4部8回  鶴見・神奈川宿界隈を巡る

10月18日(土)、21日(火)、10時に京急鶴見駅に集合しました。21日は曇りでしたが両日ともに歩くには丁度良かったと思われました。

駅を右に曲がり信号を渡ると清月という和菓子屋があり元禄から享保年間に鶴見の「よね」という女が売っていた塩餡の餅を俵型にした物を竹籠で売っていました。「お江戸、日本橋七ツ立り初上り~六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀との、よね饅頭、こちゃえ~こちゃえ~」と歌われていました。皆さん「よね饅頭」をお土産に買ってから本日の歩きが始まりました。

鶴見は間(アイ)の宿で休息ができる小規模な宿場で本陣・問屋などがありません。線路を渡り線路沿いを歩き総持寺に向かいました。10時40分頃長い参道を進みました。曹洞宗大本山の総門に至る前に三味線地蔵と呼ばれる延命地蔵が右手に立っています。

一人の瞽女が宿に泊まり三味線を弾いていると隣の部屋の越中の薬売りが歌に引かれて話をしているうちに心を許し二人は夫婦の契りを結びました。翌日に目をさました薬売りは女の顔全体の天然痘の跡を見て心がさめてしまい総持寺に向かう途中で谷底に女を突き落としました。以来、夜に谷底から助けてという声が聞こえるようになり薬売りは犯した罪を反省し仏門に入り地蔵を造立して供養したのがこの地蔵だと伝えられています。

三門を入り香積台の中を見学しました、おさわり大国と正面奥に日本最大の大黒天が安置されていました。売店もあり買い物をされた方もいらっしぃました。

大祖堂は本堂と客殿を兼ねていて正面の門は向唐門(勅使門)になっていました。 

広い墓地へと進みました。高く聳えるているのは日比野雷風の墓でした。古武道を学び紳力流舞術を開眼しました。古来に居合術を基本し柔術・空手・舞踊の要素を融合させた武者の舞とは見たい物です。金木犀の香りの中を奥に進むと石原裕次郎の墓がありました。

供花がいくつも在りました・まき子夫人の詩の様な言葉が黒石に刻まれています。

再び境内に戻り三宝荒神の階段を登り始めました。平成救世観音が白銀色に光っていました。欧州戦役受難船員碑がありました。日本郵船が大正8年第一次世界大戦で死亡した船員の慰霊で建立した物です。宮崎丸、常陸丸、平野丸と刻まれていました。少し上がると三宝殿がありました。

大梵鐘が見えてきました。大正2年に吊るされたもので重さは18・75トンで関東の寺院では最高との事です。

11時45分頃に東福寺に入る手前に道標や石碑を集めた一角を見て門の手前の葬頭河婆の祀られている小さな堂を覗いてみました。目・鼻・耳・口の病に御利益があるとの事で元文元年(1763)の造立です。

石段を登り本堂へお詣りをしました。疣取り地蔵は足元の小石を借りて帰り毎日、自分の疣を擦り疣が取れたら石を二個にして奉納するとの事です。子宝信仰の子生(子育て)観音が有名だったので門外には願いが成就した印として多くの石碑が並んでありました。立派な芭蕉句碑がありました。「観音の甍見やりつ花の雲」で深川の草庵で詠まれたものです。

通りの大きなタブの樹を見ながら駅へと歩きました。18日と21日は生麦事件現場へ行くのは前と後ろになりました。道路に面したビール会社の植え込みの中に小さな石柱があり、生麦事件でイギリス人が此処まで逃げてきた現場です。これでは誰も気付かないのではと話しながら眺めました。文久2年(1862)、勅使の太原重徳が島津久光を従え攘夷を奉じて幕府に伝えた後、久光が帰国する9月に生麦村で行列を乱したイギリス人を殺傷した事件です。幕府は10万ポンドの賠償金を支払いました。生麦事件の記念碑がありました。

電車で東神奈川駅に降り京急線沿いにある真言宗金蔵院の前にさしかかりました。

朱印は10石で徳川家康が神奈川御殿が建てられるまで宿泊した所で、その時に紅梅を手折り江戸城に持ち帰りました。以降、住職は梅の一枝を江戸城に持参したとの事です。

金蔵院の少し奥に熊野神社がありました。神奈川宿の総鎮守です。寛治元年(1987)金蔵院を創建した勝覚僧上が熊野権現を近くの山(権現山)に勧請しました。その後、権現山が崩壊したので現在地に移したとの事でした。公孫樹は樹齢約400年で御神木です。大火や戦災を乗り切り一部は炭化して大きな洞となっていますがしっかりと立ち茂っていました。狛犬は大獅子で右の子犬は進駐軍に埋められましたが平和条約後に掘り返し元に戻したそうです。

高札場を出て浄土宗の成仏寺へと進みました。10石の朱印で紋は三鱗です。安政6年(1859)、横浜開港当時はアメリカ宣教師の宿舎となりました。ヘボン博士は、この年に来日しヘボン式ローマ字を考案し日本で最初の和英辞典を完成したり医者として日本人の診察を行い後に明治学院を創設しました。

次は浦島伝説のある浄土宗、慶運寺です。文安4年(1447)の創建で7石の朱印を有しました。紋は備前蝶でフランス領事館を置いた所です。浦島伝説は他と少し違い乙姫から玉手箱と長生きできる観音像を貰い親の故郷である神奈川へ帰りました。観音様のおかげで両親の墓が解りお堂を建て観音様を祀ったとの事です。徳本名号塔があり文政5年(1822)の造立です。

7~8分程あるき日蓮宗の浄滝寺の前に来ました。こちらはイギリス領事館があった所です。

直ぐ近くに神奈川の大井戸と呼ばれる井戸がありました。将軍や明治天皇の通行の際に使われたました。

次は曹洞宗の宗興寺に行きました。アメリカ宣教師のシモンズの宿舎で、十全病院で外科手術を行いました。その後、ヘボン博士が診療所を開設し宿舎の成仏寺から通い無料で診察に当たりました。

神奈川台場跡は本陣跡から少し離れていますが安政6年(1859)に幕府の命令で伊予松山藩が約1年の工事で約7万両の費用が掛かりましたとの説明を受けた後、青木本陣と滝の川を挟んで石井本陣があったとの説明がを受けました。

3時半近くに洲崎大神の前に差し掛かりました。青木町の総鎮守です。かっては船着き場があり、海に向かって参道が伸びていました。横浜が開港すると開港場と神奈川宿を結ぶ重要な渡船場となりました。

別当寺の浄土宗甚行寺はすぐ傍にありました。フランス公使館跡碑を見ながら領事館との違いなどの説明を受けました。

ここで対岸の青木橋を渡りました。

高台から下を見下ろす場所に来ました。

2~3分で曹洞宗、本覚寺に入って行きました。階段を上がるとアメリカ領事館跡碑が入口に立っていました。岩瀬肥後守忠震(タダナリ)顕彰碑がありました。幕府海防掛目付で開国を推進した幕末三傑の一人です。

山門を潜りました。江戸時代の建築ですが日本に存在しなかった西洋塗装(ペンキ)の跡が残っていました。中に入ると寝釈迦(涅槃像)があり全国塗装業者合同慰霊碑とありました。

子育て地蔵堂の前には水盤を我慢さんが支えていました。本堂は昭和46年の再建です。第10世住職の大穴梁国の夢枕にお地蔵様が立たれ人々の難病を救う霊薬を授けました。何種類かの薬草で薬を造り万病に効く「黒薬」は有名になり旅人は本覚寺で薬を買い求めました。西向寺は本覚寺の隣にあり虚無僧寺でした。まだ新しそうなこの碑は西向寺奉賛会と虚無僧寺研究会有志が造立したものです

私たちは時代劇に出てくる虚無僧は本当に存在したのだと思いを馳せました。4時半に近づいて大網金毘羅神社へと歩を進めました。

赤い鳥居を潜りました。文治4年(1188に源頼朝が飯綱権現を勧請して大綱神社を創建、その後、山の中腹に金毘羅神社を勧請しましたが山が崩壊したので両社を合併させたとの事です。大きな天狗に像に驚きました。江戸から讃岐国金毘羅宮に天狗を奉納しようとし神奈川宿で一泊すると使者の夢枕に「この神社に留まりたい」とのお告げがあり翌日に天狗像を重くて運ぶ事が出来なくなり奉納したとの事です。

