4部3回 洗足・池上界隈を巡る

3月11日(火)と15日(土)10時に東急池上線洗足池駅に集合しました。どちらとも曇り空の日でしたが、注目の回でしたので張り切って巡りました。

目の前に洗足池が広がっていましたがまずは日蓮宗妙福寺へと進みました。途中の右側に勝海舟別邸跡がありました。海舟は官軍の本陣が置かれていた池上本門寺に赴き西郷隆盛と会見しました。その際、通り掛かった洗足池の趣ある自然に感嘆し明治24年、自ら洗足軒と名付けた別邸を建築しました。

妙福寺の入口に「日蓮上人袈裟掛けの松」の説明版がありました。

広重の「名所江戸百景」に描かれていて現在の松は4代目ということです。次に勝海舟記念館を見学しました。火曜日は臨時の休館でしたが土曜日は15分位ですが一階と二階を見学しました、65歳以上は240円でした。

建物のすぐ側に勝海舟夫妻の墓がありました。海舟は明治32年に77歳で亡くなりましたが洗足池の池畔に葬るように遺言しました。水盤は榎本武揚や嘉納治五郎ら海舟と縁のあった友人、知人が同年に建立しました。石の花立は第16代徳川当主の徳川家達の寄進です。海舟は家達の養育係でもありました。

少し進むと西郷隆盛留魂詩碑がありました。西郷の三回忌の明治12年に海舟は私財を投じて建てたとの事です。

11時に千束池弁財天に詣りました。古来より千束池守護神として小島に祀られていいましたが長い年月水没しましたが昭和に人々の夢枕に弁財天が現れ昭和7年に市杵姫命を祭神として祀りました。

千束八幡神社は宇佐八幡を貞観2年(860)に勧請した古社です。承平5年(935)に平将門の乱で平定の為に藤原北家の出身である藤原忠方が鎮守府副将軍として乱を平定し畔に館を建て池上忠方と名乗りました。後の日蓮信徒の池上宗仲の先祖という事です。

名馬「池月像」が目を惹きました。頼朝が兵の参集を待つている時に突然現れた駿馬で体に白い斑点があり、池に映る月影のようであったので「池月」と命名されました。池をぐるりと廻り写真を撮影をしバス通りまで出ました。ここで少し早いですが昼食です、インドカレー、スパゲッティ、池の畔のテラスハウスでお弁当をいただく方もいました。12過ぎのバスに乗車し道々橋で降りました。

=午後の部=

道々橋のバス停に着いたのが12時半頃でした。道々橋は呑川に架かる橋です。修繕費負担の事で池上村と対立し一村を作り道々橋村としました。「トド(魚のボラ)の詰まり」から道々橋となりました。池上村との対立の結果、行き着いた橋という意味です。

橋を渡ってすぐに樹林寺がありました。日蓮宗で開山は詮了院日義で寛永6年(1629)の創建です。道々橋村には寺がありませんでした。棉屋の娘が江戸城将軍側室の「お万の方」の腰元となり、お万の方の協力で寛永6年に樹林寺が創建されたとの説明を聞きながら立派な門を潜りました。

又、すぐに道々橋八幡がありました。正保年間(1644~47)の創建です。

椋の樹は大田区の名木に指定されています。狛犬の尾が後方から見ると綺麗に二つに分かれていました。手洗舎は獅子の形をした吐水口です。

庚申堂の中に板碑と駒形庚申塔がありました。

12時50分頃に久ケ原出世観音にお詣りしました。赤椿と梅が咲いていました。明治の始めに築地の料亭、新喜楽の伊藤きんの約4000坪の別荘がありました。

明治の政財界人、文化人、特に伊藤博文、井上薫に贔屓にされました。伊藤博文が暗殺されるとその死を悲しみ出家して如意輪観音を祀る如意庵を建て菩提を弔いました。現在は久ケ原出世観音とされています。

3~4分で西部八幡神社で三号三角点を見てその菩提寺の安詳寺を訪ねました。

13時20分頃、池上二丁目に入りました。少し歩くと日本画家の伊東深水の画室跡の梅園を外から見ました。朝丘雪路の父で昭和47年に亡くなりました。

2~3分で日蓮聖人入滅地である本行寺へと入りました。日蓮宗長栄山本行寺です。日蓮は弘安5年(1282)9月に身延山から常陸国へ湯治へ向かう途中、池上宗仲の館に立ち寄り病状が悪化し10月13日に池上宗仲邸の仏間があった部屋で亡くなりました。その死の直前に柱に寄りかかり説教をした床の間の柱の一部が残されていて私たちも触れる事が出来ました。30センチ位の黒光りのツルツルの柱を撫でました。外に出ると日蓮が入滅した時に庭先の桜が旧暦1月にも関わらす花が咲いたと伝わつており「お会式(エシキ)の桜といいます。我々が眺めた日は3月でしたがちらほらと咲いていました。

