第十六回 江戸名所巡り  奥戸・立石界隈を巡る(前編)

令和元年9月10日(火)、12日(木)、14日(土)の三日間、二ヶ月の夏休みを終えて、第一部の江戸名所16回の日を迎えました。日本橋を出発して実に一年半経過したのです。火曜日は残暑の厳しい中となってしまいました。京成本線小岩駅を10時、皆様のお元気なお顔を拝見する事ができました。

西へ向けて真っ直ぐ進みました。山法師の赤い実がなっていました。20分位進み線路沿いに右に曲がりました。JRのこの線は貨物線だという事です。

少しで細田稲荷神社に着きました。村の鎮守は秋祭りの準備中でした。右手の鳥居に赤字で安政二年十月二日夜の大地震で壊され文久二年に再建された事が示されたありました。

別当寺の真言宗豊山派の東覚寺は線路を渡り反対側にありましたが内には入らず道から拝見するのみでした。新中川に出て土手を歩きました。

 

スカイツリーが見えてきて、三和橋を渡りました。川鵜が一羽物思いにふけっている様でした。

4~5分で八剣神社に入りました。熱田神宮の別宮の八剣神社を勧請し八剣大明神と称しました。全体が修繕中で美しく化粧直しが整うところでした。千木と鰹木があり正面には千鳥破風が二つ重なってあり珍しいとの事です。

右手前の石灯籠は安政2年の大地震で倒壊し再建されたが大正12年の関東大地震で倒壊、修理され、さらに平成23年の東日本大震災で一部損壊。加えて平成30年の台風により転倒し復元が不可能となり、ここに移築したとの事です。

すぐに別当寺の真言宗豊山派の宝蔵院に着きました。百日紅がまだまだきれいに咲き誇っていました。

尊皇思想の武内式部の門下で西園寺公城の家臣である本堂良喜が京都を追われ、こちらの宝蔵院に身を寄せていました。良喜の後を追い公城の娘である妙姫が式部から拝領した薬師如来仏を背負い辿りついたのです。二人はここ宝蔵院で匿われました。住職は名鐘といわれた鐘を売り倒幕に荷担したとの事です。師の式部が三宅島で獄死、僧となった二人も良喜は斬首、妙姫は自ら命を絶ったそうです。

私たちは薬師堂の内を見ました。妙姫が背負ってきてこちらに安置されている仏様は暗くてよく見えませんでした。鐘楼は約200年後の昭和38年に再建されたそうです。

お地蔵さまがずらりと並んでいる賽の河原が造られ異様な悲しさをかもしだしていました。幼くして亡くなった子は親をしたって石を積みます。そこへ鬼が来て積んだ石を壊します。それを優しく守ってくれる地蔵たちが並んでいます。彼岸花が咲き始めていました。

5分位で日蓮宗妙法寺の前を通りました。こちらは柴又帝釈天へお参りする人が寄る北辰妙見様として栄えました。日蓮宗らしく手入れの行き届いた庭木が見えました。

環状線7号の奥戸という字が見えてきました。7~8分位進むと奥戸天祖神社がありました。天祖とは伊勢神宮の荘園の神様だったそうで時代と共に少なくなっていったとの事です。連句碑や沢山の力石を見ました。

 

12時過ぎていましたが水分補給とお手洗い休憩をスポーツセンターで10分~15分取りました。

奥戸橋を渡りました。下を流れているのは中川です。奥戸の渡があった所です。参道の長い熊野神社へとはいって行きました。

ご神紋は八咫烏で、陰陽道阿倍清明の五行説(木・火・土・金・水)による敷地を30間の五角形にしました。土曜日は丁度、神事が行われていました。天満宮の撫牛を見て樹齢300年以上の夫婦楠が拝殿の両側にあり大きさに驚きました。

神馬とされている騾馬が飼われていました。神馬の脇から五重塔を見ました。日本一の銅の五重塔という事です。

フィギュアスケートの羽生結弦さんが清明の演技をする際にお詣りしたとのことです。

将軍の御膳所であった南蔵院を右手に見ながら前を通り過ぎました。4~5分で、この地方の地名の由来になった立石のある場所に着きました。

その石は、名所図会にはない鳥居の中に祀られてありました、絵と比べて当時よりかなり小さく見えました。水田や池、沼が多かった亀有から立石にかけては御鷹場になっていました。

毎年11月~2月にかけて将軍以下6,80名で鷹狩りが催されていたとの事です。鶴の鷹狩りが行われていて風俗画や絵馬に示されています。鶴の汁物は将軍クラスでないと口にできない最高のものとされていたとの事です。

空き地の角に帝釈天道標があり。4~5分で出羽三山道標が子育て地蔵の前にありました。

そして商店街に入り一つの願いは叶えるという喜多向観音を見て本日のお昼の場所に向かいました。立石駅から伸びている商店街とその周辺でお店を選び50分間位の休憩を取りました。

後編に続きます。

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