階段を降り5分位で割烹田中家の前に着きました。坂本龍馬の妻である「お龍さん」が働いていた所です。龍馬が暗殺された後、自立の道を模索していた時、勝海舟の紹介で住み込みの仲居として働いたそうです。その後、客と所帯を持ちましたが夫の事業の失敗やお龍さんのアルコール依存症で幸福な晩年ではなかったとのことです。ちょっと悲しい思いで田中家を後にしました。

本日、最後に神奈川台関門跡・袖ヶ浦見張り所を見て横浜駅に向かいました。辺りはうす暗くなっていました。皆様、長丁場、大変お疲れさまでした。


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江戸名所4部7回  川崎宿界隈を巡る

9月23日(火)、27日(土)の2日間、まだ残暑の中を巡りました。
川崎大師駅南口10時に集合して、まず駅を出て右手に京浜急行発祥の記念碑を見ました。可愛らしい電車のモニュメントが目立っています。  
明治32年に六郷橋から川崎大師まで開通しました。日本でなんと3番目というのですから驚きました。1番が京都電鉄、2番が名古屋電鉄です。


信号を渡ると右手に若宮八幡宮がありました。旧大師河原の総鎮守で川崎大師の鎮守社です。

境内社として金山神社が目立っていました。社殿が正八角形の高さ8メートルの吹き抜けで内部はフィゴと炉を設置し金床を埋め込み鍛冶場を再現しているとのことです。

金山と金魔羅の読みが似ている事から御神体が金属製の男根という点が珍しく昭和52年、観光用に作った祭りの参加者には外国人が多いそうです。

大師河原酒合戦350年記念碑や酒器を楽しく見て、次へと進みました。

川崎大師表参道厄除け門という赤い門を潜りました。右に曲がると咳止め飴などの店がずらりと並んでいました。まずは久寿餅の住吉屋で買い物をしました、ずっしりと重い2~3人用900円を二箱、皆さまもそれぞれ買い求めていました。

いよいよ川崎大師こと、金剛山金乗院平間寺の大山門を潜りました。平安時代の大治3年(1128)に平間兼乗という漁師が弘法大師像を得て一宇を建立し安置したのが始まりで高野山の僧である尊賢が立ち寄り平間寺としました。

正月の初詣は一番が明治神宮、二番が成田山新勝寺、三番がここ川崎大師という事です。右手の聖徳太子堂は平成26年に建築されました。大本堂は昭和39年の再建です。戦災で一つのお堂を除いてすべて焼失しましたので、すべての建物が新しく堂々としています

次の私たちが眺めたのは奇跡の銀杏でした。経蔵の傍の銀杏は先の戦争で幹の大部分が焼失しましたが復活しました。この奇跡の銀杏の樹勢にあやかり健康長寿、心願成就を祈念するのです。

旧本堂の礎石や田安家より宝暦6年(1756)に寄進された宝篋印塔がありました。

福徳稲荷堂は昭和20年4月15日の戦災を免れた唯一の堂でどうして焼失しなかったか疑問を抱きながらお狐さまのお力が働いていたのだろうかと眺めました

いろは歌頌徳碑があります。作者は弘法大師という説があるので建てられていて学僧から民衆にまで広がりました。

人生劇場など古賀メロデイーと云われた古賀政男の胸像があります。

遍路大師像を見て四国八十八ケ所の砂が埋められている場所を巡りました。

力石や北の湖敏満の像があり第55代横綱は平間寺の檀家で篤い信仰を寄せていたとの事です。

八角は最も円に近い建造物で包容力完全性を象徴しています。八角五重塔は昭和59年に建立されました。

鐘楼堂がありました。鐘は不動門と共に福島県の旧家から昭和23年に譲り受けた物で寛政7年(1795)に改鋳されたものです。除夜の鐘や6月10日の時の鐘、8月6日・9日の原爆忌、8月15日の敗戦の日に鐘は打たれます。

芭蕉句碑の「ちちははの しきりに恋し 雉の声」は芭蕉が高野山に詣でた際の句です。

赤い「やすらぎ橋」を渡ると金色ピカピカの降魔成道釈迦如来像がありました。釈迦は菩提樹の下で禅定(瞑想)に入ると種々の悪魔が現れて誘惑、脅迫して妨害しましたが成道を開く(悟りを開く)この時左手を膝の上に置き右手を伸ばして大地を指しました。この時のお姿です。胎内にはインドから贈られた仏舎利が納めれれているとの事です。

日本百観音霊場を巡りました。西国・坂東・秩父で百ケ寺観音菩薩のレリーフがあります。

最後に白いインド風建築の薬師殿に入りました。平成20年の建立で「なで薬師」があり御利益を信じ撫でさせてただきました。

15分位歩き石観音堂に着きました。庭には地元の漁師が亀2匹の力を借りて海から引き揚げたと云われる霊亀石が手洗い石として置かれています

一定の時間の内に数多くの句を詠む事を記念した梅動独吟万句詠草塚がありました。

すぐ傍にこちらも江戸名所図会にある厳島・八海山神社に着きました。赤い鳥居が厳島神社で白い鳥居が八海山神社です。

12時を少し過ぎてからバスに乗り川崎宿交流館の近くに移動し昼食を取りました。

1時半頃に川崎宿交流館2Fに集まりました。展示室の宿場のジオラマが実に細かく造られて一番奥が多摩川の六郷の渡しとなっていました。

交流館から少し戻り曹洞宗宗三寺に入りました。鎌倉時代に領主の佐々木泰綱が開き戦国時代には間宮氏がこの寺を中興しました

両氏の供養塔があり紋は四ツ目結いです。墓地を進むと奥に平成の三四郎こと古賀稔彦さんの墓がありました。バルセロナ・アトランタ・オリンピックの柔道金メダリストで令和3年に53歳で死去しました

奥の隅には飯盛女供養塔もありました。

波多野家と青木家の墓石の頭部中央に謎の文字と云われる烏八臼(ウハッキョウ)字が彫られています。鷁は船首に付ける鳥で死出の船出を表すとの説があります

2時過ぎに浄土宗一行寺の前を通りました。ここは閻魔大王が祀られているので閻魔寺と呼ばれました。

10分位進むと川崎宿本陣の田中本陣説明板がマンションの隅にあるだけでした。

2時半過ぎに真言宗真福寺に着きました。守護仏は行基作と伝わる薬師如来で眼病や多くの病気に効能があると信仰されていました。寛政5年(1665)の庚申塔は古いですがしっかりしたお顔が印象的でした

直ぐに稲毛神社に入りました。平安時代の河崎庄の鎮守です。鎌倉時代に佐々木四郎高綱が頼朝の命を受け社殿を造営したとの事です

樹齢約1000年の大銀杏は神木で十二支巡りが出来ます。天地睨みの狛犬はとてもいかめしく怖い顔でした。右は上半身、下は下半身の願いをするとの事です。

赤い大鳥居の台座には川崎宿の有力な旅籠の名が刻まれています。

芭蕉句碑がここにもありました。江戸を発し伊賀上野に帰郷する時に詠んだ句です。「秋十とで却って江戸を指す故郷」。10年も江戸に住んでいると故郷のように思えるという意味です。

大正14年に架けられた六郷大橋の親柱があり多摩川と六郷橋の事が分かりました。

3時台は旧東海道を歩きました。佐藤惣之助碑がありました。川崎尋常小学校出身でコロンビア専属の作詞家で「赤城の子守歌』「六甲降ろし」「赤に背広」など多くの作品があります。小学校後輩に坂本九がいます

小土呂橋跡が舗道に残されています。川崎周辺の水田改良の為に慶安3年(1650)に関東郡代の伊奈忠治が普請奉行となり新川堀用水を掘削しました。現在は暗渠となっていますが大正時代の親柱が残っています。

3時過ぎに浄土宗教安寺に入りました。こちらの梵鐘は空襲などを知らせるものでサイレンが破壊された時の備えとして金属供出を免れた江戸時代の鐘です。

東海道川崎宿の西の京口に3時半頃に着きました。

バスで成就院前で下車し真言宗明王山無動寺成就院は鎌倉中期の高野山の僧である明弁が創建しました、新田義貞の夢枕に二童子が現れ「椿樹郡亘田の里に安置している不動を崇るべし」と云われお詣りをすると北条高時を滅ぼす事が出来ました。

