京浜急行、梅屋敷駅に10時に集合し10時10分頃スタートしました


10分位で蒲田の梅屋敷公園に着きました。文政年間(1818~30)に東海道筋で「和散中」という道中常備薬を商っていた山本久三郎が梅の銘木で梅園を作り茶店を開き蒲田梅屋敷と呼ばれ約3000坪でした。
幕末、明治初期にこの場所で佐久間象山、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが国家を論じたという事です。







すぐ傍に椿神社がありました。祭神は猿田彦命です。風邪や喘息で苦しむ人が額堂にある麻の紐を首に巻くと治癒すると信じられていました。草鞋を奉納すると足の病気が平癒するともいわれました。




10時半頃に日蓮宗円頓寺に入りました。小田原合戦で討ち死にした行方直清の霊を祀る為に弟の日芸が建立しました。




隣の栄林寺も本門寺末です。こちらの開山供養塔は寛永3年(1626)造立で角柱が2石になっているところが非常に珍しいとの事です。





10時40分頃に別当寺が栄林寺の稗田(ヒエタ)神社に入りました。平安時代に編纂された「延喜式」に記載されている古社です。鳥居の前に神橋がありました。
三十番神社や境内社を見て廻りしだれ桜の下で記念写真を撮りました。










呑川の桜が満開です。稗田神社から15分位歩き松竹橋のレプリカを渡り松竹キネマ蒲田撮影所跡に着きました。大正9年に松竹は映画産業に本格参入しました。ビルの地下一階には撮影所の模型があり男優、女優の大部屋などもあり興味深々で見学しました。
約3万平方(約9千坪)で開設し約17年間、1200本余の作品が世に出されたとの事です。その後の昭和11年に神奈川県大船へと移転しました。








11時30分頃、日蓮宗行方山妙安寺に入りました。この地の城主である行方修理亮義安の夫人が夫の討死後に庵を結びましたが天正17年(1589)に日現が寺に改めました。妙安尼供養塔を拝見しました。




4月8日はお釈迦様がお生まれになられた日で花祭りの用意がされていました。甘茶を三杯づつ御かけしてお詣りしました。


すぐ傍の蒲田八幡神社は旧蒲田村の鎮守で宇佐八幡を勧請した古社です。


京浜急行蒲田駅から穴守稲荷駅まで電車に乗りました。昼食の時間ですので駅のすぐ傍の「さぬきうどん屋」や中華料理定食で頂きました


12時50分頃に穴守稲荷神社の赤い鳥居を潜りました。
羽田猟師町の名主であった鈴木弥五右衛門が開墾していましたが文化元年(1804)に海が荒れ堤防が決壊しました。そこで稲荷神社を祀ると海が静まり堤防の穴を護るという意味で穴守稲荷と名が付いたとの事です。
明治には海水浴や潮干狩り、温泉旅館や芸者の置屋まである観光地となりました。京浜急行が開通し関東屈指の流行祠となりました。








大正6年に日本飛行学校が開設され昭和6年には日本初の国営民間航空専門空港東京飛行場(羽田飛行場)が開港しました。
昭和20年9月に進駐軍による48時間以内に空港が接収され穴守稲荷社は現在地に強制移転され大鳥居だけが残りました。
稲荷山の細い階段を登り頂上でお詣りし違う階段を下り御神砂場へ急ぎました。老人が漁から帰ったら魚が無くなり湿った砂だけがあり狐の仕業と解り狐を捕らえましたが老人は哀れに思い逃がしてやりました。その後、老人の漁は常に大漁となり多くの魚と湿った砂が魚籠に入るようになったそうです。この砂を庭に撒くと先客万来となり老人は長者となりました。私たちも、ありがたく御神砂を頂きました。






羽田六丁目を少し歩くと玉川弁天がありました。社殿の中をのぞくと綺麗な弁天様がいらっしゃいました。




13時20分頃少し歩くと旧穴守稲荷神社の一の鳥居だけが立っていました。GHQが強制撤去させようとしましたが作業員が怪我をしたり工事担当者が病死したりして「穴守稲荷の祟り」と噂になり撤去を断念しましたが後日の空港拡張工事の時に現在地に移転しました。
現在は平和を祈る鳥居になっています。





空港入口というバス停が直ぐ傍にあり蒲田行のバスに3~4分乗り真言宗智山派の自性院を訪れました。立派な山門を入り本堂、牛頭天王堂、不動堂へお詣りしました。








隣には羽田神社がありました。元は自性院の牛頭天王社が発展し羽田村の総鎮守となりました。江戸時代には将軍家、島津家、藤堂家などが信仰しました。境内には羽田富士塚や夫婦擬宝珠がありました。







正蔵院は真言宗智山派で石造物がきれいに残されていました。




14時26分頃、再びバスに乗り六郷水門に向かいました。六郷用水の多摩川への排水口として昭和6年に六郷水門が完成しました。当時の金額で約7万5000円かかり地元が4万5000円を負担したとの事です。レンガとコンクリート造りの如何にも頑丈そうな造りです。








桜並木がまだ美しく私たちをお楽しませてくれました。
しばらく歩き本日最後の訪問先である六郷八幡神社に着きました。梶原景時が建久2年(1191)に寄進した太鼓橋や源頼朝が奉納した手水石、力石を見ました。そして大田区の文化財の狛犬は六郷中町の人々が願主となり貞享2年(1685)に現世と来世の二世安泰を祈って奉納しました。太目で面白い顔つきで私たちを和ませてくれました。「白旗の杉」と呼ばれた樹齢約1000年の杉が大正11年に枯れましたがちやんと御神木として枯れた杉と石碑があるのには感動しました。現在の神木は夫婦楠です。














15時半すこし過ぎましたが本日の盛り沢山の行程を大変お疲れさまでした。