江戸名所巡り 4部4回 蒲田・羽田界隈を巡る

京浜急行、梅屋敷駅に10時に集合し10時10分頃スタートしました

10分位で蒲田の梅屋敷公園に着きました。文政年間(1818~30)に東海道筋で「和散中」という道中常備薬を商っていた山本久三郎が梅の銘木で梅園を作り茶店を開き蒲田梅屋敷と呼ばれ約3000坪でした。

幕末、明治初期にこの場所で佐久間象山、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが国家を論じたという事です。

すぐ傍に椿神社がありました。祭神は猿田彦命です。風邪や喘息で苦しむ人が額堂にある麻の紐を首に巻くと治癒すると信じられていました。草鞋を奉納すると足の病気が平癒するともいわれました。

10時半頃に日蓮宗円頓寺に入りました。小田原合戦で討ち死にした行方直清の霊を祀る為に弟の日芸が建立しました。

隣の栄林寺も本門寺末です。こちらの開山供養塔は寛永3年(1626)造立で角柱が2石になっているところが非常に珍しいとの事です。

10時40分頃に別当寺が栄林寺の稗田(ヒエタ)神社に入りました。平安時代に編纂された「延喜式」に記載されている古社です。鳥居の前に神橋がありました。

三十番神社や境内社を見て廻りしだれ桜の下で記念写真を撮りました。

呑川の桜が満開です。稗田神社から15分位歩き松竹橋のレプリカを渡り松竹キネマ蒲田撮影所跡に着きました。大正9年に松竹は映画産業に本格参入しました。ビルの地下一階には撮影所の模型があり男優、女優の大部屋などもあり興味深々で見学しました。

約3万平方(約9千坪)で開設し約17年間、1200本余の作品が世に出されたとの事です。その後の昭和11年に神奈川県大船へと移転しました。

11時30分頃、日蓮宗行方山妙安寺に入りました。この地の城主である行方修理亮義安の夫人が夫の討死後に庵を結びましたが天正17年(1589)に日現が寺に改めました。妙安尼供養塔を拝見しました。

4月8日はお釈迦様がお生まれになられた日で花祭りの用意がされていました。甘茶を三杯づつ御かけしてお詣りしました。

すぐ傍の蒲田八幡神社は旧蒲田村の鎮守で宇佐八幡を勧請した古社です。

京浜急行蒲田駅から穴守稲荷駅まで電車に乗りました。昼食の時間ですので駅のすぐ傍の「さぬきうどん屋」や中華料理定食で頂きました

12時50分頃に穴守稲荷神社の赤い鳥居を潜りました。

羽田猟師町の名主であった鈴木弥五右衛門が開墾していましたが文化元年(1804)に海が荒れ堤防が決壊しました。そこで稲荷神社を祀ると海が静まり堤防の穴を護るという意味で穴守稲荷と名が付いたとの事です。

明治には海水浴や潮干狩り、温泉旅館や芸者の置屋まである観光地となりました。京浜急行が開通し関東屈指の流行祠となりました。

大正6年に日本飛行学校が開設され昭和6年には日本初の国営民間航空専門空港東京飛行場(羽田飛行場)が開港しました。

昭和20年9月に進駐軍による48時間以内に空港が接収され穴守稲荷社は現在地に強制移転され大鳥居だけが残りました。

稲荷山の細い階段を登り頂上でお詣りし違う階段を下り御神砂場へ急ぎました。老人が漁から帰ったら魚が無くなり湿った砂だけがあり狐の仕業と解り狐を捕らえましたが老人は哀れに思い逃がしてやりました。その後、老人の漁は常に大漁となり多くの魚と湿った砂が魚籠に入るようになったそうです。この砂を庭に撒くと先客万来となり老人は長者となりました。私たちも、ありがたく御神砂を頂きました。

羽田六丁目を少し歩くと玉川弁天がありました。社殿の中をのぞくと綺麗な弁天様がいらっしゃいました。

13時20分頃少し歩くと旧穴守稲荷神社の一の鳥居だけが立っていました。GHQが強制撤去させようとしましたが作業員が怪我をしたり工事担当者が病死したりして「穴守稲荷の祟り」と噂になり撤去を断念しましたが後日の空港拡張工事の時に現在地に移転しました。

現在は平和を祈る鳥居になっています。

空港入口というバス停が直ぐ傍にあり蒲田行のバスに3~4分乗り真言宗智山派の自性院を訪れました。立派な山門を入り本堂、牛頭天王堂、不動堂へお詣りしました。

隣には羽田神社がありました。元は自性院の牛頭天王社が発展し羽田村の総鎮守となりました。江戸時代には将軍家、島津家、藤堂家などが信仰しました。境内には羽田富士塚や夫婦擬宝珠がありました。

正蔵院は真言宗智山派で石造物がきれいに残されていました。

14時26分頃、再びバスに乗り六郷水門に向かいました。六郷用水の多摩川への排水口として昭和6年に六郷水門が完成しました。当時の金額で約7万5000円かかり地元が4万5000円を負担したとの事です。レンガとコンクリート造りの如何にも頑丈そうな造りです。

桜並木がまだ美しく私たちをお楽しませてくれました。

しばらく歩き本日最後の訪問先である六郷八幡神社に着きました。梶原景時が建久2年(1191)に寄進した太鼓橋や源頼朝が奉納した手水石、力石を見ました。そして大田区の文化財の狛犬は六郷中町の人々が願主となり貞享2年(1685)に現世と来世の二世安泰を祈って奉納しました。太目で面白い顔つきで私たちを和ませてくれました。「白旗の杉」と呼ばれた樹齢約1000年の杉が大正11年に枯れましたがちやんと御神木として枯れた杉と石碑があるのには感動しました。現在の神木は夫婦楠です。

15時半すこし過ぎましたが本日の盛り沢山の行程を大変お疲れさまでした。


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後北条氏史跡を巡る

3月29日(土)、午前9時35分、参加者22名が小田原駅に集合しました。生憎の雨の日となりました。駅から5,6分、歩いた所に北条氏政の墓があります。小田原合戦の責任を取って自害した氏政と弟の氏照の墓が並んでありました。

北条早雲の銅像のある駅正面に戻り10時15分過ぎにマイクロバスに乗り込みました。15分位で国指定史跡の小田原城小峯御鐘ノ台堀切に着きました

天正18年(1590)、豊臣秀吉との合戦に備えて城と城下を土塁で囲って守備を固めた堀と土塁の一部が残っています。

マイクロバスで20分位で石垣山一夜城に着きました。一時間弱をかけてゆっくりと巡りました。秀吉が小田原攻めの本陣として築いた城で小田原城から約2・8キロで標高241メートルの山城です。本丸、二の丸、三の丸、井戸曲輪(淀君滞在)、東曲輪があり関東で最初の総石垣の城でした。