すぐ傍には新田神社がありました。新田義貞が越前国藤島で討ち死にした時に家臣の亘新左衛門早勝が遺品の剣や陣羽織を持ち帰り一本松の下に埋葬し新田大明神とし村内の鎮守として創建したと云われ昔の忠臣に感動を覚えました

川崎小学校前からバスに乗り川崎駅で降りました。

坂本九の笑顔の碑がありました。プロフィルを見ると「上を向いて歩こう」が聞こえてくるようです。1985年8月12日の飛行機事故で亡くなった日が思い出されます。

本日は予定より遅くなりましたが皆さま、最後まで頑張られました。お疲れさまでした。

大詩

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第4部6回 深大寺・高幡不動を巡る



江戸名所巡りも江戸の西の端にやってきました。今回で都内は最後となります。

6月10日(火)は調布駅から歩いて行けるので先に布多天神に行きました。14日(土)はバスで先ず深大寺方面を目指しました。

10時半頃に深大寺小学校のバス停で降りました。東方面の参道を歩きますが、まず名所図会にもあります青渭(アオイ)神社に入りました。旧深大寺村の総鎮守です。入口に欅の大木があり樹齢700~800年と推定されています。江戸時代にはすでに老木と呼ばれていて図会にある大きな瘤があり少しハート型にも見えました。立派な狛犬は明治13年の物で足元の子の顔がとても可愛く皆の微笑みがこぼれました。

石段を降りると滝口から流れ落ちる不動の滝が二筋、落ちていました。

2~3分で深大寺の東門を潜りました。本坊の建物が目の前にあり左にある鐘楼を見ました。国重文の旧梵鐘は釈迦堂に保管されていて、こちらは明治3年の物です。本堂は慶応元年(1865)に焼失し大正8年に再建されました。常香楼は天保4年(1833)の建築で寺内では山門に次いで古く本堂側の面は火事の跡が残っていて黒く焼け焦げています。慈恵大師(良源)の元三大師像は秘仏で約2メートルあり、講師から美男子なので官女から逃げる為に鬼の形相をして仏道に励んだと、面白い話を聞きました。

釈迦堂の側面には深大寺の達磨(片方の目に梵字)とおびんずる様が置かれています。普段は飛鳥時代の国宝の釈迦如来を安置しておりガラス越に誰でも見る事が出来るのですが今回は展覧会へ貸し出されてレプリカが安置されていました。

虚子像があるのはホトトギス五百号記念で同人達が虚子像を作り調布市の虚子の次男宅に置いてあったのを池内友次郎が都心に転居した際に深大寺の希望があり、現在地に移したとの事です。

それから参道に出て西に向かいました。深沙堂は昭和43年に再建されたもので深沙大王像は絶対秘仏(住職が一生に一度だけ見る事が出来る)で裏には深大寺発祥の泉があります。又、縁結びのパワースポットでもありお願いの絵馬が沢山ありました。

少し坂を上がると延命観音がありお詣りをしました。秋田県象潟(キサカタ)港の工事の際に大石を引き上げると慈覚大師自刻の観音が刻まれたていたのを深大寺に奉納した物です。内を覗くと明かりに照らされ美しい観音様がいらっしゃいました。

坂道を登り本日のお楽しみの火曜日は松葉茶屋、木曜日は玉乃屋の深大寺蕎麦を頂きました。蕎麦粉を挽いている臼が見えました。

参道に出て山門を表から見ました。元禄8年(1695)の建造でとても趣きを感じました。バスを待ちながら蕎麦観音を眺めたりお手洗いをすませました。

深大寺行きのバスに乗り布多天神で降り参道が真直ぐ長く続き奥に名所図会に描かれている天神さまがありました。

本殿の右奥の森は鬼太郎が生まれた森とのことです。

日露戦争記念碑が右手にある近藤勇の孫(娘の子供)である近藤久太郎の名が彫られていました。

調布駅まで5分程歩き京王聖跡桜ケ丘駅まで電車に乗り、14分から15分歩き、古くは武蔵一之宮であった小野神社に入りました。10日は雨の中でしたが14日は茅の輪があり皆が願いを込めて潜りました。

京王線に戻り25分で高幡不動参道へと入りました。4,5分で正面の室町時代の創建である仁王門を潜りました。元は境内南の山の上に高幡城が建っていて建武2年(1335)の大風で堂宇が倒壊し康永元年(1342)に現在地に移築されたとの事です。源頼義家は前九年の役で源氏の白旗を松に掛けたという旗かけ松は二代目です。

上杉憲顕(憲秋)は享徳4年(1455)に足利氏成との立川河原合戦で敗れ深手を負い高幡寺で自刃をしました。自然石はその墓標です。百日咳に霊験があるとの上杉堂です。奥殿には重文の丈六不動三尊がありますが撮影禁止でした。大きくとても立派な不動尊でした。文永の板碑を見て大日堂へ上げりました。

300円の拝観料を払い中に進みます。奥の土方歳三や近藤勇の位牌を見て多くの位牌がある通路を通り鳴き龍のある本堂で手を叩き鳴き龍の声を楽しみました。

大師堂の前を通り五重塔の傍の見事な紫陽花を眺めました。芭蕉句碑の「名月にふもとの霜や田の曇り」は伊賀上野の無名庵で月見の宴をした時に詠んで句です。土方歳三の像は平成7年の造立で皆のあこがれの土方に別れを告げ元来た参道を駅に歩きました。

多摩モノレールで万願寺駅で降り土方歳三の墓がある石田寺へ10分位歩きました。

歳三が子供時代に遊んでいた場所で榧の大木(樹齢約500年)が立っていました。歳三の見たところだ思うと感慨深くしみじみと見上げていました。

近くに土方家の墓と歳三の墓が並んであり皆でお参りをしました。

10分位歩き名主の家の隣に歳三の生家跡があり、現在は土方歳三記念館になったいます。残念ながら開館日ではありませんでした。

モノレールに乗り込んだのは4時15分くらいでした。本日はバス、電車、モノレールを使い長時間、多摩の江戸名所を巡りました。皆さま、大変お疲れ様せした。



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第4部5回 矢口・丸子界隈を巡る

5月13日(火)と17日(土)10時、東急多摩川線矢口駅に集合しました。東京は25度、晴れの汗ばむお天気でした。17日は全国的に雨の日でしたので少な目の人数で巡りました。

10時12分に出発し、まず駅から多摩川の方向に歩く途中に浄土宗延命寺へ入りました。開山は弘安年間(1278~88)に村民の請願で蓮花寺という念仏道場が建てられたのが始まりでした。永禄2年(1559)に北条時頼の守り本尊である延命地蔵を奉安し堂宇を再建し延命寺と改称しました。

天保11年(1840)造立の「火雷除子安地蔵尊」の標石が山門の傍にありました。

大正7年造立の戦病死忠霊塔、弘化3年(1846)造立の六地蔵、明治35年造立の線刻地蔵、無縁仏群を拝見しました。本堂は昭和33年の再建です。

10時40分頃に多摩川の土手に出ました。矢口の渡し跡です。地名の矢口は日本武尊がこの辺で「矢合わせ」をしたからと。鎌倉街道脇道で矢喰村と称したとも。矢口の渡しは江戸時代中期から多摩川大橋が完成する昭和24年まで利用されました。

多摩川の流路は変遷していて古多摩川は光明寺池から新田神社付近を流れていて渡し場も新田神社付近と推定されています。すぐ傍の東八幡神社の鳥居を潜りお詣りしました。建長2年(1250)の創建で明治44年に領家八幡を合祀して湯坂八幡から東八幡神社となりました。

また傍の真言宗智山派円応寺に入りました。十三仏像が祀られています。十三の仏は閻魔大王を初め冥途の裁判官です。①初七日は不動明王②二十七日は釈迦如来③三十七日は文殊菩薩④四十七日は普賢菩薩⑤五十七日は地蔵菩薩⑥六十七日は弥勒菩薩⑦七十七日は薬師如来⑧百日は観音菩薩⑨一周忌は勢至菩薩⑩三回忌は阿弥陀如来⑪七回忌は阿閦如来⑫十三回忌は大日如来⑬三十三回忌は虚空蔵菩薩が審理を担当します。

