江戸名所巡り 二部4回 日本橋・京橋界隈を巡る(後編)

午後は1時頃のスタートで銀座のメイン通りに出てブランドのウインドーをチラリチラリと見ながら進みました。松屋を過ぎ木村屋のあんパンの美味しさを思いながら三越銀座店の晴海通り口から9Fを目指しました。

屋上ガーデンの隅に大きな出世地蔵立ち、横にお神籤の様な祠がありました。その中には本物の出世地蔵尊が鎮座していらっしゃいます。明治初期に三十間堀から発掘され地震、戦災の度に行方不明となりましたが地元の人がその都度見つけ出し祀りました。そして昭和43年に当地に移設されました。道ばたから百貨店の屋上に移された事から出世地蔵とよばれる様になったとの事です。その横に三井家の三囲神社が祀れていました。

三越の向いの銀座の象徴ともいうべき服部時計店の時計台の立つ和光ビルを見上げました。四丁目交差点は東京のシンボルの一つでこれを渡ると鳩居堂です。熊谷氏の子孫が寛文3年(1663)に京都で薬種商として創立し、後に中国から輸入した文具を取り扱いました。熊谷氏の紋である鳩から「鳩が居る場所」として名付けられたとの事です。筆者は主に葉書や句帳、祝儀袋を愛用しています。

銀座千疋屋やGAPの店もあります。数寄屋橋交番の前を右に行くと柳並木の碑があり並ぶように銀恋の碑がありました。「心の底までしびれる様な・・・・東京で一つ銀座で一つ・・・真実の恋の物語」石原裕次郎の低い声が聞こえてくる様です。

14時頃,西銀座の銀座インズを通り有楽町駅前の南町奉行所跡に着きました。呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋と移動し、文化年間(1804~18)から明治に至るまでここに南町奉行所が置かれました。講師は大岡忠相が行った偉業を三つあげ、その内の再審制度を作った事で庶民の支持を大いに得たのだと力を入れて語るのでした。

地上から地下へ降りました。壁面に奉行所の地下の穴蔵(地下室)の一部が展示されていました。水抜き用の穴もそのままにありました。木製の長いベンチや、石の一人用ベンチも当時のもので造られているのです。一体どれだけの人がこの事を知って利用いているのでしょうか。

有楽町の名前の元となった話を聞きました。戦国時代の大名織田有楽斎(織田長益)の屋敷がこの辺りにあった事から明治に有楽町と名付けられました。有楽稲荷は高槻藩永井飛騨守が子孫泰平と子孫繁栄を祈念して安政6年に創建した屋敷神です。

明治大学発祥の地の赤い石碑の前を通り数寄屋橋跡を見ました。

江戸城外堀に設けられた見附の一つで数寄屋門の掛かった橋の名前で数寄屋とは茶室の造りで、有楽斎の茶室で有名であった事と幕府の数寄屋役人(幕府の茶礼、茶器を扱った小吏)の公宅があった事からきているとの事です。

数寄屋橋は「君の名は」の最初の舞台になった場所です。橋は焼失し現在は公園となっています。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」。

少し歩き、みゆき通りに入りました。明治天皇が築地の海軍操練所をご覧になるために通られた道で天皇の外出を御幸(ミユキ)と呼んだ事から「みゆき通り」とされました。また将軍が浜御殿に行く時の道でもありました。

フランス貴族の門を移築した泰明小学校はとても有名な人が卒業していました。北村透谷、島崎藤村、池田弥三郎、近衛文麿等々です。門の中は校庭が広がりその向こうに校舎が建っていました。

5分位でロレックスのビルの前に石川啄木のレリーフがあり、あの若く美しい顔がありました。「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」明治18年に岩手県に生まれた啄木は明治42年から44年まで此処にあった東京朝日新聞で校正係を務め翌年に27歳の若さで亡くなりました。困窮を極めた生涯でしたが、贅をつくしたロレックスの時計を目の前にしている像に、なんと皮肉な事かと思いながら別れを告げました。

次に花椿通りに入りました。5分位で豊岩稲荷がありました。明智光秀の家臣であった安田作兵衛が江戸初期に主家の再興を願って創建したとの事です。森蘭丸を討ち取った人と言うことで、今年の大河ドラマで安田作兵衛が出るかどうか注目してみましよう。それにしてもこちらの稲荷もとても狭いです。お供え物の油揚げがちやんと供えてありました。花椿通りには名前の通りに資生堂があります。創始者は西洋風調剤薬局を明治5年に開業しました。資生とは中国の易経の万物資生から付けたそうです。椿色のビルが建っていました。

銀座の端の8丁目の金春通りに入りました。金春家は幕府直轄の能役者の最旧家でした。その屋敷あとの説明板がありました。路地には芸者が集まり花街として発展し明治に新橋芸者になったとの事です。今も金春湯や金春通りとして名前が残っています。銀座の煉瓦作りの煉瓦が残されていました。

15時前に芝御御門跡に立ちました。朝鮮通信使来府を機に新井白石の建議により札の辻より移された御門です。一回に約200人程の通信使が訪れ御三家なみの待遇で持てなしたとの事です。17世紀以降に日本から朝鮮に入った物は唐辛子、タバコ、トマト、サツマイモ等が有り驚きを持って話を聞きました。

15時、新橋親柱のすぐ側に銀座の柳の碑があり昭和29年とあり、かなり古いのにしっかりと音符も見えました。しかし曲が浮かんで来ません。柳は二世との事です。

ポルシエのビルを通り着いたのが旧新橋停車場跡でした。明治5年(1872)に新橋、横浜(現在の桜木町)間の約29キロが開通しました。日本の鉄道に携わった人々の熱意が今に受け継がれ現在世界をリードしているということにとても誇りに感じます。0哩標識を見た時は皆、口々にほお!!の声が出ていました。

鉄道博物館の内部を観た後、浜離宮へ行く人と、ここで終了する人とに別れ解散しました。約半数の方々が浜離宮を見学をしました。汐留の方へ進み始めた時に左手に踏み切りの信号があります、線路など有るはすが無い場所です。これは昔の築地市場への引き込み線の踏切でしたが残して欲しいとの強い要望により残されました。なんと云っても此処は新橋なのですから。胸があつくなる話ではありませんか。

15分位歩き浜離宮恩賜庭園の大手門に着きました。65歳以上は半額の150円です。六代将軍の家宜が本格的に改修し海の水を入れ回遊式築山庭園としました。300年の松はその時に植えられたとの事です。昨年の10月にまかれた菜の花がもう咲いていました。紅梅が咲き始めていました。ビルを背に東京ならではの風景です。大きな山茶花が散りながらも満開の華やかさを南に向けていました。

海岸まで進み私たちは将軍お上り場を眺めました。慶喜が大阪城より逃げ帰り、ここから上がったのです。水鳥がゆうゆうと遊んでいました。目の前は東京湾です。

その後は鴨場を見物しながら辺りの散策をしました。平成30年(2018)に復元された鷹の御部屋(約2億3千万円の費用を掛けた)をゆっくり拝見しました。将軍の待つ場所と大名の場所の違いの説明を受けました。

外に出ると池の真中の中島の御茶屋がとても美しく水に映えていました。もう一度、300年の松を見て浜離宮恩賜庭園に別れを告げました。

土曜日は一日中冷たい雨の中をお疲れ様でした。三寒四温のこの頃ですが、二月も元気よく皆様とお会いできます様にと願っております。

年の初めの江戸名所巡り、皆様お疲れ様でした。

 

智恵子への千代紙寒の雨の店      慶月

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です