次の訪問先は箱根湯本の早雲寺です。後北条五代の墓がある寺です。予定より少し遅れて12時20分頃に到着しました。惣門の扁額は朝鮮通信使(金義信)の書です。

墓を見た後、北条幻庵作(早雲の三男)の枯山水の庭を端の方から拝見しました

30分近く見学し予定時刻が少しずつ遅くなったきました。

13時20分頃、日本百名城の一つである山中城に着きました。戦国末期に北条氏が築城し秀吉の来襲に備え堀や出丸を整備しましたが未完成のまま4千人で籠城しました、羽柴秀次、家康ら約7万人の攻撃を受け半日で落城しました。障子堀跡がしっかり見えていて皆で注目しました。三の丸跡には浄土宗宗閑寺がありました。こちらに城将の松田康長や副将の間宮康俊、豊臣方の一柳直末らの武将の墓がありました。 

武将姿の人と会いました。今日は松田康長の命日と言いながら奥に進んでいきました。城跡と標記されている側の道は旧東海道との事で一同が一瞬ですが佇んでみました。

13時50分に沼津の双葉寿司に向けてバスを走らせました。

旧東海道の松並木を見ながら本日の楽しみである昼食の双葉寿司に到着しました。食事の後に通りの店で沼津名物の干物などを買い15時半過ぎに同じ沼津市の興国寺城跡に急ぎました。

着いたのは16時を過ぎていました。初代の北条早雲の碑がありました。隣には最後の城主の天野康景の碑が建てられていました。穂見神社は安政の大地震による津波と塩害で凶作となり五穀豊穣を願い安政4年(1857)に甲斐国より農業神を勧請しました。

16時半頃から約1時間かけて伊豆の国市の韮山城跡へとバスを走らせました。土曜日の行楽日の為に道路は渋滞していました。江川邸の前でバスを降り平城の韮山城へ歩きました。小田原の合戦では北条氏康の四男である氏規を城主として100日間、防御をしましたが関東諸城の落城を知り家康に降伏しました。本丸と二の丸の間の堀切を見ながら本丸跡の階段を登りました。

バスで三島駅を目指す予定でしたが道路の渋滞から近くの伊豆箱根鉄道の韮山駅から三島駅まで行くことにしました。19時頃に三島駅より家路につきました。今回の旅で後北条氏の大きさを改めて認識しました。一日中、小雨の中での行程で皆様、大変お疲れ様でした。


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4部3回 洗足・池上界隈を巡る

3月11日(火)と15日(土)10時に東急池上線洗足池駅に集合しました。どちらとも曇り空の日でしたが、注目の回でしたので張り切って巡りました。

目の前に洗足池が広がっていましたがまずは日蓮宗妙福寺へと進みました。途中の右側に勝海舟別邸跡がありました。海舟は官軍の本陣が置かれていた池上本門寺に赴き西郷隆盛と会見しました。その際、通り掛かった洗足池の趣ある自然に感嘆し明治24年、自ら洗足軒と名付けた別邸を建築しました。

妙福寺の入口に「日蓮上人袈裟掛けの松」の説明版がありました。

広重の「名所江戸百景」に描かれていて現在の松は4代目ということです。次に勝海舟記念館を見学しました。火曜日は臨時の休館でしたが土曜日は15分位ですが一階と二階を見学しました、65歳以上は240円でした。

建物のすぐ側に勝海舟夫妻の墓がありました。海舟は明治32年に77歳で亡くなりましたが洗足池の池畔に葬るように遺言しました。水盤は榎本武揚や嘉納治五郎ら海舟と縁のあった友人、知人が同年に建立しました。石の花立は第16代徳川当主の徳川家達の寄進です。海舟は家達の養育係でもありました。

少し進むと西郷隆盛留魂詩碑がありました。西郷の三回忌の明治12年に海舟は私財を投じて建てたとの事です。

11時に千束池弁財天に詣りました。古来より千束池守護神として小島に祀られていいましたが長い年月水没しましたが昭和に人々の夢枕に弁財天が現れ昭和7年に市杵姫命を祭神として祀りました。

千束八幡神社は宇佐八幡を貞観2年(860)に勧請した古社です。承平5年(935)に平将門の乱で平定の為に藤原北家の出身である藤原忠方が鎮守府副将軍として乱を平定し畔に館を建て池上忠方と名乗りました。後の日蓮信徒の池上宗仲の先祖という事です。

名馬「池月像」が目を惹きました。頼朝が兵の参集を待つている時に突然現れた駿馬で体に白い斑点があり、池に映る月影のようであったので「池月」と命名されました。池をぐるりと廻り写真を撮影をしバス通りまで出ました。ここで少し早いですが昼食です、インドカレー、スパゲッティ、池の畔のテラスハウスでお弁当をいただく方もいました。12過ぎのバスに乗車し道々橋で降りました。

=午後の部=

道々橋のバス停に着いたのが12時半頃でした。道々橋は呑川に架かる橋です。修繕費負担の事で池上村と対立し一村を作り道々橋村としました。「トド(魚のボラ)の詰まり」から道々橋となりました。池上村との対立の結果、行き着いた橋という意味です。

橋を渡ってすぐに樹林寺がありました。日蓮宗で開山は詮了院日義で寛永6年(1629)の創建です。道々橋村には寺がありませんでした。棉屋の娘が江戸城将軍側室の「お万の方」の腰元となり、お万の方の協力で寛永6年に樹林寺が創建されたとの説明を聞きながら立派な門を潜りました。

又、すぐに道々橋八幡がありました。正保年間(1644~47)の創建です。

椋の樹は大田区の名木に指定されています。狛犬の尾が後方から見ると綺麗に二つに分かれていました。手洗舎は獅子の形をした吐水口です。

庚申堂の中に板碑と駒形庚申塔がありました。

12時50分頃に久ケ原出世観音にお詣りしました。赤椿と梅が咲いていました。明治の始めに築地の料亭、新喜楽の伊藤きんの約4000坪の別荘がありました。

明治の政財界人、文化人、特に伊藤博文、井上薫に贔屓にされました。伊藤博文が暗殺されるとその死を悲しみ出家して如意輪観音を祀る如意庵を建て菩提を弔いました。現在は久ケ原出世観音とされています。

