江戸名所巡り 第十二回 白鬚、橋場界隈 後編

50分から1時間の休憩を取り午後の部のスタートです。

隅田川沿いを歩き7~8分で対鴎荘跡に着きました。三条実美の別荘跡で実美は閑静な橋場の風景を愛していたといいます。明治政府の太政大臣後に内大臣を務めた人で明治6年に征韓論を巡る対立の板挟みとなり病み静養をしていた場所です。明治天皇行幸碑が建てられていました。

隅田川の堤には説明板があり、この橋場の渡しは伊勢物語の在原業平が渡河した渡しであると書かれていました。また頼朝が船を並べて船橋を渡った事から「橋場」という名が残ったという事です。

白鬚橋を渡り江戸名所図会では朝日神明社とある石浜神社に入りました。聖武天皇の勅願により神亀元年(724)に創建されました。関八州の庶民が伊勢神宮の替わりに詣でたという事です。丁度おかめ桜が満開で春らしい風景を満喫できました。色々な石碑を見る事ができました。新しい獅子の口の賽銭箱はひときわ目立っていました。白狐祠や富士遙拝所もありました。

本殿にお参りしたので伊勢神宮に詣でたつもりになり、華やかなおかめ桜に分かれを告げました。

石浜城跡は室町時代、武蔵千葉氏の居城でしたが後北条氏滅亡により廃城となりました。

又、白鬚橋を見ながら川に沿って進むと右手奥に天台宗不動院がありました。樹齢700年の大公孫樹(銀杏)は葉がない姿でしたが手をあてて大木からの気をもらいました。

2~3分程進むと世界救世教教祖生誕の碑がありました。大本教の幹部であった岡田茂吉が起こしました。特徴は、浄霊という「手かざし」の行為と自然農法推進、芸術活動を行う事です。箱根や熱海に大きな美術館があります。通りを曲がると自然農法で育てた野菜などを売っている店がガラスの奥に見えましたが、気になりつつも先に進みました。

4~5分で廃寺となったらしい松吟寺跡に古い民家とお化け地蔵がありました。享保6年(1721)建立で浅芽ケ原のお化け地蔵と呼ばれていたものが総泉寺参道の傍を経てこちらに移ってきました。お化けと言われる理由の三つを説明されました。①笠の向きが時々変わった②高さ3メートルの大きさだから③白井権八との伝説。何にでも謂われはあるものですね。

7~8分歩き少し入り組んだ所に平賀源内の墓が築地塀の内にありました。曹洞宗総泉寺が板橋に移転する時に源内の墓だけは残して欲しいという地元の要望があったという事です。源内は享保13年(1728)讃岐国高松藩志度に生まれました。江戸に出て田沼意次や諸藩の大名とも交流したそうです。本草学者、地質学者、蘭学、医学、浄瑠璃、戯作者、発明家等マルチな才能ぶりには驚くばかりです。土用の丑の日に鰻を食べる習慣をつくったとも言われています。源内の墓に寄り添う小さな墓は、従者の福助のものといわれています。

10分位進み橋場地区から清川地区へと入っていくと玉姫稲荷がありました。天保宝宇4年(760)山城国稲荷山より勧請したとの事です。新田義貞が北条高時追討の際に戦勝祈願したそうです。木曜、土曜は神社の好意で拝殿の中の弁財天を見せて頂く事ができました。色彩やかなお姿と光背も面白く、玉姫命女神の棟方志功の絵が艶やかさを加えていて嬉しく拝見致しました。

そばに小さな口入稲荷があり小さな狐の人形が並んでいました。花柳界の女性がいい旦那が欲しい時に狐の人形を買って頼みます。旦那が見つかると雄雌揃えて人形を納めるそうです。その狐が今戸焼きです。14時半を少し過ぎました。

また橋場の方に戻り妙亀塚を見ました。こちらは梅若伝説の梅若の母が梅若を探していて、死亡した梅若を知り悲しみのあまり鏡ケ池に入水したのを哀れみ妙亀塚を建てたということです。

