7、8月の夏休みが終りましたが残暑が厳しい9月10日(火)、14日(土)、10時に三軒茶屋駅を出発しました。
西口の地上に出ると大山道の道標が立っていました。大山道は矢倉沢往還の俗称です。三軒茶屋の由来は座敷に膳を整える立派な構えの三軒の茶屋があった事からです。
5分位で天台宗の最勝寺教学院に着きました。ここは江戸五色不動の一つである目青不動明王が祀られています。
講師がこれで皆さん、全部みましたねと言いました。目黒(目黒区滝泉寺)、目白(豊島区金乗寺)、目赤(文京区南谷寺)、目黄(台東区三輪)とここ目青です。不動堂と大久保家の墓を見ました。
10時20分頃に世田谷線に乗り込みました。明治40年に玉川鉄道が開業し三軒茶屋から下高井戸を結ぶ5キロの路面電車です。
5~6分で松陰神社前駅に、それから5~6分ほど歩きなつかしい松陰神社の鳥居を潜りました。数年前に鎌倉街道歩きで印象的な場所でした。藩主にその才能を認められ九州遊学し江戸では佐久間象山に師事しましたが安政の大獄で30歳で処刑されました。
辞世の句は「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(トドメオキ)まし大和魂」
門下生として久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、桂太郞等。
松陰神社の横にある桂太郞の墓を見ました。
進むと隣の敷地に国士舘大学がありました。国士舘大学は1917年に紫田徳次郎により創設され大学設置は1958年でした。創設に協力したのは頭山満、渋沢栄一、徳富蘇峰らです。大講堂は和風で108畳の空間を有し渋沢らが壇上に上がった場所を見学する事が出来ます。
11時半頃に世田谷城趾に着きました。土塁跡が残されていて吉良治家が室町時代に築城し世田谷吉良氏八代の館跡で鎌倉又は小田原と関東を結ぶ交通の要でした。
すぐ豪徳寺に入りました。11石の朱印で泉岳寺の末です。仏殿を左に曲がると有名な招猫殿がありました。井伊直孝が雨宿りをしていたら住職が飼っていた白い猫が手招きし、それに応じて中に入ると元居た場所に雷が落ち命が助かりました。そこで菩提寺にしました。彦根のヒコニャンはこれによる事を知り一同、へえーとなりました。墓の敷地奥に井伊家の墓地があり、その一番端に井伊直弼の墓があります。後方には桜田殉難八士の墓や正室の墓もありました。
宮の坂駅裏にあるPOCO(ポコ)というイタリア料理にお店に入りました。後半に
午後は1時10分まで休憩し直ぐ側の世田谷八幡宮から始りました。
本殿や面白い狛犬を見、高良神社や力石、土俵は丁度、学生相撲を開催するので整えられていました。石段を下ると厳島神社が祀られた池には錦鯉や鴨がいて暑さから少し逃れらえた気がしました。
宮の坂駅から再び世田谷線に乗り10分位で代官屋敷跡に着きました。彦根藩領2300石の代官で大場代官屋敷とも呼ばれていました。表門、主屋、白洲などを見学しました。
ボロ市通りを曲り2時20分頃に曹洞宗実相院に入りました。天正18年、小田原北条氏の滅亡で世田谷城主の吉良氏朝は城に入れずこの寺でなくなりました。高橋是清の髭塚があります。悲話として残る常盤塚も見る事ができました。吉良頼康の側室である常盤は他の側室の讒言(ザンゲン)により19歳で自害しました。以来、この地に鷺草が咲くようなり鷺草が世田谷区のシンボルとなりました。
本日、最後の駒留八幡社は鎌倉時代に地頭である北条左近入道が夢告により馬が留まった処を社地として祀ったとの事でした。若林三丁目の渋谷行のバスが来る前の3時過ぎに本日の解散となりました。
残暑厳しい中を大変お疲れ様でした