3~4分で西部八幡神社で三号三角点を見てその菩提寺の安詳寺を訪ねました。

13時20分頃、池上二丁目に入りました。少し歩くと日本画家の伊東深水の画室跡の梅園を外から見ました。朝丘雪路の父で昭和47年に亡くなりました。

2~3分で日蓮聖人入滅地である本行寺へと入りました。日蓮宗長栄山本行寺です。日蓮は弘安5年(1282)9月に身延山から常陸国へ湯治へ向かう途中、池上宗仲の館に立ち寄り病状が悪化し10月13日に池上宗仲邸の仏間があった部屋で亡くなりました。その死の直前に柱に寄りかかり説教をした床の間の柱の一部が残されていて私たちも触れる事が出来ました。30センチ位の黒光りのツルツルの柱を撫でました。外に出ると日蓮が入滅した時に庭先の桜が旧暦1月にも関わらす花が咲いたと伝わつており「お会式(エシキ)の桜といいます。我々が眺めた日は3月でしたがちらほらと咲いていました。

日蓮が身延山から到着した翌日の波木実長あてに礼状を書いた時に使った「御硯井戸」がありました。又、荼毘にした時の灰と骨を安置した御灰堂がありました。

少し上に上がり階段が見えました。ここから本門寺の寺領です。

狩野探幽の墓は墨壺を模った墓塔でした。狩野派の中興の祖で幕府御用絵師でした。

すぐに朱塗りの塔で日蓮の荼毘所だった場所です。この宝塔は文政11年(1828)の日蓮550遠忌法会を記念して再建されました。

ここでホンモンジ苔の説明がありました。どの苔かよく解らなかったのですが日光の当たらない湿った所で銅板葺きの屋根の下や青銅の周辺で有毒な銅に耐えられる苔で多量の銅を蓄えてる苔とのことです。

宝塔から2~3分で紀伊徳川家墓所がありました。德川家は浄土宗と天台宗ですが紀州藩に限って日蓮宗です。日蓮宗に帰依した養珠院(お万の方)の感化によるものです。江戸藩邸で死亡した藩主の家族が葬られています。紀伊徳川家は家康の10男の頼宣を祖とする55万石の大名で頼宣の生母が「お万の方」なのです。

鐘楼に吊るされている鐘は戦後に鋳造されたものです。戦前の鐘は横に置かれています。

清正供養塔がりました。德川頼宣の室(夫人)である瑶林院が父の加藤清正の38年目の忌日である慶安2年(1649)6月14日に建立しました、本門寺最大の宝篋印塔です。

園盛院の墓を見ました。園盛院とは徳川秀忠の娘の千姫と徳川忠刻(タダトキ)との間に生まれた勝姫です。11歳で鳥取藩池田光政に嫁ぎました。その後、国替えにより初代岡山藩主となりました。大名の正室は江戸在中だったので生涯、江戸藩邸で過ごしました。

幸田家の墓の後方に立派な五重塔があります、慶長12年(1607)に徳川秀忠の乳母である「岡部の局」が秀忠の病気平癒の礼として造立しました。関東で存在する塔としては最古ということです。

沢山の墓の中で講師が選んだ中に河上玄斎の墓がありました。熊本藩士で長州に移り三条実美の護衛を務め元治元年(1864)に公武合体の重鎮である佐久間象山を京都で暗殺しました。

力道山の墓は少し離れた奥の広い敷地にありました。大正13年、日本統治下の朝鮮に生まれ二所ノ関部屋に入門し関脇に昇進しましたが昭和25年に廃業しました。民族の壁で大関に昇進できなかったからともいわれています。渡米しプロレスを学び日本プロレスを設立し全国的ブームを起こしますが暴力団員との喧嘩となり怪我をして38歳の短い生涯でしたが今も多くの人の記憶に残っています。

14時50分頃に着いた万両塚は広々とした所にありました。紀伊徳川頼宣の娘で池田太守少将松平光仲の室で家康の孫にあたります。生涯、蛇が大嫌いで没後も蛇を嫌って二重の堀を施した墓域が広がっていました。建設費用が一万両かかったので「万両塚」と呼ばれています。

大東亜戦争後のシンガポールのチヤンギー刑務所でBC級戦犯129名が処刑されました。日栄院住職の田中氏(教論師として死刑に立ち会う)が中心となり建立しました。

大堂を拝し仁王門を出て加藤清正が寄進した石段を降り本阿弥光悦の書である総門を出ました。普通の人が参拝する反対の裏から表へと巡りました。

万屋酒店は明治8年に建設された町屋建築で店先に荷車や人力車が寄せられる工夫がされたいました。

最後に寄った店は少し歩いて着いた浅野屋で宝暦2年(1752)創業の和菓子屋さんに寄りました。小さな店構えで種類も葛餅がメインです。私たちのグループ15名が詰めかけるとすぐに無くなってしまう程でした。仕方なく小さなサイズを求めて家で頂くと黒密と黄な粉とは葛餅に絡んで絶品の江戸の味でした。15日土曜日は店が閉まっていて池田屋など大きな店で求めました。

みなさま、本日も大変お疲れさまでした。

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江戸名所巡り4部2回。小山・荏原界隈を巡る

令和7年2月11日(火)、15日(土),どちらも晴れの暖かい日差しの中、東急目黒線不動前駅を10時過ぎに出発しました。すぐ近くに最初の訪問先の桐ケ谷氷川神社がありました。神社が経営した氷川幼稚園の名残のコンクリートの滑り台が道に向かって二本ありました。

その先にある鳥居を潜りました。狛犬は二体とも子と一緒にいる子持ち狛犬でした。境内を進むと幕末の勤皇の志士たちが御殿山の料亭である観桜館の庭で鉄砲の練習をした時に標的にした石がありました。弾丸による凹があります。

天保13年(1842)の立派な鳥居を見上げて別当寺の天台宗安楽寺へと進みました。門柱の上に仁王像が立っているのに驚きながら入りました。

まず連理塚を見ながら説明を聞きました。平井権八と吉原の遊女小紫の塚は、唐の玄宗と楊貴妃の悲劇を詠んだ白居易の「天にあっては比翼の鳥,地にあっては連理の枝」の長恨歌から来ている事を知りました。小紫に会う為の金を作る為に殺人や追剥をし鈴ヶ森で磔になり小紫は墓前で自害した悲話は歌舞伎となり白井権八・小紫の話となりました。

塩掛け地蔵の足は塩で溶けていました。又,青面金剛庚申塔や馬頭観音供養塔などを鑑賞しました。

10分位歩くと享保12年(1727)造立の子別れ地蔵があり、これは子供に先立たれた親がその亡骸を見送った場所なのです。

1、2分で旧中原街道供養塔がありました。堂の中に4基(地蔵2基と馬頭観音と聖観音)が安置されていました。

中原街道とは虎の門を起点をして赤羽橋、聖坂、五反田、平塚橋、旗の台、千束池、丸子で多摩川を渡り小杉、瀬谷、寒川、中原で東海道に合流します。德川家康も駿府までの往来にこの道を使ったとの事です。通りの向かい側に大きな建物の桐ケ谷斎場がありました。桐ケ谷村霊源寺の境内に荼毘所があり、当初は芝三田の長松寺にあったが德川家光の頃に当地に移されました。

