江戸名所巡り  第十回  浅草・上野界隈(前編)

新年おめでとうございます。本年も楽しく元気に江戸名所を巡りましよう。

1月15日(火)、17日(木)、19日(土)合わせて50名の方々と浅草、上野を巡りました。スカイツリーライン浅草駅を10時に出発しました。火曜日は曇り、木、土は冬晴れのお天気に恵まれました。

雷門入口へと進み天婦羅の三定の前を通ります。天保8年(1837)創業で三河から江戸に来た定吉で店名が「三定」です。栗むし羊羹の龍昇亭西村も道路の向こうに見えています。雷門が見えました。外国人でごったがえすいつもの光景です。

広重の絵の提灯は新橋の職人が作ったので橋の字がみえ雪景色がとても綺麗です。現在は雷門の字になっており新橋の字は本堂の提灯に残っています。

 

慶応元年の火災で焼失、その後、昭和35年に松下幸之助の寄進したものでちゃんと名前が入っていて、下側の龍の目にタッチすると縁起がよいとの事で皆で次々とタッチしました。

右側の仲見世商店街の裏の道をスイスイと歩き久米平内堂に着きました。平内は千人切りをしたとも云われています。臨終に際し、これまでに犯した罪を償うために自分の像を埋めて多くの人に踏んでもらいたいと遺言したそうです。「踏みつけ」が文付けとなり恋文と変わり縁結びの神として信仰を集めるようになりました。

その後方にある大きめの濡れ仏の二尊仏を拝見し、東にある弁天堂へ移りました。石段の手前に芭蕉句碑があり「くわんのんの いらか見やりつ 花の雲」の下方に線刻の芭蕉像が刻まれてありました。又、右手には「上野か浅草か」と詠まれた浅草寺の時の鐘がありました。

弁天堂は御本尊の弁天が白髪なので老女弁天と云われているそうです。本日は拝見したいものが多く、少しかけ足の感がありますが急ぎ宝蔵門へと歩みを進め、浅草寺の立派な扁額を見上げてから赤い仁王像を見ました。

裏側に廻ると大草履が新しく奉納されていました。手洗舎の龍に囲まれた沙喝羅竜王像は明治36年高村光雲作で均整のとれた美しさを感じました。

やっと本堂にたどり着きました。又、天井絵は龍と天女です。中国の観光客は日本にこんなにも龍が多いことに、どんな風に感じているのでしようか。ともあれ一人一人しっかりお詣りを致しました。絶対秘仏という聖観音は1寸8分と云われていますが見た人はだれもいません。

 

以前は工事中であった一葉観音に近づく事が出来ましたが美しいと云われているお顔がどうしても分からず残念でした。蓮の花びら一枚に乗り櫂を持たれて笠をかぶったお姿です。

西方にある銭塚地蔵は、庭でみつかった銭の壷を親は元の場所に埋めて働かずに銭を手にするとろくな事はないと息子たちに教え、子供たちはそれに応えて家は栄えたとの事で、その後、銭の壷の上を塚として地蔵尊を祀り金運の仏として信仰されるようになりました。

石橋の下の青い水に泳ぐ鯉たちにぎょっとしながら外国の人と眺めました。石橋は浅草寺に東照宮が造営された時に神橋として紀伊浅野家和歌山藩主が寄進したとのことです。その右手の西仏板碑は源頼朝の家臣の鎌田三郎西仏が建立したもので江戸時代に台風で三つに折れたものを修復していました。

六角堂は本尊が日限地蔵で日を定めて祈願するのです。境内最古(1618)の建造物です。

影向堂と、家光が名付けたという橋本薬師堂にもお詣りしました。

江戸名所図会にもある六地蔵石燈籠はお堂の内にあり図会のようにはよく見えませんでした。

江戸時代に女性の守り神として信仰された淡島堂に女性たちはしっかりと手を合わせました。針供養碑や子供が潜れば虫封じや疱瘡除けになるという石造物を興味深く拝見しました。

南方に少し進んで、半七の碑がありました。中山道の宿場の贄川から出て来て目明しになった半七が記録していたものを元にして、岡村綺堂が書いたものが半七捕物帖です。綺堂の庭にあったガマ蛙の置物が大きくて面白く笑いを誘いました。

三匠句碑は中央に芭蕉の句、両側に宗因と其角の句が刻まれていました。筆者としては右手にある正岡子規の句碑も気になりました。木曜日は瓜生岩子さんの命日で供養がなされていました。

又、本堂の近くにもどり鳩ポッポの碑、迷い子しらせ石標の説明を聞き第一回目の日本橋を歩いた時の一石橋傍にあったものを思い出しました。五重塔は昔は反対の場所にあったそうですが修復の後でとても鮮やかに輝いていました。