そしてそれぞれの石仏を拝見しました、庚申塔も綺麗に残されていて多摩川の氾濫を供養する為に寛文12年(1672)に造立されました。

11時2分に十寄神社に着きました。正平13年(1358)に矢口の渡しで討ち死にした新田義興の家来衆を祀っています。古くは十騎明神、十騎社、とよよせ社と呼ばれていました。社殿の後の榎がある古墳が家来衆の墓と伝わっています。

11時15分頃、本日のメインの一つである新田神社に着きました。新田義興は父の新田義貞の次男で父の死後も南朝の有力武将でしたが正平13年(1358)に武蔵野合戦の後に矢口の渡しで舟に乗ったところを船頭が仕掛けた穴により水中に没した所を江戸氏の軍勢により攻撃され自刃しました。その後、義興の怨霊である雷電の怪奇が起こり往来の人を悩ませたので義興を埋葬した塚に社を造立したのが新田神社です。入口横には絵と文章で新田義興の事が解りやすく説明されています。

欅の御神木は樹齢約700年とありその奥に本殿が見えます。石の卓球台はアートディレクターの浅葉克己さんの作品で寄進されたものです。

LOVE神社も浅葉さんの寄進で義興と少将の局にあやかり縁結びの神様を表現しています。

矢口新田神社之碑、御塚、足利持氏の家臣である畠山一族や子孫が参拝すると唸るという狛犬を見学しました。御塚後方に生えている篠竹で厄除け開運邪鬼退散の破魔矢は平賀源内奉製として売られていて買った人もいました。

10分程歩き頓兵衛地蔵に着きました。頓兵衛とは平賀源内作の浄瑠璃「神霊矢口渡」の登場する船頭の名です。悪役でありますが後に後悔して地蔵を建て義興の冥福を祈ったと伝えられています。

12時少し前に道路沿いに妙蓮塚三体地蔵がありました。

義興の家臣の土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の三人は多摩川の対岸で討ち死にした、この三人が祀られているとの伝承の三体地蔵です。

7~8分歩き真言宗智山派円満寺蓮光院の武家屋敷を見ました。江戸末期の建築で池田家下屋敷を馬込中丸の河原氏が自宅の門としていましたが昭和10年に寺に寄進したとの事です。堂々とした造りを鑑賞しました。

下丸子駅の近くのフアミリーレストランで昼食を取りました。

午後は13時10分のスタートです。13時14分に光明寺道標がありました。正面は「善道大師霊場」「是より右へ三丁」「うの木光明寺」右側面に「目黒さる町・丸子わたしふちゅう」「左池上・大もり・品川・はねだ」左側面「新田古川薬師・六江川・川崎大師・平間わたし」と道標は示しています。今まで巡ったところが懐かしくこれから私たちが向かう所も示されていました。

灰塚は原田家邸内のマテバ椎の巨木の下に新田義興を荼毘に伏した灰を集めて祀った塚で荼毘所とも云われています。古くは一本の大木でしたが江戸時代に伐採され幹の下部から八本の枝が分かれていて樹高15メートル樹齢約300年です。

六郷用水の南北分け跡碑を見て浄土宗光明寺へ入りました。天平年間(729~49)に行基が開き弘仁年間(810~24)に空海が再興しその後に浄土宗西山派に改め28代住職は石田三成の子であったので将軍家から迫害をうけたとの事です。千姫の葬儀をした玄巻上人が35代住職となり千姫の位牌や五代将軍綱吉の生母である桂昌院の位牌を安置したとの事です。

六脚門の山門や法然上人旅立の像や本堂を見ました。梵鐘は享保2年の物で新しい六角堂の釈迦如来像を拝見しました。

14時少し過ぎて東急下丸子駅から沼部駅まで電車に乗り多摩川に出て丸子の渡し跡を見ました。

真言宗智山派の東光院に入りました。開山は元禄3年(1690)です。

勇士の碑や松井岩根書の白井中尉の墓を見ました。

出ると中原街道があり六郷用水も見る事が出来ました。亀が甲羅干しをしていました。鴨もいました。

すぐに真言宗智山派密蔵院に入りました。こちらには石像群がありました。

不動堂には平成30年再建で新しく不動三尊堂も30年建立で 印象に残りました。

太田図書館の前の道を通り嶺の御嶽神社へ急ぎました。15時を少し過ぎていましたが嶺村の鎮守でこの神社に三度参拝すると木曽御嶽山へ一度行った事になるそうです。大きな狛犬は慶応3年に造立で大きく堂々としていました。延命地蔵は昭和3年の大水害で西宮市の夙川の土手にあったとされ地蔵で傍にいた数人の女子が助かったという地蔵です。社の霊神も平成20年に復元され翌年21年には御嶽山信仰の石碑や講碑なども整備されました。

4時13分に御嶽山駅で解散しました。久しぶりに4時を回りましたが皆さま、お疲れさまでした

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江戸名所巡り 4部4回 蒲田・羽田界隈を巡る

京浜急行、梅屋敷駅に10時に集合し10時10分頃スタートしました

10分位で蒲田の梅屋敷公園に着きました。文政年間(1818~30)に東海道筋で「和散中」という道中常備薬を商っていた山本久三郎が梅の銘木で梅園を作り茶店を開き蒲田梅屋敷と呼ばれ約3000坪でした。

幕末、明治初期にこの場所で佐久間象山、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが国家を論じたという事です。

すぐ傍に椿神社がありました。祭神は猿田彦命です。風邪や喘息で苦しむ人が額堂にある麻の紐を首に巻くと治癒すると信じられていました。草鞋を奉納すると足の病気が平癒するともいわれました。

10時半頃に日蓮宗円頓寺に入りました。小田原合戦で討ち死にした行方直清の霊を祀る為に弟の日芸が建立しました。

隣の栄林寺も本門寺末です。こちらの開山供養塔は寛永3年(1626)造立で角柱が2石になっているところが非常に珍しいとの事です。

10時40分頃に別当寺が栄林寺の稗田(ヒエタ)神社に入りました。平安時代に編纂された「延喜式」に記載されている古社です。鳥居の前に神橋がありました。

三十番神社や境内社を見て廻りしだれ桜の下で記念写真を撮りました。

呑川の桜が満開です。稗田神社から15分位歩き松竹橋のレプリカを渡り松竹キネマ蒲田撮影所跡に着きました。大正9年に松竹は映画産業に本格参入しました。ビルの地下一階には撮影所の模型があり男優、女優の大部屋などもあり興味深々で見学しました。

約3万平方(約9千坪)で開設し約17年間、1200本余の作品が世に出されたとの事です。その後の昭和11年に神奈川県大船へと移転しました。

11時30分頃、日蓮宗行方山妙安寺に入りました。この地の城主である行方修理亮義安の夫人が夫の討死後に庵を結びましたが天正17年(1589)に日現が寺に改めました。妙安尼供養塔を拝見しました。

4月8日はお釈迦様がお生まれになられた日で花祭りの用意がされていました。甘茶を三杯づつ御かけしてお詣りしました。

すぐ傍の蒲田八幡神社は旧蒲田村の鎮守で宇佐八幡を勧請した古社です。

京浜急行蒲田駅から穴守稲荷駅まで電車に乗りました。昼食の時間ですので駅のすぐ傍の「さぬきうどん屋」や中華料理定食で頂きました

12時50分頃に穴守稲荷神社の赤い鳥居を潜りました。

羽田猟師町の名主であった鈴木弥五右衛門が開墾していましたが文化元年(1804)に海が荒れ堤防が決壊しました。そこで稲荷神社を祀ると海が静まり堤防の穴を護るという意味で穴守稲荷と名が付いたとの事です。

明治には海水浴や潮干狩り、温泉旅館や芸者の置屋まである観光地となりました。京浜急行が開通し関東屈指の流行祠となりました。

大正6年に日本飛行学校が開設され昭和6年には日本初の国営民間航空専門空港東京飛行場(羽田飛行場)が開港しました。

昭和20年9月に進駐軍による48時間以内に空港が接収され穴守稲荷社は現在地に強制移転され大鳥居だけが残りました。

稲荷山の細い階段を登り頂上でお詣りし違う階段を下り御神砂場へ急ぎました。老人が漁から帰ったら魚が無くなり湿った砂だけがあり狐の仕業と解り狐を捕らえましたが老人は哀れに思い逃がしてやりました。その後、老人の漁は常に大漁となり多くの魚と湿った砂が魚籠に入るようになったそうです。この砂を庭に撒くと先客万来となり老人は長者となりました。私たちも、ありがたく御神砂を頂きました。