通りのこちら側には浄土宗霊源寺がありました。戦国時代にはこの辺りは戦場になり江戸の初期に浄土宗の僧である霊源和尚が遺体を集めて供養堂を建立したのが寺の始まりです。

直ぐに浄土宗専修寺に入りました。増上寺末で元は赤坂にあり西五反田に移り最近現在地に移ったとの事です。東京大空襲で本尊が焼失し市原市の天台宗の光明寺から阿弥陀如来三尊を迎えたのは中尊の胎内にある永正5年(1508)の銘から元は市川市正福寺に安置されていた事が判明しました。

庭の盆梅に注目しながら進むと庚申塔など石仏が並び興味深く拝見しました。

4~5分で法華宗陣門派長応寺に入りました。立派な山門は昭和4年建築の四脚門です。

江戸中期に住職が夢中に不動明王尊がある夢を3回続けてみたので境内を掘ると不動明王像が出現し祀ったのが「土中出現不動尊」です。お堂の中も写真で撮りました。

ザクロの紋の水盤や寛永寺の森氏の寄進した灯籠を見ました、墓地では西郷(ニシゴオリ)局の五輪塔を見ました。

4~5分で孟宗竹栽培記念碑がありました。築地の廻船問屋の山路治兵衛は薩摩藩邸の庭から鉢植え用として数株入手し植えたのが始まりと云います。数年後には竹林から筍が取れるようになり近隣の農家に栽培を進め広まったとの事です。「櫓も楫も弥陀にまかせて雪見哉 釈竹翁」の辞世の句が彫られています。

4~5分で京極稲荷がありました。江戸時代には讃岐丸亀藩5万2千石の下屋敷にあった所の屋敷神で明治維新の時に地元に譲りました。東京大空襲でこの辺りは焦土となりましたが大神輿が焼失を免れたのは稲荷神に御加護と信仰が続いています。

スーパの隣に朝日地蔵がります、江戸中期の寛文7年(1667)に戸越村の念仏講中の16人が造立した物で安産・子育て。厄除けの御利益がある地蔵として信仰されています。

日蓮宗朗惺寺は4分位にありました。池上本門寺十一世の日惺上人は徳川家康より江戸市中5ケ所に約1万坪の土地を拝領し5ケ寺を開きその内の一つが当寺です。本堂は昭和28年の耐震建築で少しモダンといえる建築物です。本堂脇に満州開拓団殉難碑が建てられています。昭和18年に旧満州国興安総省(モンゴル自冶区)に渡った武蔵小山商店街有志の1039人の内、800人が匪賊の襲撃などで死亡しかろうじて帰国した人々により13回忌に造立されました。

すこし奥の庚申塔や鳥塚を拝見しました。12時半頃に武蔵小山商店街で昼食を取りました。

八幡通りを進むと1時頃に三谷(サンヤ)八幡宮に着きました。1700年頃に宗教上の軋轢により小山八幡宮から分社し八幡神像のある三谷の出世稲荷境内に移し旧小谷村三谷の鎮守としました。社殿は昭和32年に再建され、白梅が咲き始めていました

金山地蔵堂には小山村の旧家である石井・伊藤家が九品仏の浄真寺に願掛けをし成就したので地蔵菩薩を安置しました。

10分位歩き小さな鳥居があり説明版の平塚の碑とありました。永保3年(1983)の後三年の役の際、朝廷の許しを得ずに苦戦を強いられている兄の源義家を助け乱を平定した新羅三郎義光が出羽国から帰途の途中、当地で盗賊に襲われ多くに将兵が死亡し平塚村の住民が手厚く葬り慰霊の塚を築いました。その後に塚の存在は忘れられたが戦後の道路整地の折の多くの甲冑や刀剣が出てきたので供養塚を築きました。

江戸時代には「妙見社」と呼ばれた鏑木氏の氏神である葛原神社がありました。葛原とは葛原親王(桓武天皇の第三皇子)に由来しています。妙見菩薩を祀っていますので仏教と関係が深い菩提樹が植えられていて樹齢約150年と伝わり勢いがとても良いとのことです。

少し歩き小山八幡に着きました。この辺りは古山村池の谷と呼ばれていたので池の谷八幡とも呼ばれていました。樹齢約200年の椎の樹が枝を広げていました。

社殿は昭和13年の造営で立派でした。哲学者の散歩道を通り隣の日蓮宗摩耶寺に入りました。摩耶寺は延宝6年(1678)の木造の摩耶夫人立像が安置されています。白梅は枝ぶりよく咲いていました。

14時頃、旗の庚申塔の前を通りました。寛文5年(1665)に造立された庚申塔には珍しく「南無妙法蓮華経」の髭題目が正面に彫られています、旧中延村の住民のほとんどが日蓮宗の檀徒だったという事です。

木霊稲荷神社の傍に中原街道高札場跡がありました、

15分位で旗ケ岡八幡に着きました。長元3年(1030)に上総・下総で起こった平忠常の乱を鎮圧する為に朝命を奉じた甲斐守源頼信は追討に行く時、この地で一族郎党と宿営し霊威を感じ氏神である八幡大神に祈願し高台に源氏の白旗をなびかせ武威を高めたので旗ケ岡八幡となりました。

元治元年(1864)中延村の竹屋吉治郎が奉納した駒引き猿の図の大絵馬は社務所二階に展示され皆で見せていただきました。

日蓮宗法蓮寺は本日最後の訪問先です。この地の豪族である荏原左衛門義宗の末子で日蓮上人の九老僧の一人だある朗慶が文永年間(1264~75)に居館に開きました。又、将軍家斉の時に鷹狩に訪れ住職の日詮と相撲を取り上人が手加減をせずに勝ったので家斉から賞されたとの話があります。

2月とはいえ、とても天気の良い日に急な坂も無く白梅と紅梅を見ながらの歩きを楽しみ、3時より早く終えることができました。

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江戸名所巡り 4部1回 五反田・大崎界隈を巡る

令和7年が開けました。江戸名所巡りは、いよいよ最終の第4部の始まりの回です。10時少し過ぎてから都営浅草線の高輪台駅をスタートしました。

6~7分で袖が崎神社に着きました。平安時代に京都から稲荷大明神を勧請したのが始まりで室町時代に神明社を、江戸元禄時代に天満宮をその後、塩釜大神、厳島大神が合祀されました。仙台藩伊達家などの下屋敷や旗本の屋敷が多くあったので武士階級の人々に崇敬されました。

