第十五回江戸名所巡り 小岩・柴又界隈(後編)

 

参道に歴史のある店で食事をとり、名物の草団子を食べて(買って)13時半前後に帝釈天の仁王門前に集まりました。柴又帝釈天は日蓮宗経栄山題経寺です。

日蓮の自刻の帝釈天像と題目が両本尊との事です。帝釈天にお参りすると小遣銭に不自由しないとの言い伝えがあります。私たちもきっとあやかれる事でしよう。天水桶の稲妻の寺紋が輝いています。その下には猿の彫刻があります。これは日蓮自刻の帝釈天が発見された日が庚申日だった事によります。浄行菩薩は優しいお顔で皆さんに浄らわれていました。この菩薩は法華経の聖者で、日蓮は生まれ変わりと言われました。

本堂の前に四方に長々と伸びている瑞龍の松がありました。日栄上人がこの下に霊泉が湧いていたので庵を設けたという事です。

さて、本堂外壁に施されている日蓮上人一代記の彫刻は大正・昭和の一流彫刻家たちが15年かけて完成させたもので400円の拝観料で、20分間邃渓園の庭を含めて大急ぎで見学しました。立体感とその精密さには驚くばかりでした。大鐘楼は関東一という大きさで青木理学博士の作で昭和30年に奉納されました。

天保年間創業の川魚料理の川甚の横を通り江戸川の土手の上まで登りました。下を見ると草原の向こうに矢切の渡しがあります。とても見晴らしが良く江戸時代の渡し船に思いを駆せました。

数名を残して早速降りて見に行きました。矢切の渡しの流行歌の石碑がありました。「つれて逃げてよ・・・・ついておいでよ・・・・夕ぐれの雨が降る矢切の渡し・・・」演歌の歌詞が心にしみてきます。江戸の昔、このように逃げる様にこの渡しを向岸へと渡ったのでしようか。手形を持たない人の渡しですが松戸側、柴又側どちらも同じ土地を所有していた人が渡し場を経営していたとの事です。

土手を降りて少し南下した所に山本亭がありました。大正・昭和初期の和洋折衷の建物で書院庭園も観賞しました。手造りガラスのゆがみも趣きがあり欄間や照明器具、洋門のマントルピースや家具調度品、見るものすべてにため息が出て戦火や災害をよく免れたものだと感心しました。

隣がいよいよ寅さん記念館です。二つの館の共通券を買うと450円で見られます。昭和40年に建設されました。寅さんとその周りの人物像、失われた良き時代に日本人は郷愁を感じるのでしようか。どこかに居そうで今では絶対に見つかりそうにない寅さんをずっと愛してやまないのでしよう。接している山田洋次ミユージアムもぐるっと見てみました。二分の一サイズの昭和レトロの町並も楽しく柴又界隈の心に残る思い出となりました。

帝釈天の中を通り抜け真言宗豊山派真勝院へ入りました。瓦屋根のどっしりとした山門を潜りました。密教では大日如来の知恵を五つに分け五智如来と言います。一つ一つの穏やかな像を拝見しました。万治3年(1660)村の名主が造立したとの事です、風化も少なくしっかりとしたものです。

本堂の前に中国菩提樹が黄色の花を咲かせていました。インド菩提樹はクワ科の常緑高木ですが中国菩提樹はシナノキ科の落葉高木で細長い葉状の苞(ホウ)を出すとあります。午前中と午後、両方の菩提樹を見る事ができ仏様のご意志を感じさえ致しました。

15時過ぎに線路を渡りました。電車が見えるすぐ傍に柴又八幡神社がありました。平安初期の大同元年(800)の創建です。拝殿の右横に柴又観農事績碑を見ました。天明年間の飢饉。洪水で窮状を極めた農民に荒れ地改良を勧め村の復興に努めた名主の七朗右衛門に代官は褒状と銀を村人には褒米を与えました。その後も村人の子孫は、先祖の努力、功績を教訓としてこの碑を建てました。奥まった場所に嶋俣塚という古墳があり、古墳時代後期のもので埴輪や馬具が出土したとの事です。柴又一丁目を進みました。

15時半近くに浄土宗源照寺に入りました。杏葉の紋が入口に輝いていました。こちらには箏曲山田流の始祖で箏浄瑠璃とも言われ新しい音楽を創案し、検校の地位を得た山田検校の墓がありました。浅草山谷の源照寺に葬られましたが関東大震災ののち昭和3年にこの地に移転されました。石の扉のある重厚なお墓でした。

隣にあるのは曹洞宗海島山崇福寺で寺紋は酒井家の剣酢漿草(カタバミ)です。酒井氏は徳川四天王の一人です。その菩提寺という訳で墓所を拝見しました。

5分位で本日最後の青龍神社の怪無池に着きました。大きな池には白い水連が咲いています。よく見るとその上を鷭の親子が歩いていました。父と母と5~6羽の子供たちが可愛くてほほえましく講師の説明よりも気を取られてしまいました。旱魃の時には村人がこの池に雨乞いをしたら雨が降り村人を救ったので榛名神社から神を勧請して青龍神社としたという事です。


 

一路、高砂駅を目指しました。8分位進むと道路の向こう側に立派な山門に鐘楼はあるけれども鐘がない寺がありました。極楽寺の住職が使い込みをして廃寺となり平成に大光明寺として再建しました。

駅の傍の天祖神社も見ながら歩きました。鳥居が住宅の壁に着きそうなぐらいに接近していました。

4~5分で駅に着きました。木曜日の方々は少し遅くなってしまい申し訳ありませんでした。皆さまお疲れ様でした。本日も数々の新しい体験をする事ができました。どうか鷭の子供達が無事に育ちますようにと願いながら帰路に着きました。7月、8月は猛暑が予想されるのでお休みとさせて頂きます・9月第16回(第一部最終回)で元気よくお会い致しましよう。

 

柴又や寅さん旅へ梅雨晴れ間    豊治

虐待の話哀れや汗流る       豊治

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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