羽田六丁目を少し歩くと玉川弁天がありました。社殿の中をのぞくと綺麗な弁天様がいらっしゃいました。

13時20分頃少し歩くと旧穴守稲荷神社の一の鳥居だけが立っていました。GHQが強制撤去させようとしましたが作業員が怪我をしたり工事担当者が病死したりして「穴守稲荷の祟り」と噂になり撤去を断念しましたが後日の空港拡張工事の時に現在地に移転しました。

現在は平和を祈る鳥居になっています。

空港入口というバス停が直ぐ傍にあり蒲田行のバスに3~4分乗り真言宗智山派の自性院を訪れました。立派な山門を入り本堂、牛頭天王堂、不動堂へお詣りしました。

隣には羽田神社がありました。元は自性院の牛頭天王社が発展し羽田村の総鎮守となりました。江戸時代には将軍家、島津家、藤堂家などが信仰しました。境内には羽田富士塚や夫婦擬宝珠がありました。

正蔵院は真言宗智山派で石造物がきれいに残されていました。

14時26分頃、再びバスに乗り六郷水門に向かいました。六郷用水の多摩川への排水口として昭和6年に六郷水門が完成しました。当時の金額で約7万5000円かかり地元が4万5000円を負担したとの事です。レンガとコンクリート造りの如何にも頑丈そうな造りです。

桜並木がまだ美しく私たちをお楽しませてくれました。

しばらく歩き本日最後の訪問先である六郷八幡神社に着きました。梶原景時が建久2年(1191)に寄進した太鼓橋や源頼朝が奉納した手水石、力石を見ました。そして大田区の文化財の狛犬は六郷中町の人々が願主となり貞享2年(1685)に現世と来世の二世安泰を祈って奉納しました。太目で面白い顔つきで私たちを和ませてくれました。「白旗の杉」と呼ばれた樹齢約1000年の杉が大正11年に枯れましたがちやんと御神木として枯れた杉と石碑があるのには感動しました。現在の神木は夫婦楠です。

15時半すこし過ぎましたが本日の盛り沢山の行程を大変お疲れさまでした。


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後北条氏史跡を巡る

3月29日(土)、午前9時35分、参加者22名が小田原駅に集合しました。生憎の雨の日となりました。駅から5,6分、歩いた所に北条氏政の墓があります。小田原合戦の責任を取って自害した氏政と弟の氏照の墓が並んでありました。

北条早雲の銅像のある駅正面に戻り10時15分過ぎにマイクロバスに乗り込みました。15分位で国指定史跡の小田原城小峯御鐘ノ台堀切に着きました

天正18年(1590)、豊臣秀吉との合戦に備えて城と城下を土塁で囲って守備を固めた堀と土塁の一部が残っています。

マイクロバスで20分位で石垣山一夜城に着きました。一時間弱をかけてゆっくりと巡りました。秀吉が小田原攻めの本陣として築いた城で小田原城から約2・8キロで標高241メートルの山城です。本丸、二の丸、三の丸、井戸曲輪(淀君滞在)、東曲輪があり関東で最初の総石垣の城でした。

次の訪問先は箱根湯本の早雲寺です。後北条五代の墓がある寺です。予定より少し遅れて12時20分頃に到着しました。惣門の扁額は朝鮮通信使(金義信)の書です。

墓を見た後、北条幻庵作(早雲の三男)の枯山水の庭を端の方から拝見しました

30分近く見学し予定時刻が少しずつ遅くなったきました。

13時20分頃、日本百名城の一つである山中城に着きました。戦国末期に北条氏が築城し秀吉の来襲に備え堀や出丸を整備しましたが未完成のまま4千人で籠城しました、羽柴秀次、家康ら約7万人の攻撃を受け半日で落城しました。障子堀跡がしっかり見えていて皆で注目しました。三の丸跡には浄土宗宗閑寺がありました。こちらに城将の松田康長や副将の間宮康俊、豊臣方の一柳直末らの武将の墓がありました。 

武将姿の人と会いました。今日は松田康長の命日と言いながら奥に進んでいきました。城跡と標記されている側の道は旧東海道との事で一同が一瞬ですが佇んでみました。

13時50分に沼津の双葉寿司に向けてバスを走らせました。

旧東海道の松並木を見ながら本日の楽しみである昼食の双葉寿司に到着しました。食事の後に通りの店で沼津名物の干物などを買い15時半過ぎに同じ沼津市の興国寺城跡に急ぎました。

着いたのは16時を過ぎていました。初代の北条早雲の碑がありました。隣には最後の城主の天野康景の碑が建てられていました。穂見神社は安政の大地震による津波と塩害で凶作となり五穀豊穣を願い安政4年(1857)に甲斐国より農業神を勧請しました。

16時半頃から約1時間かけて伊豆の国市の韮山城跡へとバスを走らせました。土曜日の行楽日の為に道路は渋滞していました。江川邸の前でバスを降り平城の韮山城へ歩きました。小田原の合戦では北条氏康の四男である氏規を城主として100日間、防御をしましたが関東諸城の落城を知り家康に降伏しました。本丸と二の丸の間の堀切を見ながら本丸跡の階段を登りました。

バスで三島駅を目指す予定でしたが道路の渋滞から近くの伊豆箱根鉄道の韮山駅から三島駅まで行くことにしました。19時頃に三島駅より家路につきました。今回の旅で後北条氏の大きさを改めて認識しました。一日中、小雨の中での行程で皆様、大変お疲れ様でした。


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4部3回 洗足・池上界隈を巡る

3月11日(火)と15日(土)10時に東急池上線洗足池駅に集合しました。どちらとも曇り空の日でしたが、注目の回でしたので張り切って巡りました。

目の前に洗足池が広がっていましたがまずは日蓮宗妙福寺へと進みました。途中の右側に勝海舟別邸跡がありました。海舟は官軍の本陣が置かれていた池上本門寺に赴き西郷隆盛と会見しました。その際、通り掛かった洗足池の趣ある自然に感嘆し明治24年、自ら洗足軒と名付けた別邸を建築しました。

妙福寺の入口に「日蓮上人袈裟掛けの松」の説明版がありました。

広重の「名所江戸百景」に描かれていて現在の松は4代目ということです。次に勝海舟記念館を見学しました。火曜日は臨時の休館でしたが土曜日は15分位ですが一階と二階を見学しました、65歳以上は240円でした。

建物のすぐ側に勝海舟夫妻の墓がありました。海舟は明治32年に77歳で亡くなりましたが洗足池の池畔に葬るように遺言しました。水盤は榎本武揚や嘉納治五郎ら海舟と縁のあった友人、知人が同年に建立しました。石の花立は第16代徳川当主の徳川家達の寄進です。海舟は家達の養育係でもありました。

少し進むと西郷隆盛留魂詩碑がありました。西郷の三回忌の明治12年に海舟は私財を投じて建てたとの事です。

11時に千束池弁財天に詣りました。古来より千束池守護神として小島に祀られていいましたが長い年月水没しましたが昭和に人々の夢枕に弁財天が現れ昭和7年に市杵姫命を祭神として祀りました。

千束八幡神社は宇佐八幡を貞観2年(860)に勧請した古社です。承平5年(935)に平将門の乱で平定の為に藤原北家の出身である藤原忠方が鎮守府副将軍として乱を平定し畔に館を建て池上忠方と名乗りました。後の日蓮信徒の池上宗仲の先祖という事です。

名馬「池月像」が目を惹きました。頼朝が兵の参集を待つている時に突然現れた駿馬で体に白い斑点があり、池に映る月影のようであったので「池月」と命名されました。池をぐるりと廻り写真を撮影をしバス通りまで出ました。ここで少し早いですが昼食です、インドカレー、スパゲッティ、池の畔のテラスハウスでお弁当をいただく方もいました。12過ぎのバスに乗車し道々橋で降りました。

=午後の部=

道々橋のバス停に着いたのが12時半頃でした。道々橋は呑川に架かる橋です。修繕費負担の事で池上村と対立し一村を作り道々橋村としました。「トド(魚のボラ)の詰まり」から道々橋となりました。池上村との対立の結果、行き着いた橋という意味です。

橋を渡ってすぐに樹林寺がありました。日蓮宗で開山は詮了院日義で寛永6年(1629)の創建です。道々橋村には寺がありませんでした。棉屋の娘が江戸城将軍側室の「お万の方」の腰元となり、お万の方の協力で寛永6年に樹林寺が創建されたとの説明を聞きながら立派な門を潜りました。