すぐそばの日蓮宗妙建山本立寺に入りました。まず地蔵堂を見ました。寺の境内に元禄時代の三体の地蔵が埋もれていて掘り出し供養をすると病気が治ったという逸話が残っています。戦災で焼失し復元したのは中央の一体だけで宝元禄6年(1693)の物です。左は普賢菩薩で元禄11年(1698)、右は聖観音で元禄7年(1694)です。

本堂までの参道を歩くと本立寺に棲む生き物たちと猫と蛙に注意との立看板が目につきました。そして奥に見えてきた本堂の形に驚きました。二度と焼かれないようにと昭和41年にコンクリート造りの六角形の建築物です。これは教会仕様で内部はすべて椅子席なのです。

墓地に入ってすぐの場所に山下家の五輪塔があり、落語家の柳家金語楼の墓です。明治34年に芝の葉茶屋の山下園の三男として生まれ昭和47年に71歳で亡くなりました。

通りに戻ると相生坂の説明版がありました。中原街道に合流した場所で三叉路になっているでしようと講師の説明がありました。

道路に面して鳥居が立っている雉子神社がありました。文明年間(1469~87)の創建で大鳥大明神と称していましたが徳川家光が鷹狩の折に白雉が神社に逃げ込んだ事から「雉子の宮」と呼ぶように命じたとの事です。コンクリートの階段を上がりビルの中に入った所に拝殿があり屋根には雉子が留まっています。

4、5分で11時少し前に天台宗慈光院宝塔寺に入りました。立派な筋塀と山門、松の雪吊に寺の品格を感じました。

15~6分で浄土宗本願寺に着きました。増上寺下屋敷支院(隠居寺)として寛文元年(1661)に現在地に移り、この眺めの良い所で住職が余生を過ごしたのだと説明がありました。コンクリート造りの本堂ですが天女の装飾、唐獅子、羅漢などを見上げました。

隣には浄土宗正福院常光寺がありました。慶應義塾の創立者福沢諭吉の希望で、この地を墓地と決めて葬られました。昭和52年に福沢家の意向により麻布の善福寺に墓は移されました。又、入口には慶應義塾幼稚舎の創立者である和田義朗の碑がありました。2分位で浄土宗西山派宝蔵院の前に差し掛かりました。西山派は関東ではこの寺のみです。笹竜胆の紋は住職の鈴木家の紋との事でした

11時30分頃に池田山公園に入りました。備前国岡山藩池田家の下屋敷が置かれた事により池田山と呼ばれました、大名庭園の面影が残り池に石橋がかかり雪吊の木も数本あり手洗い休憩を取りながら暫く風景を楽しみました。インドネシア大使館を過ぎると「ネムの木の庭公園」がありました。

上皇后美智子様の生家である正田家の邸宅があった場所です。上皇后さまが高校生の時に読まれた「ねむの木の子守歌」の「合歓の木」が残されていました。作詞・著作権は日本肢体不自由児協会に下賜され「ねむの木賞」を制定したとの事です。

坂道を降りて五反田駅周辺で50分の自由昼食を取りました。

昼食後、山手線で一駅の大崎駅に移動しました。午後は大崎駅から歩き始めました。13時15分頃に天台宗観音寺に入りました。山門を潜ると立派な庚申塔を見ました。延宝5年(1677)居木村の名主である松原氏ら約80名の名が刻まれており女性の名もあります。松原家の墓にも参拝し家紋を興味深く眺めました。

13時40分頃に隣に居木神社に着きました。寛文年間(1661~73、目黒川の氾濫の為に現在地の高台に移りました。最初に富士塚を見ながら石段を上がりました。しだれ白梅が咲き始めていました。土曜日は新年のお祭りが催されていて出店や参拝客で賑やかでした。

大崎1丁目の角に芳水小学校がありました。大正2年に明電舎が大崎町に移転した時に大崎町には小学校が2校しかなく従業員の子供が入学すると負担が掛かる事を案じて明電舎創立者の重宗芳水が新たに学校を建て町に寄付しました。

20分位あるき貴船神社に着きました。創建は飛鳥時代ですが荏原神社の移転でその跡地に残されました。社殿は昭和42年の再建です。文政11年(1828)の道標には「西めぐろ」は読めました。布袋像はとても大きく国際自動車の創立者である波多野氏が建立した物を現在地に移しました。

三つ木通りを行き有名な戸越銀座の通りを歩きました。

中程を左に入り戸越八幡神社に入りました。天文年間(1532~55)に鎮座しました。社殿の天井絵の桜が見ものという事で手を合わせた後に覗き込みました。神楽殿、狛犬、神輿を見た後に奥の神木である樹齢約250年の「ケンポナシ」を見ました。冬で枝だけなのでイメージする事が難しく、実は小さい球形で甘みがあるとの事です。

隣接する別当寺の浄土宗行慶寺に入り「旅立の法然像」を通り、苔むした手水鉢が目に着きました。馬頭観音の憤怒の形相に注目して拝見しました。蠟梅の黄が目立ち香ってきました。

14時50分頃に文庫の森公園に入りました。江戸時代に肥後熊本藩の屋敷でしたが明治に三井家の所有になり三井文庫が戦後の財閥解体により昭和22年に国文学研究資料館となりました。

講師からこの公園は近隣住民の避難所となる為に周囲を囲むフエンスが無く何処からでも出入りできるようにしていると説明がありました。

すぐ近くの戸越公園に入りました。と熊本藩54万石細川家の屋敷跡です。東海道の風景を模した庭園を造りました。その後、持ち主の藩が変わり明治維新後は三井家が所有しましたが荏原町に寄付されました。薬医門もすばらしく江戸時代の細川家に思いを馳せる事ができました。

最後に冠木門を出て3時頃に戸越公園駅で解散となりました。本日は急な坂道があり皆様、大変お疲れさまでした。

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3部・16回。喜多見・鎌田界隈を巡る


12月10日(火)、14日(土)、両日ともに冬晴れの気持ちの良い日に小田急線成城学園前駅に集合し直ぐにバスで治太夫掘公園まで行き歩き始めました。旧今川家臣で武蔵国稲毛領と川崎領の代官であった小泉治太夫が幕命により開墾した灌漑用水です。慶長2年(1597)から15年かけて完成しました。喜多見・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・等々力・尾山台・奥沢などを通過して六郷に至るので六郷用水と云われました。

