6月21日は雨の中、6月25日はうすぐもりの中をJR藤沢駅を出発しました。まず境川を渡ります。橋に立派な石の常夜燈が立っていました。街道は住宅地へと入って行きました。
本日最初に訪れたのは舩玉神社です。源実朝が宋に行く為に船を造らせたが浮かばなかったという伝承があります。この辺りに大鋸が住んでいて船大工などの御用をしていたといい、それが地名にもなっています。二宮金次郎の石像も右前にありました。
進んで行きますと10時すぎに左手に石造物が集められている場所が、右手には紫陽花が咲き空が開けてきました。30分位進むとこちらの地名は村岡町です。使われていないという道路を潜り弥勒寺(みろくじ)に来ました。ひげ文字の碑が迎えてくれました。
実を見てみたいと思う仏手柑の小さな木を見ました。芭蕉のバナナのような実もなっていました。
こちらは北条泰時が父の義時を弔う為に創建したといいます。始めは禅宗の寺でしたが、後に日蓮宗に改宗したとの事でした。
JR線の横を通り踊り子号とすれ違いました。古い道祖神を見て通り大門跡を通り御霊神社へと長い参道を進みます。鶯が鳴いています。太いタブの木が常緑樹の葉を茂らせていました。「梅が香にのっと日の出る山路かな」の芭蕉句碑を見ました。
私達は女坂を登り旗立山の由来を聞きました。源義家が前九年の役のとき、山の頂上に白旗を立てて兵を集めたとのことです。
登り切った拝殿の鈴には鰐口も付いていました。兜山に会った七面宮や疱瘡神にもお参りして今度は男坂である階段を降りました。
すぐ脇にある草の空地になっている別当寺の徳寿院跡も見ました。
権五郎景政が兜を松の根本に埋めたと言われる兜松跡は立ち入り禁止で側まで行けませんでした。古館橋の交差点を過ぎ八丁面という広々とした草原の横を進みました。
21日は大きな喫茶店で25日は絹蕎麦を頂きました。
1時間の休憩の後、午後の始まりです。20分位歩くと、この辺りの領主であった梶原景時が創建して時代を経て明治より八雲神社となったという神社の紫陽花の石段を昇りました。
室町時代の創建の円久寺にも寄りました。気温も上がって辛くなってきました。それから10分位歩き北条氏常盤亭跡に着きました。緑に囲まれた草々に覆われた場所です。
大仏の切通の北の要所で北条一族の有力者の別邸跡で重要な史跡ということです。
いよいよ大仏切通坂の入口です。すぐに岩を削ったような所に出ました。皆さんのおーという声が聞こえます。
雨上がりの切通はぬかるみにはまりながら、手すりをたよりに茂みの中を降りはじめまた。
一列しか通れない細い道を25日は土曜日でしたので、下から登ってこられる人達とすれ違いました。切通の中で一番困難と言われている大仏切通を、私たちは無事通過したのです。
こちらで自由散策となりました。御手洗いと水分補給もしました。
その昔は木造だったそうですが1252年に青銅像に造りかえられた大仏様は、近年の改修も終え美しいお姿でした。「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」与謝野晶子の歌を鑑賞しながら感動を新たに致しました。
手焼きせんべいのお店に寄り5,6分で買い物を済ませて次へ進みます。
桑ケ谷養生所跡に立ち、1200年代にここで貧者や病人を救った施設があったとはと私たちは大変感心致しました。
光則寺は日蓮が佐渡に流された際に日朗上人がこちらの裏山の土牢に入れられた土牢があります。
まず花の道を縫いながら石段を上がりました。大きな閉ざされたままの土牢を見ました。その後は思い思いに庭を鑑賞しました。宮沢賢治の雨にも負けずの歌碑があり、日蓮宗の信者と知りました。
白い半夏生の花がきれいでした。しもつけ、ぎぼうし、色んな紫陽花も咲いていました。
一休みして、いよいよ次は長谷寺です。4時すこし前に着き、赤いちょうちんの前で記念撮影をしました。講師が皆様にどうしてもお見せしたいという金魚葉椿の葉を見て20分位、思い思いの散策時間です。
「永き日のわれらが為の観世音」の虚子の句が刻まれた聖観音を見上げました。
立派な本堂の前にも紫陽花が美しく咲いていました、見晴台からは海が見えました。
本日最後に訪れたのは収玄寺です。日蓮の弟子である四条金吾は終生日蓮につくしました。
四条金吾邸址碑を書いたのが日蓮宗信者である東郷平八郎という説明を受け大きな石碑を眺めました。
長谷寺の駅にはほんの1,2分で着きました。4時半過ぎに江ノ電の鎌倉行と藤沢行に分かれて乗り込みました。
本日も盛沢山の連絡道でした。無事に大仏切通を通れたことが最高の思い出になりそうです。