江戸名所巡り 第八回  千住界隈を巡る  (後編)

千住界隈後編のスタートです。

午後の部は西へと曲がり10分位歩くと曹洞宗円通寺に着きました。左手の空地には観音堂があり百体の観音が安置されていたという事です。その代わりというのでしようか正面に金の観音様が高くそびえていらっしゃいます。

少し進むと上野寛永寺の黒門があり鉄砲の玉の跡が生々しく残っていました。旧幕臣と徳川恩顧の有志からなる彰義隊約4千人は慶応4年2月に結成され5月の上野戦争で討伐されました。死節の墓は幕府軍戦死者の招魂碑です。

また、広い場所にいくつもの石碑が立ち並んでいるのは幕臣とそのゆかりの人々の碑です。小塚原の地名の由来となった源義家の奥州征伐の際に48人の敵の首を埋めた四十八塚がありました。

13時過ぎに素戔嗚神社の大銀杏の黄色を観賞し芭蕉句碑の「行く春や鳥啼魚の目は泪」を観賞し動きのある狛犬や富士塚を見ました。

 

浄土宗豊徳山誓願寺は999年、天台宗の僧恵心が豊徳という家に逗留した事から、その居宅を寺にしたのが始まりとの事です。親の仇をとろうとした子狸の話があり供養塔がありました。

橋の手前には小さな熊野神社の鳥居がみえました。熊野権現は千住大橋の守護神で源義家伝説が残っています。

現在の千住大橋と広重の江戸百景を見比べて前進しました。橋を渡ったところの公園で御手洗いと休憩をとりました。

奥の細道行程表が大きく示されてありました。矢立初めの碑もありました。

 

公園の脇を進むと銀杏の美しい橋戸稲荷社がありました。伊豆長八の鏝絵は有名でこちらにも夫婦狐の鏝絵を見る事ができました。母と子の白狐の美しさにうっとりしました。

狛犬の跳ね方が面白くて私達まで元気がでました。

もと来た道に戻り足立市場の傍を通りました。旧日光道中の千住河原町に元やっちゃ場北詰の説明板がありました。享保の頃、朝市が開かれ、せり声がやっちゃいやっちゃいと聞こえて来たそうです。三十数軒の青物問屋が軒を並べていたとのことですが第二次大戦の勃発により封鎖となりました。

直ぐに浄土宗源長寺へと入っていきました。石井掃部亮吉胤により一族の菩提寺として建てられました。大坂冬の陣の大坂方の武将である矢野和泉守の墓、又、享保年間の医師で寺子屋を開いた多坂梅里の碑もありました。

小さな商店街を通り仲町氷川神社に入りました。関屋天満宮と弁才天を拝見しました。美しい黄紅葉にうっとりです。小さな石柱の一里塚があり、「是より日本橋二里八町」とありました。

信号を渡ればすぐそばに高札場跡がありました。

3,4分で真言宗慈眼寺に着きました。

正和3年(1314)行覚上人が開基で寺紋が立葵なのは弘法大師作の聖観音菩薩を賜り、城北鎮護の祈願所となったからです。猟友会の鳥獣塚がありました。

隣は新義真言宗不動院です。千住宿に辿り着いた彰義隊士の供養塔とも言われてうる六字名号塔がありました。又、相模屋等20数軒の飯盛旅籠の屋号が彫られている無縁塔がありました。

すぐ近くにある東京芸術センターで、午後の2回目の御手洗い休憩をとりました。

十分ほど進むと千住宿問屋場・貫目改所跡がありました。旅行者の荷物が定量以内かを確かめる所です。馬だけなら40貫、人と荷だと5貫まで等々細かい決まりがあったようです。

森鴎外の父が明治12年に橘井堂医院を開き家族で住んでいて鴎外が結婚するまで住んでいたという場所を通りましたが生憎、大型マンションの工事で写真のみでした。

15時前後に新義真言宗金蔵寺に入りました。氷川神社の別当寺で千住宿の投げ込み寺で将軍の日光東照宮参詣の本陣代でもありました。

左に曲がり15時過ぎに浄土宗勝専寺に入りました。こちらも徳川家や日光門主等の本陣代を務めていたとの説明がありました。鎌倉時代に頼朝の家人である新井氏が隅田川から千手観音を拾い勝専寺に納め、これが千住の地名の由来ともされています。

本堂はコンクリート造りに赤煉瓦の建物で明治39年建築です。閻魔堂の閻魔様は寛政元年(1789)の開眼との事です。鐘楼の鐘はかつて千住宿の「時の鐘」であったといいます(現在のものは戦後に鋳造したものです)。

明るい色の通りの商店街を進みました。百円シヨップの角に小さく本陣跡の石柱が立っていました。建て坪が120坪とありますから、まずまずの広さだったのでしようか。

 

宿場町通りという商店街を進みました。古い家屋の絵馬屋の吉田屋の前にある傳馬屋敷横山家もなかなか立派で江戸末期の安政2年の建築との事です。

旧水戸・佐倉道とありました。

おやつの時間が突然訪れました。木曜と土曜はお店が開いていたので槍かけ団子を一本ずつ買い味わう事ができました。

15時半頃、真言宗安養院に入りました。北条時頼の創建と伝えられています。文政11年(1828)の山門を眺めました。芭蕉句碑「ゆく春や鳥啼き魚の目は泪」を見てかんかん地蔵の削られた白いお顔と隣の仲良し地蔵にお参りしました。

明和年間に接骨医として開業の名倉医院は広い駐車場の奥にありました。入院施設はなかったので患者専用の宿屋があったとの事です。現在は整形外科名倉本院とあり、よくぞ継続していらっしやると拍手をしたい気分になりました。立派な白壁の蔵もありました。

16時過ぎ日蓮宗清享寺は先程味わった槍かけ団子の名の水戸黄門が槍を立てかけた松があった所で松の碑がありました。私達は綺麗な松の庭を本堂に進みました。解剖人墓は明治3年〰4年に死罪になった11人の囚人の解剖が行われた時の墓です。一人一人の戒名と出身地が刻まれてありました。

長円寺の別当の四丁目氷川神社の狛犬に注目しながらお詣りしました。三管塚とは楠木の下に雅楽の龍笛、しちりき、笙を埋めたもので関東では珍しいとの事です。

目やみ地蔵のおもしろいお堂の絵馬の数々を見ながら本日最後の月松山長円寺へと入りました。

こちらも新義真言宗です。魚籃観音のお堂のそばに綺麗な菊が咲いていました。大日如来像の下部の獅子像に注目して拝見し笑いの中に終了しました。

本日は午後の部が長く、思ったよりも長い行程に感じましたが、美しい黄葉の中を気持ちよく歩く事ができました。

土曜日は4時半になってしまいましたが北千住駅に急ぎ、お別れしました。皆様お疲れ様でした。

 

旅立ちの社は銀杏紅葉かな    豊治

 

冬の蝶遊女の墓はひとまとめ    いさお(坊城先生添削)


 

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