現在の清い流れに感動しながら進みました。民家園の門を入り旧谷岡家住宅表門を見学しました。火の見櫓、名主の家や土蔵、穀蔵や釣井戸など珍しい物を見学し名主の家の客の為に造られた庭も覗きました

。40分から50分ゆっくり見学して喜多見氷川神社へと入っていきました。天平12年(740)の創建と伝わっています。洪水があり永禄13年(1570)に江戸頼忠が再興しました。後に徳川家光より10石2斗余りの朱印が与えられました

。7~8分歩き浄土宗慶元寺に入りました。京都知恩院末との事でした。文治2年(1186)に江戸重長の氏寺として江戸城紅葉山に創建されました。源頼朝から武蔵国の大福長者と呼ばれた江戸氏も次第に衰え太田道灌に城を譲り一族は当地に移ったとの事です。山門の傍に江戸太郎重長の像があります。德川家康が江戸城に入ると江戸の姓を憚り喜多見と改姓しました。江戸氏の墓所を見学しました。

2~3分で第六天古墳がありました。現在は立て札の説明版だけですが松の大木があり多摩川を航行する舟の目印となっていましたが大正初期に伐採され明治神宮造営に用いられました。

須賀神社の前の道を通り5分位で稲荷山古墳が出現しました。直径7メートル高さ2メートルの円墳です。別名が「犬つなぎの古墳」と呼び生類憐みの令で喜多見氏が「お犬総支配役」だったのでこの辺りに犬小屋を作り古墳上に犬繋ぎの石があるとの事です。中野等に犬屋敷が設けられるとこの地は病犬を収容したとの事です。

12時25分、天台宗龍宝山知行院に着きました。本尊の薬師如来坐像は平安末期の作で寺紋は延暦寺の菊輪宝が許されています。

12時35分に宝寿院(光伝寺)に入りました。德川家光から7石2斗の朱印を受けています。ぐるりと巡り朝に出発した治太夫掘公園の案内前に戻りました。

バスに10分位乗り昼食場所の不二家レストランに入りました。これまで余りなかった洋食のレストランでした。

13時半頃から午後の部で鎌田を巡ります。吉祥院地蔵寺は新義真言宗智山派です。六地蔵は寛政5年(1690)の物です。亀は韓国の石像で大きな亀が珠を咥えています。

仙川沿いを歩き10分余りで大きなゴルフ練習場の影になりながら第六天社の鳥居と祠がありました。ここは大蔵砦跡で大永年間(1521~28)に京都から下った石井良寛が住んでいた場所です。

5~6分歩き大蔵氷川神社の石段を登りました。大蔵村の鎮守で江戸氏が勧請しました。社殿に参り境内社、庚申塔をみました。

すぐ傍にある清水氏の庭には「源義賢朝臣墳」と刻んだ石碑がありました。この人物こそ木曽義仲の父親ですが鎌倉の源義平や畠山重能らに討たれその時に子供であった駒王丸(木曽義仲)を捕らえ畠山重忠らは木曽の豪族に預けた経緯があります。清水氏は木曽義仲に子供である清水冠者義高の子孫との事で約40代続いた名家で家紋は笹竜胆です。

2時40分頃に本日最後に訪問する永安寺に入りました。大きな二本の銀杏が迎えてくれました。樹齢は約100年との事です。龍華樹は二階堂信濃守の孫である清仙上人が鎌倉にあった龍華樹と呼ばれた八重の桜を移植したとの事です。鎌倉公方の足利持氏は室町幕府と折り合いが悪く幕府の命で関東管領の上杉氏に攻めら鎌倉の永安寺で自害し葬られます。持氏の子供が第5台鎌倉公方となるが今川範忠との闘いで永安寺は焼失します。持氏の家臣であった二階堂信濃守の孫により鎌倉と同じ武蔵国中丸郷大蔵村に寺を建て持氏の法号である長寿院とし寺号を永安寺とした歴史があります。持氏の霊はこの桜により鎌倉を偲んでいるのでしようか。花の咲くころに訪れてみたいものです。

15時過ぎに二子玉川へ行くバスと成城学園に行くバス停で解散しました。これで「江戸名所巡り第3部」は終了しました。皆さま良いお歳をお迎えください。

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三部・15回。駒沢界隈を巡る

11月12日(火)と16日(土)の両日で31名の参加者と共に田園都市線駒沢大学前駅を10時に集合しました。

駅のすぐ傍の江戸名所図会にある八幡山宗円寺に入りました。開基が文保元年(1317)に没した北条左近太郎入道成願で北条氏の三鱗の紋が至る所にありました。魚板。魚鼓と呼ばれる物が下げられていました。これは時刻を知らせるもので口に丸いものを咥えている「あぶく」は煩悩珠と呼ばれ木槌で叩き煩悩を吐き出させるという意味があるのです。そして門前には「小学校発祥之地」の石柱が立っていましたが元はここも寺子屋があったのでしようと講師が話しました。

世田谷区上馬から野沢へと歩いていくと10分位で龍雲寺に着きました。元禄12年(1699)頃には野沢村が発展するとともに寺が必要となり名主の田中七万兵衛らが節外大和尚を招き開いたとの事です。大沢山とある立派な山門を潜り梵鐘や道標・地蔵・境内社を拝見しました。

6~7分位で本日のメインの一つである観音寺へと真直ぐに歩きました。11時頃に山門を潜ると立派な仁王門が見え左手には移築した旧小田原代官屋敷があり私たちは驚きと共に眺めました。さて、この観音寺の歴史は浅く開山は太田睦賢和尚が私財を投じて昭和25年に創建しました。三代目の住職が仏像の説明をして下さり御先祖の供養、特に墓の供養の仕方を教えてくださいました。聖観音と共に日光、月光菩薩(天平時代との伝)も拝見し阿弥陀堂の羅漢様にもお参りさせてもらいました。池の中には夢違観音(法隆寺の観音の拡大模写)も眺めました。

そしてこちらの本堂の隣にあるのが特攻観音堂です。左側には世界平和の礎の碑があり、これは吉田茂の書によるものです。海軍6418柱、陸軍2244柱が祀られています。皆で冥福を祈りました。最後にご住職と記念撮影をして長い時間、お邪魔をしたお礼を申し上げました。

12時を少し過ぎたころ蛇崩川緑道を通り10分位で馬繋神社に着きました。

12時25分頃に立派な門が見えてきました。西澄寺の山門は阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を大正末期に西澄寺に移築し山門として転用しました。鬼瓦には蜂須賀家の家紋である卍が付いています。薬師堂にお参り高野山から移植した古木の高野槙を見上げました。色付いた銀杏の木の奥には移築した西園寺家の書院の美しい屋根が見えました。

