第十五回江戸名所巡り  小岩・柴又界隈を巡る(前編)

令和元年6月11日(火)、13日(木)、22日(土)の三日間,第15回目の江戸名所巡りを行いました。先月解散した江戸川駅10時集合で時間通りに出発しました。

22日(土)は15日が豪雨になつたので日延べしての開催でした。出発してすぐに、喫茶店の前に安永4年の伊予田観音道道標がありました。正面は浅草観音への道、右は船橋へ、左は岩槻の慈恩寺迄七里とありました。

そして5分まっすぐに北上すると道の左手に正真寺境外観音堂がありました。御堂の中の小さな仏壇に祀れていて私たちはガラス越に拝見しましたが一寸八分は余りに小さく輪郭だけで想像するのみでした。どなたかが拝見できただけで良かったとおっしゃっていました。室町時代末の里見義豊、義俊の守り本尊で常に冑の中に収めて戦場に赴いたとの事です。

まっすぐに又5分位歩きました。今度は道の右手に真言宗豊山派遍照寺真光院がありました。真光院の前の石仏の前にドラえもんらしき石像が建てられていました。これはご住職が子供達に石像仏に関心を持ってもらいたい願いから建てられたと云う事です。昭和47年にコンクリートの本堂となったとのことです。

左手奥の墓地の中にある高尾太夫の墓を拝見しました、墓石に軟調院聖諦遊践信女と彫られていて遊の字が戒名に使われている事に驚きました。この高尾太夫は水戸藩の為替御用達水谷六兵衛に身請けされてから数々の男性遍歴の後に鎌倉屋という茶屋の前で亡くなったとの事です。

奉納が高尾太夫とも実家の田中家とも言われる心なしか優しいお顔の閻魔大王像を、本堂の中に入れて頂き拝見させてもらいました。間近でお詣りもできとても豊かな心持ちになりました。

 

10時半過ぎ、鎌倉街道と古東海道であったという真っ直ぐな通りがありました。右に小岩遺跡通りとある道路を進みました。7~8分で真言宗豊山派無量寿院十念寺に着きました。土曜日は太師堂の扉が開いていて中を拝見することができました。庚申塔は道標を兼ねていました。板碑は折れていましたがガラスケースの中に保存されてありました。

 

奥の敷地にも進ませていただき文久4年(1864)に五つの村の人々により造立された宝篋印塔の筆子塚を拝見しました。ご住職が人々に学問を教えていたとの事です。向かい側には「みぬぐい地蔵」というのがあり手ぬぐいで痛い場所を拭くと御利益があるとの事です。

上小岩の広い通りを進みました。5分くらいで上小岩親水緑道へと入りました。木陰にほっとしながら進みました。11時頃、上小岩遺跡に着きました。昭和27年、当時の小岩第三中学校生徒を中心に中村先生が発掘調査をして土器を発見しました。この辺りに弥生時代後期に人が住みはじめ、古墳時代には大きな集落があったことが出土品から分ったという事です。それ以降も中世には荘園そして新田が開かれていったという事です。

遺跡を後にして通りをまっすぐ進み左へ曲がると3~4分で上小岩天祖神社に着きました。寛永年間に上小岩村の鎮守として創建しましたが現在は三社宮とあります。天照大神、八幡、春日神社とのことです。屋根がすべて瓦ぶきでしたが本殿の屋根は被い屋という事で瓦にしているという事です。普通、本殿は瓦葺にしないのが神社建築の原則だそうです。国常立尊が祀られていたのでそっと中を覗くと石碑がみえました。

鎌倉四丁目を通り、柴又街道へ出てしばらく歩くと真言宗豊山派大珠院に着きました。寛永3年(1626)の創建です。宝篋印塔は徳川吉宗の次男である田安宗武が側室のために建立しました。本堂の前にインド菩提樹の植木鉢があり、お釈迦様はこの木の下で悟りを開かれたという形の良い葉を眺めました。木曜、土曜は坊守さまから御本尊を表したお地蔵様の御守護を頂戴しました。六地蔵を見ながら大珠院を後にしました。

 

通り角に柴又街道の道標がありました。近くの郵便局長さんが建てたとの事です。右に曲がると郵便局があり、その奥に鎌倉八幡宮がありました。こちらで水分補給を致しました。江戸初期に鎌倉から移って来た人がこの地を開墾し、鶴岡八幡宮の分霊を氏神として祀りました。曲金村(現在の高砂)から元禄10年(1697)の検地により独立して鎌倉村となったそうで、今も鎌倉という地名が残っているのです。

北総鉄道の新柴又駅がありました。どなたかが日本一高い電車だよとおっしゃいました。

薬王山医王寺にお昼頃着きました。応永4年(1397)に下総国一円に赤目病が流行し、足利義満がそれを知り天皇に申し出て仁和寺の僧に薬師瑠璃光如来を奉じさせ寺を建立させたとの事です。仁王門の中の仁王は現代の仏師明慶の作品です。埃を付けたままで古さを醸し出しているかのようでした。享保2年(1718)の不動明王は下方に童子が彫られていて珍しいとの事です。本堂の左手にある蕎麦地蔵は大変珍しいものです。室町時代の住職が四国遍路の折、病(脚気)となり村人に蕎麦粉を恵まれ練ろうとしたら水底の砂金が付いて来たという話が残っています。昭和11年の東京麺業組合からセイロと蕎麦粉のついた地蔵が寄進されたとの事で面白く眺めました。

2~3分で浅間山噴火慰霊碑の前に立ちました。天明3年(1783)7月5日~8日にかけて大爆発が起こり関東地方一帯が大きな被害を受けました。利根川の上流の吾妻川で山津波と降る灰でダムができ、それが決壊して大洪水となり死者2000人余を出したそうです。柴又村の人たちが建てた供養塔です。

そしてお昼の帝釈天へと急ぎました。10分少しで寅さんとさくらの像が建つ広場があり奥に柴又駅がありました。悲しい「おりつ地蔵」を見たのち、心は帝釈天参道へと早まりました。

50分から1時間の休憩を取り思い思いに昼食と買物を楽しみました。とらやには「男はつらいよ」の撮影した階段が残っていると聞き写真に収めました。

後編に続きます。

 

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