15分位のお買い物タイムを取りました。待ち合わせは雷門です。資料にある江戸時代からのお店を中心に見ましたが観光客の多さにままならない歩みでやっと着いた時には丁度集合時間となっていました。

11時20分頃、雷門に別れを告げ駒形堂へと南下しました。浅草川を往来する舟から見ると御堂が白駒が駆けて行くように見えて駒かけの御堂が転じて駒形堂になったという説に相応しく感じます。広重の川と空、ホトトギスに駒形堂の屋根を配した絵を観賞しながら吉原の二代目高尾太夫の「君は今 駒形辺り ほととぎす」を思い出しました。この駒形堂を中心とした十町余の川筋が魚介殺生禁断の地であったという事が昭和2年の工事で発見された浅草観音戒殺碑で解りました。

2,3分で駒形どぜうの越後屋が見えました。いい匂いがただよっています。大火で類焼した時(1806)に「とじょう」の四文字は縁起が悪いとして「どぜう」の三文字にしたとの事です。久保田万太郎の句碑「神輿まつまのどぜう汁 すすりけり」が入口脇にありました。実家も近くでこよなく浅草っ子を愛したといいます。

諏訪神社を過ぎ路地に入ると蔵前神社がありました。石清水八幡宮で五代将軍綱吉が江戸城鬼門守護として建立したとの事で勧進相撲が行われたそうです。鏡里や千代の山の名にはかすかに覚えがあり、栃錦は栃若時代を築いた人ですが大関の時代に奉納したのだなあと思いながら見つめました。

すぐに浄土宗正覚寺(榧寺)がありました。大きな榧の木がある草庵を囲碁好きの聖が営んでいて榧の木をかけて囲碁を打ち負けてその木が移されたとの事です。しかしそれが火伏の秋葉権現ゆかりの者であり、あの明暦の大火でも焼けなかったという逸話のある寺です。

少し西に進み川柳横町に入って行きます。柄井川柳の句碑(墓)がある天台宗龍宝寺に着きました。川柳の始祖である柄井川柳は檀家でありこの辺りの名主だったということです。「木枯らしや 跡で芽を葺け 川柳」の石碑が柳の下にありました。

 

丁度、お昼になり疲れも感じてきましたが上野までもうしばらく頑張らねばなりません。

浄土宗誓教寺に入ると左手におだやかそうな顔の葛飾北斎の胸像がありました。右手の墓地に私たちは入れて頂き、お墓を拝見しました。辞世の句は側面に「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」と正面には「画狂老人卍墓」とありました。どなたかが「立派な絵を残して下さりありがこうございました」と手を合わせていらっしゃいました。天があと5年生かしてくれたら本当の絵が描けるのだがと云ったとの事で、享年90歳でした。

真言宗高田派唯念寺は月光院(七代将軍家継の生母)の実家であり寺紋は葵の紋です。大奥年寄の絵島は月光院の右腕と云われました。絵島生島事件を起こした際、絵島は月光院の力添えで高遠藩お預けとなったとの事です。

 

12時半近くに浄土宗永昌寺に着きました。こちらは講道館発祥の地碑があります。嘉納治五郎が学習院教授時代に永昌寺に下宿していた時、住職の許可を得て講道館を起こし門人9人から始めたそうです。

通りを行くと下谷神社の赤い鳥居が見えてきました。奈良時代に創建された江戸で一番古い稲荷との事です。こちらでは横山大観の龍の天井絵を見る事が出来ました。木曜日は神事が行われていて申し訳ありませんでした。色彩は暗いのですが流れるような体の線にうっとりとしました。

門の側に黒田清子様の和歌が貼られていてお正月にお母様と過ごされた頃の思い出の和歌かも知れないと我々は鑑賞致しました。またこちらには寄席発祥の地碑もありました。

13時頃、やっと上野の西郷さんの像が見えてきました。陸橋を登り降りると上野の江戸時代からの老舗がポツポツとありました。

鰻の伊勢栄、櫛屋の十三屋、福神漬けの酒悦。斎藤茂吉、坪内逍遥、樋口一葉、森鴎外の作品に出てくる蕎麦屋の蓮玉庵。薬の守田治兵衛商店、組紐の道明等々をお昼前にかけ足で見て廻りました。

木曜日は運良く蓮玉庵に入る事ができました。お昼のメニユーでかき揚げ付きの蕎麦が千円を見つけました。量はすくな目でしたがとても美味でした。やかんで出された蕎麦湯が印象的でした。

後編に続きます。

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