池尻大橋までバスで移動しました。13時頃やっと昼食です。ボリユウームのある中華のお店に入りました。

目黒川の源流を見ながら午後のスタートを切りました。

13時45分頃に上目黒氷川神社に入りました。天保13年(1842)の創建で旧目黒村の鎮守です。大山街道の道標がありました。富士浅間神社もありました。大橋JCT近くの246の陸橋をエレベータで上がり道路の向こう側に行き菅刈公園に行きました。西郷従道別邸跡がありました。明治天皇行幸碑も立っています。建物は犬山の明治村に移築されました、講師も筆者も犬山の近くに住んでいた頃に何度を西郷邸を見学しました。

庭を見学し10分位で北野神社に入りました。元禄年間に土の中から菅原道真公の像が発見され祀られましたが明治13年に現在地に移しました。狐の彫刻の水盤が苔むしていて古さを感じました。

15時少し前に解散することができました。東急東横線中目黒駅より上り下りに分かれて帰路に付きました。11月30日、12月1日の「太平記の故郷を巡る」の旅の要点の話を受けた人も電車に乗りました。皆さまお疲れ様でした。

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3部14回  等々力界隈を巡る

10月8日は小雨の中、12日は少し暑い秋晴れの中、上野毛駅を10時に出発しました。

上野毛通りを進み10時20分頃、真言宗覚願寺に入りました。 立派な門前の馬頭観音や庚申塔を見て本堂へ進みました。 本尊は大日如来で弘法大師と興教大師も祀られています。

南東に20分位、進むと本日のメインの一つである野毛大塚古墳に着きました。 古墳時代中期の帆立貝式前方後円噴で高さ約9メートル全長約85メートル位で頂上に上がり埋葬施設の図や説明を見ました。 多量の副葬品は東京国立博物館に収蔵されているとの事です。

6~7分で六所神社に入りました。 元和年間(1615~23)の創建で古くから上野毛集落の鎮守です。 鳥居、狛犬、稲荷神社、水神社を拝見しました。 一の鳥居は昭和12年に谷戸庚申講が寄進したものとあります。

直ぐの11時10分頃に六郷用水があり川に架かる橋の上につきました。

現在、丸子川ですが慶長2年(1597)に約15年の歳月を掛けて小泉次太夫が完成させました。 小泉次太夫は今川義元の家臣でしたが今川が滅びると土木事業に長けていたので家康の用水奉行として仕えました。

3分位で真言宗の善養寺に着き通称は榧寺と呼ばれています。 中央に大榧の樹がそびえています。 樹齢約700年から800年以上で高さ約18メートルで沢蟹が恩返しに榧の実を差出しそれを植えると大榧になったとの事です。 和尚がインドや韓国から石像を購入し庭のいたる処に展示してあり参拝者を楽しませてくれています。

中でも大観喜天像は日本在住のインド人が信仰するガネーシヤで足元にはシバリン(シバ神の化身)となっていて私たちも注目して拝見しました。 しばらく楽しんで次ぎに進みました。

11時44分頃、等々力渓谷公園に入りました。 昭和36年に住宅会社の社長により造られました。 書院と庭は造園家の飯田十基の作庭です。 縁側でお茶を頂きながら木々の庭を眺めました。

美しい冠木門を出るとそこはもう等々力渓谷です。 来年まで工事中で一部のみ楽しみました。 用賀に源を発する矢沢川の渓谷です。 すぐの右手に稚児大師堂、すこし進むと不動滝は二本の龍の口から滝の水が落ちていて左手には不動堂がありました。

石段を登り切ると真言宗明王院があり等々力不動堂とされています。 鰐口を鳴らしお詣りをしました。 見晴台に登り渓谷の空を眺めて昼食へと急ぎました。

定食屋は人気で混んでいましたが少し待って頂いたのはとてもボリユームがありました。

午後は真言宗智山派の満願寺を訪ねました。 山門の額は細井広沢の書です。 地蔵堂には一言地蔵と呼ばれる立派なお地蔵様がいらっしゃいました。 一言お願いをしましたが叶えられるかどうか・・・。 石仏群を通り進みました。 細井広沢は江戸中期の書家・儒学者・兵学・歌道・天文・算学等の博学をもって柳沢吉保に仕えました。 赤穂浪士の討ち入りの口述書の助言をしたとは驚きでした。 細井一族の墓域を見ました。 美しい大塔が間から見えました平成2年の建築で多宝塔です。

途中、庚申塔を見て進むと2~3分で玉川神社に着きました。 御神木の徳利楠は高さ約18メートルで都内第五位との事です。こちらは吉良頼康が文亀年間(1501~3)に熊野神社を勧請し明治41年に 天祖、諏訪、御嶽神社を合祀しました。

根張りの椎の木の根の張りが珍しく我々は目を見張りました。 椎の実(小さなどんぐり)がパラパラ降ってきました。

獅子山を眺めた後、等々力駅に向いました。 14時30分より少し前の解散となりました。皆さまお疲れ様でした。

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第二部14回  四谷・新宿界隈を巡る(前編・午後の部)

丸の内線四谷三丁目から新宿御苑駅まで一駅乗りました。1分ですが歩くと20分位かかったでしようか。駅に降り立ちすぐ近くに浄土宗大宗寺に入りました。右手に江戸六地蔵の三番目で座像の大きな地蔵は、銅造地蔵菩薩とあり胎内から小地蔵六体と寄進者の名簿が発見されました。

この新宿御苑一帯は内藤家の下屋敷があり、この大宗寺は寛文8年(1668)に六代当主の内藤重頼より寺領7396坪の寄進を受け寺域を拡大し甲州街道内藤新宿の中心に位置しました。閻魔堂の閻魔様と奪衣婆を覗き思わずぎよっとしました。切支丹灯籠の尊像はマリア様を象徴しているとのことです。内藤家の墓所にも入りお詣りさせていただきました。塩かけ地蔵は別名「いぼ取り地蔵」で塩を疣に付けると疣がとれその時には塩を奉納します。成受院にいりました。此処にも奪衣婆がいました。

少し歩くと正受院です。入口の堂には奪衣婆がいました。

墓塔の千手観音は珍しく元禄16年(1703)のものです。梵鐘は宝永8年(1711)のもので戦争中に供出され戦後にアメリカより返還されたものです。

13日は小雨が降ってきました。隣の浄土宗、成覚寺に入りました。ここは新宿宿の遊女の投げ込み寺でした。遊女は死ぬとさらし木綿や米俵に包まれてこの寺に運ばれました。子供合埋碑がありました。旅籠の飯盛女(遊女)が死んだ際に霊を供養しました。子供とは旅籠の主人が飯盛女を子供と呼んでいたからです。ここ成覚寺に葬られ数は約3千人との事です。白糸塚は天明期に遊女の白糸と鈴木主水が情死したという悲恋物語を坂東秀花が演じて大当たりをしたので橋本屋が建立しました。旭地蔵は玉川上水の北岸にあったものを明治12年に移したもので遊女と客の心中者18名を供養し戒名も刻まれています。恋川春町墓は蜀山人と並ぶ劇作家で句碑もありました。