又、すぐに道々橋八幡がありました。正保年間(1644~47)の創建です。

椋の樹は大田区の名木に指定されています。狛犬の尾が後方から見ると綺麗に二つに分かれていました。手洗舎は獅子の形をした吐水口です。

庚申堂の中に板碑と駒形庚申塔がありました。

12時50分頃に久ケ原出世観音にお詣りしました。赤椿と梅が咲いていました。明治の始めに築地の料亭、新喜楽の伊藤きんの約4000坪の別荘がありました。

明治の政財界人、文化人、特に伊藤博文、井上薫に贔屓にされました。伊藤博文が暗殺されるとその死を悲しみ出家して如意輪観音を祀る如意庵を建て菩提を弔いました。現在は久ケ原出世観音とされています。

3~4分で西部八幡神社で三号三角点を見てその菩提寺の安詳寺を訪ねました。

13時20分頃、池上二丁目に入りました。少し歩くと日本画家の伊東深水の画室跡の梅園を外から見ました。朝丘雪路の父で昭和47年に亡くなりました。

2~3分で日蓮聖人入滅地である本行寺へと入りました。日蓮宗長栄山本行寺です。日蓮は弘安5年(1282)9月に身延山から常陸国へ湯治へ向かう途中、池上宗仲の館に立ち寄り病状が悪化し10月13日に池上宗仲邸の仏間があった部屋で亡くなりました。その死の直前に柱に寄りかかり説教をした床の間の柱の一部が残されていて私たちも触れる事が出来ました。30センチ位の黒光りのツルツルの柱を撫でました。外に出ると日蓮が入滅した時に庭先の桜が旧暦1月にも関わらす花が咲いたと伝わつており「お会式(エシキ)の桜といいます。我々が眺めた日は3月でしたがちらほらと咲いていました。

日蓮が身延山から到着した翌日の波木実長あてに礼状を書いた時に使った「御硯井戸」がありました。又、荼毘にした時の灰と骨を安置した御灰堂がありました。

少し上に上がり階段が見えました。ここから本門寺の寺領です。

狩野探幽の墓は墨壺を模った墓塔でした。狩野派の中興の祖で幕府御用絵師でした。

すぐに朱塗りの塔で日蓮の荼毘所だった場所です。この宝塔は文政11年(1828)の日蓮550遠忌法会を記念して再建されました。

ここでホンモンジ苔の説明がありました。どの苔かよく解らなかったのですが日光の当たらない湿った所で銅板葺きの屋根の下や青銅の周辺で有毒な銅に耐えられる苔で多量の銅を蓄えてる苔とのことです。

宝塔から2~3分で紀伊徳川家墓所がありました。德川家は浄土宗と天台宗ですが紀州藩に限って日蓮宗です。日蓮宗に帰依した養珠院(お万の方)の感化によるものです。江戸藩邸で死亡した藩主の家族が葬られています。紀伊徳川家は家康の10男の頼宣を祖とする55万石の大名で頼宣の生母が「お万の方」なのです。

鐘楼に吊るされている鐘は戦後に鋳造されたものです。戦前の鐘は横に置かれています。

清正供養塔がりました。德川頼宣の室(夫人)である瑶林院が父の加藤清正の38年目の忌日である慶安2年(1649)6月14日に建立しました、本門寺最大の宝篋印塔です。

園盛院の墓を見ました。園盛院とは徳川秀忠の娘の千姫と徳川忠刻(タダトキ)との間に生まれた勝姫です。11歳で鳥取藩池田光政に嫁ぎました。その後、国替えにより初代岡山藩主となりました。大名の正室は江戸在中だったので生涯、江戸藩邸で過ごしました。

幸田家の墓の後方に立派な五重塔があります、慶長12年(1607)に徳川秀忠の乳母である「岡部の局」が秀忠の病気平癒の礼として造立しました。関東で存在する塔としては最古ということです。

沢山の墓の中で講師が選んだ中に河上玄斎の墓がありました。熊本藩士で長州に移り三条実美の護衛を務め元治元年(1864)に公武合体の重鎮である佐久間象山を京都で暗殺しました。

力道山の墓は少し離れた奥の広い敷地にありました。大正13年、日本統治下の朝鮮に生まれ二所ノ関部屋に入門し関脇に昇進しましたが昭和25年に廃業しました。民族の壁で大関に昇進できなかったからともいわれています。渡米しプロレスを学び日本プロレスを設立し全国的ブームを起こしますが暴力団員との喧嘩となり怪我をして38歳の短い生涯でしたが今も多くの人の記憶に残っています。

14時50分頃に着いた万両塚は広々とした所にありました。紀伊徳川頼宣の娘で池田太守少将松平光仲の室で家康の孫にあたります。生涯、蛇が大嫌いで没後も蛇を嫌って二重の堀を施した墓域が広がっていました。建設費用が一万両かかったので「万両塚」と呼ばれています。

大東亜戦争後のシンガポールのチヤンギー刑務所でBC級戦犯129名が処刑されました。日栄院住職の田中氏(教論師として死刑に立ち会う)が中心となり建立しました。

大堂を拝し仁王門を出て加藤清正が寄進した石段を降り本阿弥光悦の書である総門を出ました。普通の人が参拝する反対の裏から表へと巡りました。

万屋酒店は明治8年に建設された町屋建築で店先に荷車や人力車が寄せられる工夫がされたいました。

最後に寄った店は少し歩いて着いた浅野屋で宝暦2年(1752)創業の和菓子屋さんに寄りました。小さな店構えで種類も葛餅がメインです。私たちのグループ15名が詰めかけるとすぐに無くなってしまう程でした。仕方なく小さなサイズを求めて家で頂くと黒密と黄な粉とは葛餅に絡んで絶品の江戸の味でした。15日土曜日は店が閉まっていて池田屋など大きな店で求めました。

みなさま、本日も大変お疲れさまでした。

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江戸名所巡り4部2回。小山・荏原界隈を巡る

令和7年2月11日(火)、15日(土),どちらも晴れの暖かい日差しの中、東急目黒線不動前駅を10時過ぎに出発しました。すぐ近くに最初の訪問先の桐ケ谷氷川神社がありました。神社が経営した氷川幼稚園の名残のコンクリートの滑り台が道に向かって二本ありました。

その先にある鳥居を潜りました。狛犬は二体とも子と一緒にいる子持ち狛犬でした。境内を進むと幕末の勤皇の志士たちが御殿山の料亭である観桜館の庭で鉄砲の練習をした時に標的にした石がありました。弾丸による凹があります。

天保13年(1842)の立派な鳥居を見上げて別当寺の天台宗安楽寺へと進みました。門柱の上に仁王像が立っているのに驚きながら入りました。

まず連理塚を見ながら説明を聞きました。平井権八と吉原の遊女小紫の塚は、唐の玄宗と楊貴妃の悲劇を詠んだ白居易の「天にあっては比翼の鳥,地にあっては連理の枝」の長恨歌から来ている事を知りました。小紫に会う為の金を作る為に殺人や追剥をし鈴ヶ森で磔になり小紫は墓前で自害した悲話は歌舞伎となり白井権八・小紫の話となりました。

塩掛け地蔵の足は塩で溶けていました。又,青面金剛庚申塔や馬頭観音供養塔などを鑑賞しました。

10分位歩くと享保12年(1727)造立の子別れ地蔵があり、これは子供に先立たれた親がその亡骸を見送った場所なのです。

1、2分で旧中原街道供養塔がありました。堂の中に4基(地蔵2基と馬頭観音と聖観音)が安置されていました。

中原街道とは虎の門を起点をして赤羽橋、聖坂、五反田、平塚橋、旗の台、千束池、丸子で多摩川を渡り小杉、瀬谷、寒川、中原で東海道に合流します。德川家康も駿府までの往来にこの道を使ったとの事です。通りの向かい側に大きな建物の桐ケ谷斎場がありました。桐ケ谷村霊源寺の境内に荼毘所があり、当初は芝三田の長松寺にあったが德川家光の頃に当地に移されました。

通りのこちら側には浄土宗霊源寺がありました。戦国時代にはこの辺りは戦場になり江戸の初期に浄土宗の僧である霊源和尚が遺体を集めて供養堂を建立したのが寺の始まりです。

