第二部 11回 小日向・小石川界隈を巡る(後編)

50分の休憩の後に午後の部がスタートしました。伝通院の門がみえてきましたがその前に訪れたのが浄土宗福聚院です。伝通院末で大黒天(鎌倉時代の彫刻)は貴重な文化財です。こちらに珍しい唐辛子地蔵がありますが幼稚園が併設されているので土曜日のみ拝見できました。明治に唐辛子の好きなお婆さんがぜんそくを治すのに唐辛子を止められるが止められず食べて亡くなりました。人々が地蔵を建て唐辛子を供えました。喘息の人が祈願し治ると唐辛子を供えるという地蔵に沢山の真っ赤な唐辛子が供えてありました。

処静院跡の石柱は結成時にあった物です。

12時50分頃に伝通院護経寺へと入っていきました。徳川家康の生母、於大の方の菩提寺で於大の法名が伝通院なので江戸の人々は伝通院様と呼ぶようになりました。始めに於大の方のそびえ立つ墓の前に立ちました。余りに大きさ立派さに驚き、どなたかが大震災でも大丈夫だったんだねと呟いていました。

柴田錬三郎の墓は黒の球の石とデザインされた齋藤家之墓とありました。

二代将軍の長女、千姫の墓、家光の正室孝子の墓もありました。両側に同じように何体も連なっています。

浪士隊の清河三郎の墓は山岡鉄舟が建てました。新撰組の前身で文久3年(1864)2月8日、234人で江戸を出発しました。元々、攘夷論の影響を受けていたので朝廷に部隊を引き渡そうとしました。清河八郞は見廻り組の佐々木只三郎に暗殺されました。隣の墓は愛妾の墓です。八郞の孫娘は作家の紫田錬三郎に嫁ぎました。

隅にイタリア出身の宣教師ジヨセフ岡本右衛門の供養塔がありました。「ジヨセフ・キイヤラ師の霊よ、安らかに眠り給え」と刻まれています。約30分位の見学で伝通院を後にしました。

5分位行くと幸田露伴旧宅前で現在は幸田文の娘の青木玉が住んでいます。蝸牛の様な小さな家と称して昭和2年から20年まで住みました。

1時半頃、すぐに無量山慈眼寺澤蔵司稲荷に着きました。芭蕉句碑がありました。34歳の時に壱岐坂から澤蔵司稲荷方面を詠んだ句です。「一時雨礫(つぶて)や降って小石川」

元和4年(1618)澤蔵司と名乗る僧が浄土宗の修学をしたいとやってきて3年間で奥義を究めました。澤蔵司は和尚の夢枕に立ち自分は大田道灌公が千代田城に勧請した稲荷であるが。これより当山を守護する、すみやかに稲荷大明神を祀るべしと云って白狐となり消えたのです。このために元和6年(1690)澤蔵司稲荷を建立した訳です。そしてこの澤蔵司はいつも萬盛蕎麦を食べていたので現在も毎朝店から、箱蕎麦を届けているのです。下方には白狐が帰っていった穴がちゃんとありました。

伝通院の塔頭である善光寺が直ぐにありました。朱の門を覗きました。礫川山緑受院は明治に善光寺と改称され善光寺分院となりました。

5分位あるくと浄土宗源覚寺に着きました。宝暦年間(1751~64)に眼病を患った老婆がこちらの閻魔大王に祈願したら老婆の目が治り以来、好物の蒟蒻を断ち供えました。閻魔像は運慶作で玉眼の右眼が黄濁しているとの事です。境内の右手に塩地蔵が二体あります。歯で悩む人が塩を供えて祈り治ったら塩を倍にして奉納するのです。医学の発達していない昔は何でも祈って願いを叶えていたのですね。

鐘楼の鐘は元禄3年(1690)に造られたものでサイパンの南洋寺に移したものが戦争後は行方不明となり昭和40年にテキサス州オークランド市で発見され返還されました。とても立派な鐘でした。

岡埜栄泉で買物タイムをとりました。有名なのは豆大福です。私の番で丁度、売り切れといわれ他の物にしました。土曜日は店が休みなので残念でした。

2時頃、講道館の前の嘉納治五郎の像を見ました。万延元年(1860)に摂津国に生まれ、父は幕府の回船方御用を務め勝海舟のパトロンでした。開成高校に進み天神真楊流柔術を学びました。渋沢栄一の依頼でアメリカ大統領に柔術を披露しました。東京大学卒業後は起倒流柔術を学び柔道を造りました。教育者としても活躍しオリンピックを誘致しましたが昭和13年IOC総会の帰途、氷川丸内で亡くなりました。

5分位で礫川公園内の櫨の木を見ました。サトウハチロウの「ちいさな秋みつけた」の三番目の歌詞のモデルの木です。

ここで小石川後楽園を見学する人と帰る人とに別れました。

花菖蒲が美しい時でしたので見学していく人が多かったようです。武家法度で幕府への謀叛の意志がないという表明の為に大名はこぞって庭園を造りました。寛永6年(1626)水戸徳川家の祖の頼房が中屋敷に造りはじめ池を中心とした回遊式庭園で、光圀は中国趣味を加えて完成させました。

門の近く花花菖蒲が満開を迎えていましたが人が少なくゆっくりと楽しむことができました。

「藤田東湖先生護母救命之処」の碑は安政大地震で母を助けた時に圧死し、母は別の出口から出て助かったという事です。円月橋は明の儒学者、朱舜水による設計です。

主だった処を見学し最後には西門から出て石垣の石に刻んでいる刻印を見ながら駅へと歩きました。

皆様には公園の中を自由行動とさせて頂きました。無事帰途につかれたものと存じます。今後は皆様のご希望を考慮しながら歩く距離を決めていきたいと存じます。本日は3時前の解散となりました。ご協力ありがとうございます。

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