花園神社には10分位歩きました。奉納名も立派な朱色の名前が並んでいる芸能浅間神社も在りました。側には藤圭子歌碑があり、きれいで淋しそうな顔が浮かびました。芭蕉句碑の「春なれや名もなき山の朝かすみ」を見ました。災禍消除の祈願の石灯籠もありました。本殿にお詣りしました。赤社殿と銀杏の黄色があでやかで花園神社にふさわしい風景となっていました。大鳥居の側の狛犬は銅製の唐獅子像で角があります。江戸末の文政4年(1821)の奉納です。

5分位で伊勢丹の前の追分交番前まで来ました。甲州街道と青梅街道の追分です。ここで買物タイムです。江戸時代にも団子屋があり追分辺で人々は一休みしたことでしよう。私たちはちよっとお高いけれど美味しそうな団子や大福を並んでお土産として買いました。

10分~15分で御苑近くの雷電稲荷神社にお詣りしました。花園神社境外社でこの辺りに江戸から2里の一里塚がありました。

すぐ側に曹洞宗、天竜寺がありました。天竜寺は徳川秀忠を生んだ西郷局の父の菩提寺でしたが局が秀忠を産んだので西郷局の菩提寺にもなりました。江戸には日本橋・本所・芝・浅草寺・上野・小石川・市谷の七個所で市民に時の鐘として時刻を知らせていました。内藤新宿は遠くて音が届かず、あらたに赤坂田町の成満寺とこちらの天竜寺を加えて九所にしました。

12~3分、歩き新宿南口に着きました。何度も通ったことがあるにもかかわらず、このような馬水槽があったとはなぜ気づかなかったのでしょうか。赤大理石の水槽で「みんなの泉」と呼ばれていました。明治35年にロンドン市より東京市に寄贈されたものです。前面上部は馬用、下部が犬猫用。人は反対側にあります。

13日には3時を少し過ぎましたが17日は2時50分に終わりました。皆様、2022年の春まで度々コロナで休みましたが、その後、年末まで沢山の場所を巡る事ができました。新年も江戸の町を楽しく巡りたいと思います。

一年間ありがとうございました。

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第二部14回 四谷・新宿界隈を巡る(前編・午前の部)

12月13日(火)、17日(土)、半蔵門駅に10時前に集合しました。13日は小雨の中の出発でした。

半蔵門の名は服部半蔵の屋敷があったからという事は誰もが知っているところです。駅から少し南下し5分位で最初の訪問地の平河天満宮に着きました。祭神は菅原道真が主神で八幡宮と東照宮(家康)が相殿の神とのことです。徳川秀忠が慶長11年(1606)に江戸城拡張の折、現在地に移したとのことです。銅鳥居の穴は大東亜戦争の米軍機機銃掃射の跡です。

6~7分進みました。麹町3丁目と4丁目にさしかかると貝坂です。ビルの壁面の黒い石板に大観堂学塾跡と彫られてありました。

高野長英は叔父の玄斎(医者)の養子になりました。江戸で蘭学を学び長崎でシーボルトの鳴滝塾で医学と蘭学を学びました。文政3年(1820)から天保元年(1830)に麹町貝坂に大観堂学塾を開いたのでした。天保10年(1839)の蛮社の獄で小伝馬町の牢獄に入れられますが牢屋敷火災で逃亡し嘉永3年((1850)に見つかり果てたとの事です。

享保元年(1716)創業の「いづみや」という酒屋の前を通り過ぎると道路の向こう側には上智大学の高いビルが建っていました。

11時半過ぎに浄土宗、宝蔵心法寺に入りました。推古天皇の頃、三河国に秦法寺として創建されました。

慶長2年(1597)に千代田区内に移り家斉の側室である阿美の方の帰依から勢力を持ったとの事です。明暦の大火で城内にあった寺社は外堀外に移転されましたが心法寺は残されました。現在もその大きさを感じながら拝見しました。門を入り塩地蔵の頭には尖った塩が盛られていました。開山当寺の三河の秦宝寺から本尊と一緒に来たという梵鐘を眺めました。冬紅葉が最後の美しさを見せてくれそのあでやかさに目を奪われました。庚申塔の青面金剛は宝暦2年(1752)のものですが、きれいな状態の姿をみることができました。又、稲垣氏寄進の大淨水盤のその大きさから目を引きました。

四谷駅を通り四谷見附跡の説明板で城門を警備する事から「見付ける」とか「監察する」ことから由来した言葉です。

外堀公園を通り過ぎ11時半頃に新宿歴史博物館に入りました。入館料は300円です。15分間で急ぎ階段を降り常設展示を見て廻りました。江戸市中や内藤新宿模型など見応えがありました。入口付近には四ッ谷見付け橋高欄は大正2年(1913)10月に開通した四ッ谷見付け橋の欄干の美しい造りを観ました。15分~20分の見学の後、2~3分で津の守坂にさしかかりました。

植木屋が多く新しい植木を運び「新木坂」の名が生まれ荒木と記されていて現在の荒木町の名が残っています。その西側に松平摂津守の上屋敷があったので「津の守坂」と呼ばれました。

路地を下り5分~6分進むと金丸稲荷神社に着きました。高須藩松平家(岐阜県3万石)上屋敷に在った神社で天和3年(1683)の創建です。高須藩は尾張徳川家の親戚で高い地位にあり十代藩主の松平義建には子供が多く尾張藩主、高須藩主、会津藩主、桑名藩主を輩出し高須四兄弟と呼ばれました。会津の松平容保はここで生まれたのです。ナツメの木が隅にありました。この木は日露戦争の旅順攻略でロシア将軍ステッセルと乃木希典が会見した水師営の民家にあった所のナツメの木です。実が下に落ちていて拾った人がいました。

どんどん下に降りていきました。津の守弁財天があり下の池が笞(ムチ)の池といいます。家康が鷹狩りの時に乗馬用の笞を洗ったことから名付けられました。そしてこの池は高須藩松平家上屋敷の庭園の地だったのです。明治時代には景勝地として花街があったとのことです。

柳新町通りを行き四谷三丁目駅近くで本日のお昼となりました。ここで50分の休憩をとりました。

午後の部に続きます。

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