直ぐに浄土宗専修寺に入りました。増上寺末で元は赤坂にあり西五反田に移り最近現在地に移ったとの事です。東京大空襲で本尊が焼失し市原市の天台宗の光明寺から阿弥陀如来三尊を迎えたのは中尊の胎内にある永正5年(1508)の銘から元は市川市正福寺に安置されていた事が判明しました。

庭の盆梅に注目しながら進むと庚申塔など石仏が並び興味深く拝見しました。

4~5分で法華宗陣門派長応寺に入りました。立派な山門は昭和4年建築の四脚門です。

江戸中期に住職が夢中に不動明王尊がある夢を3回続けてみたので境内を掘ると不動明王像が出現し祀ったのが「土中出現不動尊」です。お堂の中も写真で撮りました。

ザクロの紋の水盤や寛永寺の森氏の寄進した灯籠を見ました、墓地では西郷(ニシゴオリ)局の五輪塔を見ました。

4~5分で孟宗竹栽培記念碑がありました。築地の廻船問屋の山路治兵衛は薩摩藩邸の庭から鉢植え用として数株入手し植えたのが始まりと云います。数年後には竹林から筍が取れるようになり近隣の農家に栽培を進め広まったとの事です。「櫓も楫も弥陀にまかせて雪見哉 釈竹翁」の辞世の句が彫られています。

4~5分で京極稲荷がありました。江戸時代には讃岐丸亀藩5万2千石の下屋敷にあった所の屋敷神で明治維新の時に地元に譲りました。東京大空襲でこの辺りは焦土となりましたが大神輿が焼失を免れたのは稲荷神に御加護と信仰が続いています。

スーパの隣に朝日地蔵がります、江戸中期の寛文7年(1667)に戸越村の念仏講中の16人が造立した物で安産・子育て。厄除けの御利益がある地蔵として信仰されています。

日蓮宗朗惺寺は4分位にありました。池上本門寺十一世の日惺上人は徳川家康より江戸市中5ケ所に約1万坪の土地を拝領し5ケ寺を開きその内の一つが当寺です。本堂は昭和28年の耐震建築で少しモダンといえる建築物です。本堂脇に満州開拓団殉難碑が建てられています。昭和18年に旧満州国興安総省(モンゴル自冶区)に渡った武蔵小山商店街有志の1039人の内、800人が匪賊の襲撃などで死亡しかろうじて帰国した人々により13回忌に造立されました。

すこし奥の庚申塔や鳥塚を拝見しました。12時半頃に武蔵小山商店街で昼食を取りました。

八幡通りを進むと1時頃に三谷(サンヤ)八幡宮に着きました。1700年頃に宗教上の軋轢により小山八幡宮から分社し八幡神像のある三谷の出世稲荷境内に移し旧小谷村三谷の鎮守としました。社殿は昭和32年に再建され、白梅が咲き始めていました

金山地蔵堂には小山村の旧家である石井・伊藤家が九品仏の浄真寺に願掛けをし成就したので地蔵菩薩を安置しました。

10分位歩き小さな鳥居があり説明版の平塚の碑とありました。永保3年(1983)の後三年の役の際、朝廷の許しを得ずに苦戦を強いられている兄の源義家を助け乱を平定した新羅三郎義光が出羽国から帰途の途中、当地で盗賊に襲われ多くに将兵が死亡し平塚村の住民が手厚く葬り慰霊の塚を築いました。その後に塚の存在は忘れられたが戦後の道路整地の折の多くの甲冑や刀剣が出てきたので供養塚を築きました。

江戸時代には「妙見社」と呼ばれた鏑木氏の氏神である葛原神社がありました。葛原とは葛原親王(桓武天皇の第三皇子)に由来しています。妙見菩薩を祀っていますので仏教と関係が深い菩提樹が植えられていて樹齢約150年と伝わり勢いがとても良いとのことです。

少し歩き小山八幡に着きました。この辺りは古山村池の谷と呼ばれていたので池の谷八幡とも呼ばれていました。樹齢約200年の椎の樹が枝を広げていました。

社殿は昭和13年の造営で立派でした。哲学者の散歩道を通り隣の日蓮宗摩耶寺に入りました。摩耶寺は延宝6年(1678)の木造の摩耶夫人立像が安置されています。白梅は枝ぶりよく咲いていました。

14時頃、旗の庚申塔の前を通りました。寛文5年(1665)に造立された庚申塔には珍しく「南無妙法蓮華経」の髭題目が正面に彫られています、旧中延村の住民のほとんどが日蓮宗の檀徒だったという事です。

木霊稲荷神社の傍に中原街道高札場跡がありました、

15分位で旗ケ岡八幡に着きました。長元3年(1030)に上総・下総で起こった平忠常の乱を鎮圧する為に朝命を奉じた甲斐守源頼信は追討に行く時、この地で一族郎党と宿営し霊威を感じ氏神である八幡大神に祈願し高台に源氏の白旗をなびかせ武威を高めたので旗ケ岡八幡となりました。

元治元年(1864)中延村の竹屋吉治郎が奉納した駒引き猿の図の大絵馬は社務所二階に展示され皆で見せていただきました。

日蓮宗法蓮寺は本日最後の訪問先です。この地の豪族である荏原左衛門義宗の末子で日蓮上人の九老僧の一人だある朗慶が文永年間(1264~75)に居館に開きました。又、将軍家斉の時に鷹狩に訪れ住職の日詮と相撲を取り上人が手加減をせずに勝ったので家斉から賞されたとの話があります。

2月とはいえ、とても天気の良い日に急な坂も無く白梅と紅梅を見ながらの歩きを楽しみ、3時より早く終えることができました。

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江戸名所巡り 4部1回 五反田・大崎界隈を巡る

令和7年が開けました。江戸名所巡りは、いよいよ最終の第4部の始まりの回です。10時少し過ぎてから都営浅草線の高輪台駅をスタートしました。

6~7分で袖が崎神社に着きました。平安時代に京都から稲荷大明神を勧請したのが始まりで室町時代に神明社を、江戸元禄時代に天満宮をその後、塩釜大神、厳島大神が合祀されました。仙台藩伊達家などの下屋敷や旗本の屋敷が多くあったので武士階級の人々に崇敬されました。

すぐそばの日蓮宗妙建山本立寺に入りました。まず地蔵堂を見ました。寺の境内に元禄時代の三体の地蔵が埋もれていて掘り出し供養をすると病気が治ったという逸話が残っています。戦災で焼失し復元したのは中央の一体だけで宝元禄6年(1693)の物です。左は普賢菩薩で元禄11年(1698)、右は聖観音で元禄7年(1694)です。

本堂までの参道を歩くと本立寺に棲む生き物たちと猫と蛙に注意との立看板が目につきました。そして奥に見えてきた本堂の形に驚きました。二度と焼かれないようにと昭和41年にコンクリート造りの六角形の建築物です。これは教会仕様で内部はすべて椅子席なのです。

墓地に入ってすぐの場所に山下家の五輪塔があり、落語家の柳家金語楼の墓です。明治34年に芝の葉茶屋の山下園の三男として生まれ昭和47年に71歳で亡くなりました。

通りに戻ると相生坂の説明版がありました。中原街道に合流した場所で三叉路になっているでしようと講師の説明がありました。

道路に面して鳥居が立っている雉子神社がありました。文明年間(1469~87)の創建で大鳥大明神と称していましたが徳川家光が鷹狩の折に白雉が神社に逃げ込んだ事から「雉子の宮」と呼ぶように命じたとの事です。コンクリートの階段を上がりビルの中に入った所に拝殿があり屋根には雉子が留まっています。

4、5分で11時少し前に天台宗慈光院宝塔寺に入りました。立派な筋塀と山門、松の雪吊に寺の品格を感じました。

15~6分で浄土宗本願寺に着きました。増上寺下屋敷支院(隠居寺)として寛文元年(1661)に現在地に移り、この眺めの良い所で住職が余生を過ごしたのだと説明がありました。コンクリート造りの本堂ですが天女の装飾、唐獅子、羅漢などを見上げました。

隣には浄土宗正福院常光寺がありました。慶應義塾の創立者福沢諭吉の希望で、この地を墓地と決めて葬られました。昭和52年に福沢家の意向により麻布の善福寺に墓は移されました。又、入口には慶應義塾幼稚舎の創立者である和田義朗の碑がありました。2分位で浄土宗西山派宝蔵院の前に差し掛かりました。西山派は関東ではこの寺のみです。笹竜胆の紋は住職の鈴木家の紋との事でした

