4月12日(火)4月16日(土)総勢29名の皆様のご参加でお天気に恵まれた中を歩きました。
荏田駅を9時半すぎに出発して、前回の女性の為の庚申講のお堂が左手に見える鎌倉街道の場所まで10分で着きました。桜がほんの少し残っていました。
橋を渡り5分位で樹形の美しい大木が見えてきました。鶯の声が聞こえる中、まず訪ねたのは真福寺です。大正10年にすこし北にあったのをこの地に移したとのことです。
鎌倉時代の五輪塔は少し傾き三輪になっていました。
右の手前にはおしやもじも立てられていました。 昔の人は、何にでも救いを求めお願いするのだとつくづく思います。昔も今もある意味大変ですが、昔の人は心の拠り所を沢山持っていたのかもしれません。
街道から少しそれて幼稚園の前を通り、畑の間の道を進むとこんもりとした若葉の中に劔神社がありました。
良質の炭を納めた商人に刀鍛冶よりお礼にと劔を一振り与えられました。その劔が、大蛇から商人を救ったのでした。商人は祠を建てて劔を祀ったのが始まりといいます。
この神社前の道も鎌倉古道という事です。
荏田の西をずっと歩きます。講師はタンポポが、国によって名前が違うという面白い話をし、また日本人がいかに美しい表現力を持っていたかを語るのでした。
新しい住宅地を進みます。そしてここが鎌倉街道だったとはと感じるのでした。
木香バラが咲き始め、西洋しやくなげの見事な花のお宅もあり、我々の目を楽しませてくれました。
11時過ぎに広い道路に出ました。横浜市青葉区の樹々に囲まれた公園の脇が鎌倉街道だとの説明を受けてから、本日は早めのお昼になりました。ラーメン屋さんかマックか、はたまた公園でお弁当か皆様は三択をせまられました。
1時間のお昼休みの後、20分位で手斧橋を渡ります。
レンタカー屋の道を抜けると文字の庚申塔等を集めた石造物群がありました。私達は二十三夜塔の二十の字に注目をしました。
すぐにまた、小さなお堂の中に集められた庚申塔等が六、七体ありました。
立派な狛犬と子供の犬の可愛い格好に私達は笑顔になるのでした。
境内の奥の草原の中に二十三夜塔や庚申塔が集められていて、人々の暮らしの中にある身近な信仰をこちらでも垣間見ることができました。
榛名神社や浅間神社のおもしろい逸話を講師から聞きました。
新しくてきれいな六地蔵様をすぎると右手に芭蕉句碑があります。「うき我をさびしからせよかんこ鳥」嵯峨野の落柿舎での句ということです。
こちらでも暫らく時間を取り、ゆっくり鑑賞させてもらいました。
又、八幡様の前の道に戻りました。川和宿跡にある二十三夜塔の側には木造で一部三階建ての城所家本家がありました。朱の屋根の下には州浜の紋がはっきりとあり、これは現在話題の大河ドラマの真田家の家紋と同じという事です。城所家は平塚の出身といいます。ちなみに真田家は六文銭以外に州浜と雁金の紋があるという事です。
2時頃に地下鉄グリーンラインの川和町駅で御手洗い休憩を取りました。火照ったからだをしばし休める事ができました。
鶴見川を見下ろしながらはっさく橋を渡り、梨の花に見とれながらも進みました。
2時半頃、日蓮宗の蓮生寺へと入りました。こちらでは地名として残る青砥大明神について知る事ができました。祀られている由来を記さなければなりません。
鎌倉の北条時頼の忠臣である青砥藤綱の所領でした。藤綱は人々にたいして援助し続け、民から大変慕われ、没後ここに墳墓をかまえて祀られていました。しかし時代は下り、享保17年に悪病が流行した際に青砥大明神を顧みないからとのお告げがあり、人々はそれ以来、守り神として崇めたということです。青砥大明神に供えられてある花は確かに立派だと感じました。
つつじが咲き始めていた美しい階段を降りながら髭文字の寺を後にしました。
2時42分、本日最後に訪ねたのは鶴見川の側にある杉山神社です。多摩川の西側に多く分布しているのが、この杉山神社なのです。大きな楠が迎えてくれました。
名木古木の欅がありましたが桜の残花もあり、静かに我々は神域に身を置くことができました。
通りに出ますと、京セラのビルを左手に見上げて又、細い鎌倉街道へと入りました。
JR中山第二踏切も鎌倉街道ということです。この踏切を渡ると本日の街道はこれまでと講師が言いました。
3時過ぎに横浜線中山駅に到着です。こんなに早い解散は初めてです。埼玉県からのご参加の方々も明るいうちにご帰宅出来ますね。
皆様お疲れさまでした。