13日は小雨の中を、17日は暑い中を34名で元気に歩くことができました。東上線の武蔵嵐山駅にお弁当持参で10時に集合しました。
前回歩いた街道まで10分位で着きました。
都幾川手前の緩やかな坂を下ります。蛇坂という名に皆様が反応なさっていました。
ここ大蔵の地で木曽義仲の父である義賢は源義朝の長男である義平(悪源太義平)に討ち滅ぼされたのです。
藤沢の遊行寺の末寺である時宗の向徳寺に着きました。紋は「折敷に三」です。
板碑群の立派さには驚きました。康正3年(1344)の時宗板碑「南無阿弥陀仏」と刻んである主尊に注目しました。
時宗では法名に阿弥を付けるという事と、有名な人に観阿弥、世阿弥、本阿弥などがいたと云う説明を受けました。
又、大きな石に「久寿二年(1156)八月十六日 南無馬頭観音」右に大蔵館 源氏一族一門、左に平氏一族一門と刻まれていて平成二年の同じ八月十六日に建てられていた事が印象的でした。
この地で戦った源氏と平氏を供養しているのでしよう。
当時の土塁の一部が残る大蔵館跡がありました。源氏の棟梁、源為義の次男で東宮帯刀先生源義賢の居館のあったところです。帯刀先生(タテワキセンジョウ)とは皇太子の護衛官の長ということも学びました。
源義平と義賢の戦いは畠山氏や秩父氏を巻き込み大蔵合戦といわれるものになったのでした。大蔵館跡の説明版と石柱が立っています。
義賢霊所という鳥居の奥に五輪塔があります。鎌倉初期のものと言われています。鉄の扉にしっかりと守られていました。梅の実が熟して落ちていました。歩いている道々にきれいな梅の実が色づいています。
墓所の入り口前に、道を挟んで義賢に関係する真新しい廟所が造られていました。
一回りして次へと進みました。
11時半近くに安養院の山門をくぐりました。応永元年(1394)の創建。さびれた寺の門に籠彫りがなんとか形を保っている状態でした。奥の荒れた本堂と右手に玄関がありましたが、当時を偲ぶには余りに荒れていました。
廃寺寸前の姿のこの寺は昭和30年代には金東光が住職だったと聞かされ、自信たっぷりの毒舌や顔が浮かんできました。
タイサンボクの花が一輪咲き残りよい香りを放っていました。
4~5分で零明山大行院神明殿に着きました。今までに感じたことの無い雰囲気です。修験者又は山伏と呼ぶ形の信仰で、土曜日には信者の方々でにぎわっていました。山犬の狛犬に驚ろき修験者の像の赤い唇にも少し違和感を覚えました。
桑の実がよく熟れて黒紫になっています。もいで味見をする人、子供の時には、もっと大きな実だったのにとおっしゃる方も。
突如、縁切橋の大きな立て札が現れました。坂上田村麻呂の妻が京から訪ねてきた際にここで縁を切って追い返したという伝承があります。
富士山と、月と日が彫られている仙元大日神の石碑を右手に見て進みました。
イノシシ注意の道を進みお昼頃に日吉神社に着きました。坂上田村麻呂がここで一夜を過ごしたといいます。奥にちいさな木の祠がありました。
石の将軍塚が建てられていて、田村麻呂がこの土地の人々にどんなに崇められたかがよく解りました。
明光寺へと入りました。鎌倉期のもので町内では最古の塔婆とされている貴重なものがあるとのことです。。
私たちは一路、笛吹峠を目指しました。
残っている鎌倉街道の掘割を、右手の木立の中に見ました。
直ぐに頂上の鉄塔の下まで辿り着きました。
待望のお昼です。本日はいつもより少し遅くなりました。
美味しいお弁当を各自いただき、40分位の休憩時間を取りお手洗いもすませて、さあ午後の部の始まりです。
笛吹峠の名前の由来をいろいろと聞きました。
後醍醐天皇の皇子である宗良親王が笛を吹いて敗戦の心を慰めたといいます。実際は風が強くて笛を吹いているように聞こえたからとも・・・・。
緑の中を気持ちよく下っていきました。丸く赤い実の和桑があり桑との違いを講師が話していました。
街道端沼がありました。
小さな道標を見ました。
すぐにある、はぐれ堂跡にはお地蔵様がいました。お歯黒を付けた大将の首を埋めたのが「羽黒堂」になったという説や、家来にはぐれて射られた大将の首を埋めたので「はぐれ堂」などの説があります。
その昔、鎌倉街道とこの村は、あるとき大きな歴史の流れの中にあったことは間違いないようです。
柏の大きな木の葉を見ることもできました。
田植えを終えた水田が美しいです。雉が歩いています。
一時半頃に上道の大きな案内板が立っている場所に来ました。
大橋川を渡ります。橋を渡ると間もなく鳩豆工房という土地の物とお土産などを売る店があり入りました。ソフトクリームを食べる人、飲み物を補充したり地元で人気の豆腐を買う人。お手洗いを借りて少しの間、休憩をとりました。
筆者はとてもきれいな小物を見つけました。鳩山ガラスのトンボ玉のようなネックレスを旅の思い出に大切にしたいと思います。
さて、しばらく歩き熊石橋を渡り右手に曲がると赤沼古代瓦窒跡が残っていました。傾斜を利用した登り窯は、木造の小屋で覆われていて窓越しに覗けるようになっていました。
4,5分で石田国分寺瓦窯跡の説明版がありました。平成5年の発掘調査で新しく発見されたとの事です。武蔵国最大の窯跡で8世紀中頃まで使われていたとの事です。
水色の細い橋を渡ると鳩山中学校舎が見えてきました。体育館の下が鎌倉街道が通っていたとの事で、私たちはう~んと声が出てしまいました。
バス停は思いの他、近くにありました。3時少し前にバスに乗り坂戸駅まで20分(340円)位、バスの旅を楽しみました。
坂戸駅も新しくモダンな駅舎でした。
7月、8月は熱中症の心配があるのであるき隊はお休みです。
皆様どうか、この夏をお元気に過されますようにこころからお祈り申しあげます。