集合し目白坂という所を進みました。 3分位で正八幡神社に着きました。 鳥居をくぐり階段を上るとお社がありお詣りをしてから説明を聞きました。 関口水道町の鎮守という事です。 関口水道町が寄進したどっしりとした狛犬を鑑賞しました。

すぐ先に小さな幸神社があり、こちらは覗くだけで進みました。この辺りは鎌倉街道の枝道があったとのことで農作物を江戸に運び帰路は江戸の下肥(シモゴエ)を持ち帰ったことから「おわい街道」と云っていました。一説にはこの辺の長者が金の駒を収め幸神を勧請したとのことでした。

すぐに椿山荘の塀が見えて来まし。江戸時代には上総国久留里藩黒田家の下屋敷でしたが維新後に山縣有朋の邸宅になりました。この辺り一帯は椿が多く椿山と呼ばれていたので椿山荘と命名しました。現在はコロナの為に庭に入る入口も封鎖しておりましたので見学を遠慮しました。

前の道路を渡ると高い高い十字架のあるカテドラル聖マリア大聖堂が在りました。明治32年(1899)、聖母仏語学校の協力を得て附属として建築されました。翌年関口聖母教会として独立しました。現在の大聖堂はドイツのケルン市のカトリック信者の寄付により丹下健三設計で昭和39年(1964)2月に落成しました。内部の天井の明かりを拝見し土曜日は美しいカップルが式に向う姿も見られました。

方向を替えてまた元気よく進むと神田川に向う右側に永青文庫の入口がありました。 熊本細川家の下屋敷で数々の国宝や文化財を所蔵してあります。

胸突坂の階段を降りました。左手に芭蕉庵がありました松尾甚七郎宗房は藤堂家の下級武士として神田川の堀割工事の書役でこの地に4年間携わり水番屋に住みました。後に芭蕉を慕う弟子たちが龍院庵を建てました。その後、焼失し大東亜戦争後に芭蕉庵が建てられました。蛙碑や奥の上がったところに五月雨塚がありました。

川沿いに水神社がありました。神田上水の守護神として妙見菩薩を祀っています。石段がありましたが下で参拝するのみとしました。

そのすぐ側に入口がある肥後細川庭園に入って行きました。清水家、一橋家の下屋敷になり細川家の下屋敷になり明治15年から細川家の本邸となりました。池泉回遊式庭園を見て回り松聲閣という名の大正時代の建物にも入り、二階からの眺めを見ることが出来ました。

5~6分歩くと山吹公園がありました。太田道灌への少女の奥ゆかしい対応が有名ですね。この辺りには実のならない八重の山吹が多くあったそうです。ぽつりぽつりと黄色の山吹がまだ咲いていて皆さん驚いて眺めていました。

神田川の仲之橋を渡り甘泉園公園に入りました。徳川吉宗の子孫の御三卿の清水家の下屋敷庭園です。山吹の井と呼ばれる池からの水を中心とした回遊式庭園で現在は維新後の相馬男爵邸の名残があるとされています。湧きだしている水がお茶に適しているとの評判から甘泉園と名が付けられました。

直ぐに水稲荷がありました。 江戸名所図会では高田塚稲荷とあります。 古くは富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれました。 元禄15年(1702)に大椋の下から水が湧き出し眼病に効くと評判になり水稲荷となりました。 江戸最古の富塚があったとの事ですが思ったよりも小さく感じました。

また、この土地は早稲田大学と土地交換により水稲荷は当地に移転しました。

堀部武庸(安兵衛)の碑が在りました。

土曜日は2時半頃に高田馬場跡に出ました。 寛永13年(1636)旗本たちの馬術の練習場として造られ流鏑馬も行われました。 すぐ側の診療所の前辺りが堀部安兵衛が仇討ちの助太刀をしたとされています。

日蓮宗の亮朝院の立派な門を見上げて中に入りました。 家光が念仏堂を建て明暦元年(1655)に四代家綱は徳川家代々の祈願所としました。 門の上に梵鐘があります。 本堂にお詣りをした後で見学した金剛力士像は石造で区内で唯一ということです。 156センチで少し小ぶりに見えました。 ちょっとおもしろい狛犬にも注目し院を後にしました。

本日、最後の面影橋の碑です。 在原業平が鏡にような水面に姿を映したと、また美しい於戸姫が悲劇を嘆き身を投げた折に詠った歌から名付けられたとの説があります。

面影橋を渡った所で解散となりました。 13日は3時半、17日は2時50分頃になりました。 残暑の中、皆様大変お疲れさまでした。 面影橋という荒川線の駅からそれぞれ帰路につきました。

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