日蓮が身延山から到着した翌日の波木実長あてに礼状を書いた時に使った「御硯井戸」がありました。又、荼毘にした時の灰と骨を安置した御灰堂がありました。

少し上に上がり階段が見えました。ここから本門寺の寺領です。

狩野探幽の墓は墨壺を模った墓塔でした。狩野派の中興の祖で幕府御用絵師でした。

すぐに朱塗りの塔で日蓮の荼毘所だった場所です。この宝塔は文政11年(1828)の日蓮550遠忌法会を記念して再建されました。

ここでホンモンジ苔の説明がありました。どの苔かよく解らなかったのですが日光の当たらない湿った所で銅板葺きの屋根の下や青銅の周辺で有毒な銅に耐えられる苔で多量の銅を蓄えてる苔とのことです。

宝塔から2~3分で紀伊徳川家墓所がありました。德川家は浄土宗と天台宗ですが紀州藩に限って日蓮宗です。日蓮宗に帰依した養珠院(お万の方)の感化によるものです。江戸藩邸で死亡した藩主の家族が葬られています。紀伊徳川家は家康の10男の頼宣を祖とする55万石の大名で頼宣の生母が「お万の方」なのです。

鐘楼に吊るされている鐘は戦後に鋳造されたものです。戦前の鐘は横に置かれています。

清正供養塔がりました。德川頼宣の室(夫人)である瑶林院が父の加藤清正の38年目の忌日である慶安2年(1649)6月14日に建立しました、本門寺最大の宝篋印塔です。

園盛院の墓を見ました。園盛院とは徳川秀忠の娘の千姫と徳川忠刻(タダトキ)との間に生まれた勝姫です。11歳で鳥取藩池田光政に嫁ぎました。その後、国替えにより初代岡山藩主となりました。大名の正室は江戸在中だったので生涯、江戸藩邸で過ごしました。

幸田家の墓の後方に立派な五重塔があります、慶長12年(1607)に徳川秀忠の乳母である「岡部の局」が秀忠の病気平癒の礼として造立しました。関東で存在する塔としては最古ということです。

沢山の墓の中で講師が選んだ中に河上玄斎の墓がありました。熊本藩士で長州に移り三条実美の護衛を務め元治元年(1864)に公武合体の重鎮である佐久間象山を京都で暗殺しました。

力道山の墓は少し離れた奥の広い敷地にありました。大正13年、日本統治下の朝鮮に生まれ二所ノ関部屋に入門し関脇に昇進しましたが昭和25年に廃業しました。民族の壁で大関に昇進できなかったからともいわれています。渡米しプロレスを学び日本プロレスを設立し全国的ブームを起こしますが暴力団員との喧嘩となり怪我をして38歳の短い生涯でしたが今も多くの人の記憶に残っています。

14時50分頃に着いた万両塚は広々とした所にありました。紀伊徳川頼宣の娘で池田太守少将松平光仲の室で家康の孫にあたります。生涯、蛇が大嫌いで没後も蛇を嫌って二重の堀を施した墓域が広がっていました。建設費用が一万両かかったので「万両塚」と呼ばれています。

大東亜戦争後のシンガポールのチヤンギー刑務所でBC級戦犯129名が処刑されました。日栄院住職の田中氏(教論師として死刑に立ち会う)が中心となり建立しました。

大堂を拝し仁王門を出て加藤清正が寄進した石段を降り本阿弥光悦の書である総門を出ました。普通の人が参拝する反対の裏から表へと巡りました。

万屋酒店は明治8年に建設された町屋建築で店先に荷車や人力車が寄せられる工夫がされたいました。

最後に寄った店は少し歩いて着いた浅野屋で宝暦2年(1752)創業の和菓子屋さんに寄りました。小さな店構えで種類も葛餅がメインです。私たちのグループ15名が詰めかけるとすぐに無くなってしまう程でした。仕方なく小さなサイズを求めて家で頂くと黒密と黄な粉とは葛餅に絡んで絶品の江戸の味でした。15日土曜日は店が閉まっていて池田屋など大きな店で求めました。

みなさま、本日も大変お疲れさまでした。

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