11時30分頃に池田山公園に入りました。備前国岡山藩池田家の下屋敷が置かれた事により池田山と呼ばれました、大名庭園の面影が残り池に石橋がかかり雪吊の木も数本あり手洗い休憩を取りながら暫く風景を楽しみました。インドネシア大使館を過ぎると「ネムの木の庭公園」がありました。

上皇后美智子様の生家である正田家の邸宅があった場所です。上皇后さまが高校生の時に読まれた「ねむの木の子守歌」の「合歓の木」が残されていました。作詞・著作権は日本肢体不自由児協会に下賜され「ねむの木賞」を制定したとの事です。

坂道を降りて五反田駅周辺で50分の自由昼食を取りました。

昼食後、山手線で一駅の大崎駅に移動しました。午後は大崎駅から歩き始めました。13時15分頃に天台宗観音寺に入りました。山門を潜ると立派な庚申塔を見ました。延宝5年(1677)居木村の名主である松原氏ら約80名の名が刻まれており女性の名もあります。松原家の墓にも参拝し家紋を興味深く眺めました。

13時40分頃に隣に居木神社に着きました。寛文年間(1661~73、目黒川の氾濫の為に現在地の高台に移りました。最初に富士塚を見ながら石段を上がりました。しだれ白梅が咲き始めていました。土曜日は新年のお祭りが催されていて出店や参拝客で賑やかでした。

大崎1丁目の角に芳水小学校がありました。大正2年に明電舎が大崎町に移転した時に大崎町には小学校が2校しかなく従業員の子供が入学すると負担が掛かる事を案じて明電舎創立者の重宗芳水が新たに学校を建て町に寄付しました。

20分位あるき貴船神社に着きました。創建は飛鳥時代ですが荏原神社の移転でその跡地に残されました。社殿は昭和42年の再建です。文政11年(1828)の道標には「西めぐろ」は読めました。布袋像はとても大きく国際自動車の創立者である波多野氏が建立した物を現在地に移しました。

三つ木通りを行き有名な戸越銀座の通りを歩きました。

中程を左に入り戸越八幡神社に入りました。天文年間(1532~55)に鎮座しました。社殿の天井絵の桜が見ものという事で手を合わせた後に覗き込みました。神楽殿、狛犬、神輿を見た後に奥の神木である樹齢約250年の「ケンポナシ」を見ました。冬で枝だけなのでイメージする事が難しく、実は小さい球形で甘みがあるとの事です。

隣接する別当寺の浄土宗行慶寺に入り「旅立の法然像」を通り、苔むした手水鉢が目に着きました。馬頭観音の憤怒の形相に注目して拝見しました。蠟梅の黄が目立ち香ってきました。

14時50分頃に文庫の森公園に入りました。江戸時代に肥後熊本藩の屋敷でしたが明治に三井家の所有になり三井文庫が戦後の財閥解体により昭和22年に国文学研究資料館となりました。

講師からこの公園は近隣住民の避難所となる為に周囲を囲むフエンスが無く何処からでも出入りできるようにしていると説明がありました。

すぐ近くの戸越公園に入りました。と熊本藩54万石細川家の屋敷跡です。東海道の風景を模した庭園を造りました。その後、持ち主の藩が変わり明治維新後は三井家が所有しましたが荏原町に寄付されました。薬医門もすばらしく江戸時代の細川家に思いを馳せる事ができました。

最後に冠木門を出て3時頃に戸越公園駅で解散となりました。本日は急な坂道があり皆様、大変お疲れさまでした。

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3部・16回。喜多見・鎌田界隈を巡る


12月10日(火)、14日(土)、両日ともに冬晴れの気持ちの良い日に小田急線成城学園前駅に集合し直ぐにバスで治太夫掘公園まで行き歩き始めました。旧今川家臣で武蔵国稲毛領と川崎領の代官であった小泉治太夫が幕命により開墾した灌漑用水です。慶長2年(1597)から15年かけて完成しました。喜多見・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・等々力・尾山台・奥沢などを通過して六郷に至るので六郷用水と云われました。

現在の清い流れに感動しながら進みました。民家園の門を入り旧谷岡家住宅表門を見学しました。火の見櫓、名主の家や土蔵、穀蔵や釣井戸など珍しい物を見学し名主の家の客の為に造られた庭も覗きました

。40分から50分ゆっくり見学して喜多見氷川神社へと入っていきました。天平12年(740)の創建と伝わっています。洪水があり永禄13年(1570)に江戸頼忠が再興しました。後に徳川家光より10石2斗余りの朱印が与えられました

。7~8分歩き浄土宗慶元寺に入りました。京都知恩院末との事でした。文治2年(1186)に江戸重長の氏寺として江戸城紅葉山に創建されました。源頼朝から武蔵国の大福長者と呼ばれた江戸氏も次第に衰え太田道灌に城を譲り一族は当地に移ったとの事です。山門の傍に江戸太郎重長の像があります。德川家康が江戸城に入ると江戸の姓を憚り喜多見と改姓しました。江戸氏の墓所を見学しました。

2~3分で第六天古墳がありました。現在は立て札の説明版だけですが松の大木があり多摩川を航行する舟の目印となっていましたが大正初期に伐採され明治神宮造営に用いられました。

須賀神社の前の道を通り5分位で稲荷山古墳が出現しました。直径7メートル高さ2メートルの円墳です。別名が「犬つなぎの古墳」と呼び生類憐みの令で喜多見氏が「お犬総支配役」だったのでこの辺りに犬小屋を作り古墳上に犬繋ぎの石があるとの事です。中野等に犬屋敷が設けられるとこの地は病犬を収容したとの事です。

12時25分、天台宗龍宝山知行院に着きました。本尊の薬師如来坐像は平安末期の作で寺紋は延暦寺の菊輪宝が許されています。

12時35分に宝寿院(光伝寺)に入りました。德川家光から7石2斗の朱印を受けています。ぐるりと巡り朝に出発した治太夫掘公園の案内前に戻りました。

バスに10分位乗り昼食場所の不二家レストランに入りました。これまで余りなかった洋食のレストランでした。

13時半頃から午後の部で鎌田を巡ります。吉祥院地蔵寺は新義真言宗智山派です。六地蔵は寛政5年(1690)の物です。亀は韓国の石像で大きな亀が珠を咥えています。

仙川沿いを歩き10分余りで大きなゴルフ練習場の影になりながら第六天社の鳥居と祠がありました。ここは大蔵砦跡で大永年間(1521~28)に京都から下った石井良寛が住んでいた場所です。

5~6分歩き大蔵氷川神社の石段を登りました。大蔵村の鎮守で江戸氏が勧請しました。社殿に参り境内社、庚申塔をみました。

すぐ傍にある清水氏の庭には「源義賢朝臣墳」と刻んだ石碑がありました。この人物こそ木曽義仲の父親ですが鎌倉の源義平や畠山重能らに討たれその時に子供であった駒王丸(木曽義仲)を捕らえ畠山重忠らは木曽の豪族に預けた経緯があります。清水氏は木曽義仲に子供である清水冠者義高の子孫との事で約40代続いた名家で家紋は笹竜胆です。

2時40分頃に本日最後に訪問する永安寺に入りました。大きな二本の銀杏が迎えてくれました。樹齢は約100年との事です。龍華樹は二階堂信濃守の孫である清仙上人が鎌倉にあった龍華樹と呼ばれた八重の桜を移植したとの事です。鎌倉公方の足利持氏は室町幕府と折り合いが悪く幕府の命で関東管領の上杉氏に攻めら鎌倉の永安寺で自害し葬られます。持氏の子供が第5台鎌倉公方となるが今川範忠との闘いで永安寺は焼失します。持氏の家臣であった二階堂信濃守の孫により鎌倉と同じ武蔵国中丸郷大蔵村に寺を建て持氏の法号である長寿院とし寺号を永安寺とした歴史があります。持氏の霊はこの桜により鎌倉を偲んでいるのでしようか。花の咲くころに訪れてみたいものです。

15時過ぎに二子玉川へ行くバスと成城学園に行くバス停で解散しました。これで「江戸名所巡り第3部」は終了しました。皆さま良いお歳をお迎えください。

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