直ぐに曹洞宗出山寺に着きました。采女塚は説明板だけでしたが吉原の遊女と若い僧の悲恋の話が残っていました。花大根という諸葛菜が花盛りでした。其角の句碑「くさぐさの今にのこるや人の口」は石の凹みもなくなり読み取ることができませんでした。

通りに戻ると千賀ノ浦部屋の看板が目に入りました。元関脇の舛田山の優しい顔が浮かぶと同時に貴乃花部屋の消滅で移籍した貴景勝を思うのでした。

千賀ノ浦部屋のすぐ横に曹洞宗福寿院があり、こちらでは安藤東野の墓を見ました。江戸中期の儒学者で柳沢吉保に仕えていた時に、たまたま立ち寄った将軍綱吉に講議をしたという話があります。早くに隠居し肺を病み37歳で死去しました。

2~3分で浄土宗保元寺に入りました。昔は法源という字だったと聞きました。

本堂の右手に榎本武揚一族の墓がありました。家の歴史から武揚の生涯が石に刻まれていました。明治維新政府に仕えるまでここ保元寺に隠居していたことを知りました。

桑田立斉の墓がありました。日本で最初に天然痘の予防接種を実施した人です。五輪塔は梶原氏祖の鎌倉(梶原)景通古塔という事です。

さて、ここ保元寺での一番の収穫は本堂の中の高麗国伝来と伝えられる海月光大明菩薩像をこちらの住職の御好意で拝見できた事です。黒くても右手を優雅にあげられて、お顔はふくよかで腰のくびれが美しすぎました。

土曜日は住職のお話まで聴く事ができ、阿弥陀如来様の御名を呼べば救って下さるということでした。

15時半近くに日蓮宗長昌寺に寄りました。この辺りは寺町であったという古地図の説明を受け享保5年(1720)鋳造の鐘を見ました。鐘ケ淵に沈んだ鐘についての伝説が刻まれているとの事です。ミモザの花が真っ盛りで、なぜお寺にあるのかと思いつつ明るい春を感じました。

浅草病院(今戸二丁目)人権プラザ周辺は銭座跡という事で都鳥の名所でもありました。スカイツリーが運動場の向こうに見えています。

明治天皇が三条実美の対鴎荘に行幸した帰途の際、伊達宗城邸で休息の時に詠まれた歌です。「いつみてもあかぬ景色は隅田川難美路の花は冬もさきつつ」。

15時45分頃、浄土真宗称福寺に入りました。門を入ると本堂までの両脇に植え込みがきれいに手入れされていました。寛永6年(1629)創建で水道橋から寛永19年(1643)に当地に移りました。江戸後期の儒学者亀田鵬斎の墓がありました。朱子学を批判したので官学に反抗する筆頭として処分されたとのことです。

16時前、今戸神社の鳥居を潜りました。応神天皇、イザナギノミコト、イザナミノミコトが祭神です。鎌倉八幡宮と同じく京都の石清水八幡神社を勧請して創建しました。真円形の絵馬が特徴です。今戸焼きの職人が奉納した狛犬があるのも今戸焼き発祥の地で江戸名物の瓦や招き猫、狸や狐の人形を作っていた事が分ります。小さく沖田総司終焉の地碑があり、大河ドラマの俳優の美しい顔が浮かんできました。招き猫の置物の何と多い事でしようか。土曜日はいきなり雨が降ってきて早々に後にしました。

一軒だけ残っている今戸焼店を左に見ながら進みました。慶養寺の仁王像を見て通り、吉原に通じる山谷堀を右に見ながら浅草へと急ぎました。

アサヒビールのビルが金色に輝いています。北側の壁にスカイツリーが映っているではありませんか。頑張って歩いたご褒美の様に私たちは感じたのでした。

16時30分、浅草駅付近に近着きました。皆様、本日も盛り沢山で大変お疲れ様でした。

頼朝も祈願の社花開く   豊治

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